21

『黒山羊』が『番犬』を殺したらしい――。


 その噂は瞬く間に全世界を駆け巡った。

『黒山羊』自身が認めたことで、それは噂から真実となった。


 真実を知るものは少なく、少女も頑なに語ろうとはしなかった。

 中にはそれをどうにかしようとした者もいたが、少女自身がそれを喜ばなかった。


* * *


 ――二度とその薄汚い顔を見せるな!


 エイヒムの名物食堂の女主人ペトラが吐いた言葉だ。


 ペトラは英雄ハイジが死んだことを信じなかった。

 さらには愛娘とも呼べる『黒山羊』のリンが殺したという事実を認めようとはしなかった。


 ただ、いつもなら戦争から帰ると真っ先に挨拶に来るはずの『黒山羊』がいつまで経っても顔を出さないことに痺れを切らし、ギルドまでやってきたペトラは膝から崩れ落ちることになった。


「事実よ。間違いなくこの手で殺したわ」


 余計な情報が何ひとつ混じらない、純粋な事実の結晶。

 それは、時に聞くものを傷つけるほど冷たく硬い。


 ペトラは食い下がった。

 あの男が簡単に死ぬわけがないのだ。

 きっと何か理由があったはずだ。

 ペトラにはもある。

 もしも予想通りだとすれば、自分はこの少女を慰めなければならない。


 しかし、少女は頑なに口を閉ざし、英雄が死ぬ瞬間について何も語ろうとはしなかった。

 まるでそれを口にすることが禁忌タブーであるとでも言うように。


 確実なことはひとつだけ。

 間違いなく英雄はこの少女に殺されており、少女が生き残ったということだ。


 その事実に耐えきれず半狂乱になったペトラは、少女にありとあらゆる罵倒を浴びせかけた。

 少女は強い意志を込めた瞳に涙を浮かべ、震えながら最後まで目をそらさずにその言葉に耐え続けた。

 口を一文字に唇を引き締め、母のように慕った女性が放つ言葉をただ黙って聞いていた。


「違うなら何か言い返してみせろ!」


 怒鳴りながらも、ペトラは信じたかった。

 言い返して欲しかった。


 少女のことを理解したかったのだ。

 この少女がどれほどあの男のことを愛していたのか、そんなことは自分が誰よりも知っているのだから。


 しかし、その死の瞬間について頑なに口を閉ざす少女を見て、つい疑ってしまったのだ――もしや、死ぬのが恐ろしくなって、ハイジを殺してしまったのでは、と。


 だから、少女の口から否定して欲しかった。

 信じさせて欲しかった。

 このまま愛させて欲しかった。


 しかし、少女は震える声で呟いた。


「言うことは何もないわ」


 ペトラは耐えきれず激昂し、叫んでしまった。


「あぁ、わかった、わかったよリン……! ハイジから奪った命でせいぜい生き長らえればいい! ただし、殺されたくなきゃ二度とその薄汚い顔を見せるな!」

「……わかった」


 少女は一瞬言葉をうわずらせたが、どうにか即答してみせた。

 全身に力が入り震えている。睨むようにペトラを見つめる瞳から涙がこぼれ落ちる。引き締められた唇はへの字になって嗚咽が漏れぬように耐えていた。


 それは、獣の様に大声で泣き喚きながら立ち去るペトラとは対照的だった。

 ペトラの姿が見えなくなると、少女はぽつりと呟いた。


「……ペトラ、大好き」


 しかしその言葉を耳にしたものはいなかった。


 こうして『黒山羊』が、生き残るために英雄ハイジを殺して生きながらえたという噂は、間違えようもない事実として世界中に広まった。


* * *


『黒山羊』は暇さえあれば戦場へ赴いた。

 より苛烈な戦いを選んで足を運ぶことで、少女がどれほど戦争が好きで、強敵を求めているのかと皆は噂した。


 そんな中、ヘルマンニは懊悩する。

 リンの覚悟は理解した。尊重したい。

 しかし、ハイジが生きていれば何と言うだろう。


 ハイジが生きていた頃、ヘルマンニは幾度となく「リンに目をかけてやってくれ」と頼まれた。

 ハイジが頼み事をするとは珍しい。

 最初は好奇心もあって、なるべく目立たない様に少女が危険な目に遭わないように気を配った。

 少女と付き合って親しくなるにつけ、ヘルマンニは個人的にもこのどこか危うい少女のことを気にかけるようになった。


 目的を見つけると、他のことが何も目に入らない。

 例えば、孤児を助けたいと思いたったら、その瞬間にはギルドに冒険者登録する。

 常人には耐えられるはずもない厳しい訓練を、傷だらけになりながらも涼しい顔でこなしてみせる。

 ハイジを追いかけて傭兵になったかと思えば、戦場に躍り出る。


 突飛もない行動力。

 異様なまでの躊躇のなさ。

 自分自身の危険を一切考慮しない思い切りの良さ。


 なんだこいつは。

 女ハイジかよ。


 ヘルマンニはますますこの変な少女を放っておけなくなった。

 対して、ハイジは安心しきっている ヘルマンニおれに任せておけば大丈夫だ。そう確信しているのだ。


(しょうがねーなぁ)

(面倒臭いやつが二人に増えやがった)


