東京綺譚伝ー光と桜とー

第一章 桜と出会いと ー前編ー

　その人は光を背に、ゆっくりこちらを振り返りました。

　十五、六歳くらいのその男の子は、背が高くてすごく綺麗（きれい）な顔立ちをしていました。

　午後の新宿中央公園。

　背後に建（た）っている超高層ビルの窓と言う窓が、西に傾（かたむ）き掛けた陽光を反射して眩（まぶ）しく輝き、男の子を照らしていました。

　満開の桜の花吹雪の中、その男の子は背筋を伸ばして凜（りん）と立ち、花びらを飛ばしている風が黒い髪を揺らしていました。

　白い道着に落ち着いた黄緑色の袴（はかま）姿のその男の子は、光の中で私の顔を見ながら近付いてきました。

　私はただ、その男の子に目を奪われていました。

　私と同い年くらいのその男の子は、私の額に手を翳（かざ）し何か呟（つぶや）きました。

　私には男の子の言葉が聞き取れませんでした。

　その男の子はすぐに踵（きびす）を返すと公園の出口に向かって歩み去りました。

　如月（きさらぎ）六花（りっか）は胸の動悸（どうき）が収まらないまま自分の家に駆け込んだ。

「ただいま！」

　靴を脱ぎ捨てながら母に声を掛け、玄関から自分の部屋へ向かった。

　部屋に入るとベッドの上で寝ていた猫のシマを抱き上げた。

　シマはキジトラという黒と焦げ茶の縞模様の日本猫だ。

　腹の部分が白い場合はキジトラシロと言う。

　シマも腹の部分は白いから正確にはキジトラシロである。

「ね、聞いて、シマ。今すごい事があったんだよ！」

　シマはどうでも良（よ）さそうな顔で目を瞑（つぶ）ってしまった。

　六花は構わず話し始めた。

　中学の始業式からの帰り道、六花が横断歩道を渡っていると、思わず見惚（みと）れてしまうほど綺麗な女の子が向かい側から歩いてきた。

　年は六花と同じか少し上だろう。

　真っ直ぐでさらさらの長い黒髪をなびかせていた。

　うわ、可愛い……。

　すごい綺麗。

　スタイルも良（い）い。

　足、長い。髪、つやつや。

　天使の輪がある。

　モデルみたい……。

　少女と擦（す）れ違い、歩道に向かって歩いていると道路の白線の上に何かが落ちているのに気が付いた。

　近寄ってみると掌（てのひら）に収（おさ）まるくらい小さな巾着だった。

　かなり色が褪（あ）せてところどころ擦（す）り切れている。

　まず間違いなく長い間大切にされていたものだ。

　巾着に付いている布の紐が切れていた。それで落ちたのだろう。

　布にタイヤの痕跡（こんせき）は無いから、そうなると信号が変わった後に通った人が落とした物という事だが、今渡ったのはあの女の子しかいない。

　巾着の口の側（そば）に茶色い小石が有った。中に入っていた物かもしれない。

　六花が小石と巾着を拾い上げた時、クラクションの音がした。

　信号が赤に変わっている。

　歩道は目の前だし大通りだから引き返す訳にはいかない。

　六花は横断歩道を渡りきってから振り返った。

　女の子が向かい側の歩道を歩いて行く。

　六花は、じりじりしながら信号が変わるのを待った。

　その間に女の子は中央公園に入っていった。

　信号が変わると中央公園に向かって駆け出した。

　公園の入り口は細い道で上り坂になっている。

　両側には木が植わっていて土と木の匂いがした。

　小道を通って広場に出た所で辺りを見回したが女の子の姿は見えなかった。

　左に別の出口へ向かう小道が有るがそれならわざわざ信号を渡ってから十二社（じゅうにそう）通りを右に歩いていって中央公園に入るより横断歩道を渡った後まっすぐ進んだ方が早い。

　六花は考え込んだ。

　新宿駅に向かうなら超高層ビル方面に行くだろうけど、待ち合わせならデッキテラスか池（自称「滝」）だよね。

　それとも散歩かな。

　中央公園はかなりの広さが有る。

　散歩となるとどこへ向かったか見当が付かないから端から端まで見て回るしかない。

　ふと公園の反対側に有る喫茶店が目に入った。

　そっか、お金がある人ならお店で待ち合わせも有り得（う）るんだ。

　どっちへ行こうかと思案に暮れながらとりあえず超高層ビルの方へ向かっていると、いきなり悪寒が走った。

　振り返るとそこには身（み）の丈（たけ）三メートルは有りそうな大きな鬼が立っていた。

　すぐ近くに居（い）るように見えるが鬼は植え込みの樹の前に立っている。

　その樹までかなり離れてるから大き過ぎるせいでそう感じるだけだ。

　巨大な体躯（たいく）。赤い肌にボサボサの髪から突き出している二本の角。口から垂れている赤黒い液体。

　鬼の手に握られてる物がなんなのかは脳が考えるのを拒否していた。

　大きな鬼の周囲に小鬼が何匹もいた。

　小鬼と言っても大鬼の側にいるから小さく見えるだけで一メートル以上はある。

　大鬼がこちらへ向かってきた。

　ほんの数歩で距離が詰（つ）まった。

　逃げなきゃ！

　そう思うものの足が竦（すく）んで動けなかった。

　鬼の手が伸びてきた。

　捕まる！

　思わず目を閉じた刹那（せつな）、風を感じた。

　目を開けると凄（すご