 だからヘルマンニは陰になり日向になり少女を助けた。

 少女自身は気づいていないが、周りが見えないその性格のせいで危うい状況になりかけたのも一度や二度ではない。


 ヘルマンニにとっても娘のような少女。

 実際年齢は親子程も離れているが、これでも英雄と呼ばれた二つ名持ちだ。そんな自分に対して何の緊張もなく生意気な態度で接してくる少女のことを、ヘルマンニも好ましく思っていた。


 その少女が、世界から誤解され、傷ついている。

 しまいには一番懐いていたペトラにまでも拒絶され――もはや満身創痍なはずだ。


 黙っていていいのだろうか。


 約束したとはいえ、それが正しい選択とは思えなかった。


 しかし、とヘルマンニは迷う。


 他ならぬリンが、むしろその状況を望んでいる。

 死の瞬間にどんな話をしたのかなんて知る由もないが、それを独り占めするために、あらゆる誤解に甘んじている。

 その苦痛を、寂しさを大切に独り守り続けている。


 所詮第三者である自分が、その不可解な幸福を壊していいものなのだろうか。


 答えはまだ出ない。


* * *


 ヴィーゴは不機嫌そうに頬杖をついている。

 目の前にはヴォリネッリの中枢からの密書が開かれている。


 ――『黒山羊』を放置していて大丈夫なのか

 ――もし『黒山羊』が危険分子なら、内々に処分するべきではないか


 噂を聞きつけたのだろう。

 言外に少女を内々に処分しろと書かれてあった。


(何も知らん阿呆どもが)


 危険といえば、あれほどの危険分子は存在しないだろう。

 アレは一度ひとたび目的を見つければ障害などものともしないバカだ。

 猪突猛進に、他のことは一切考えずに突進する。

 しかも始末の悪いことに、『番犬』から魂の継承を受けたことで、『黒山羊』にはそれを突破するだけの力があるのだ。


(クソっ、どこかの誰かにそっくりだ)

(あんな気狂いども、まともな人間である俺にどうしろというんだ)


 幸い『黒山羊』にはエイヒムへの帰属意識がある。

 今のところ目的は戦場にしか存在せず、故に傭兵ギルドに対しても従順だ。

 絶対に妙なちょっかいをかけるべきではない。

 もしも『黒山羊』が敵対すれば、もはやギルドの手には負えないのだ。

 下手するとアレ一人で世界を滅ぼしかねず、世界にはそれを止める手段を何ひとつ所持していないのだから。


(おいハイジ。お前とんでもないものを残していきやがったな)

(残された者の都合も考えろ、大馬鹿やろう)


 ヴィーゴは何もかも面倒くさくなった。

 いつものように貴族らしく言葉を飾ることもやめ、ただ事実だけを手紙に認めた。


 あとは少女の心の安寧と、世界を滅ぼされないことを精霊に祈るだけだ。


* * *


 エイヒムには数多くの娼館がある。

 高級なものから低級なものまで千差万別、所属する娼婦や男娼も含めればそれなりの数になる。

 いくつかの領では奴隷売買が禁止されているものの、仕事にあぶれるものや身寄りをなくす者は後を立たない。体を切り売りする他に生きる方法がない人間は少なくないのだ。


 ヴォリネッリでは一般的に娼婦も真っ当な職業として認識されてはいるが、それでも上流階級や小金持ちの商人たち、ことにその妻や娘――女性たちには下賤な存在だと思われている。


 ライヒ公爵のように孤児や娼婦にも(良くも悪くも)分け隔てなく接する合理主義者もいなくはないが、どうしても日の当たる存在にはなり得ず、故に娼婦や男娼は自分達のことを卑下する傾向にある。


 そんな中、一人の『はぐれ』の少女が一筋の光明を残していった。


 自分達のことを「戦士」と表現したのだ。


 屈強な兵士たちに塗れて武勲を残し続けた少女が、自身も兵士であるにもかかわらず、娼婦たちに「誇りを持って人生と戦え」と説いたのだ。


 ちなみにその少女には、立派なことを言った自覚は全くない。

 単純に自らの女性的魅力のなさが嘆かわしく、娼婦たちの格好良さが羨ましかっただけだ。

 この世界の女性はみな立派な体格をしている。背も高いし、肩幅も広い。胸や尻も発達している。

 対して、チビでやせっぽちで陸上体型の日本人である。

 そもそも大人の女性扱いはされないし、良くて「小さくて可愛い子供」である。


 少女は拗ねて言った。


「皆んな堂々としててかっこいいね、まるで女王様みたい」

「いいんだ、体型がお子様でも。戦場に出れば関係ないもん」

「お互い自分に向いた戦場で戦いましょう、戦士として」


 それは「女性的魅力では勝ち目がないので、お互いの領分を守ってお付き合いしてきましょうね」程度の何気ない一言だったが、それは娼婦たちにとって大いなる勇気となった。


 感動した娼婦は他の娼婦たちにその言葉を伝え、伝言ゲームのように瞬く間に広まった。


 ――曰く、かの『黒山羊』は自分達のことを戦士と呼んだ。

 ――戦場では誰もが平等だ。女王のように気高く生きろ。


『黒山羊』自身にはそんなことを言ったつもりは毛頭なかったが、いつしかそれは精霊からの赦し言葉のように信仰された。


 かくして、精霊の国アースガルズ出身の黒髪・黒目の少女は娼婦たちの心の拠り所となった。

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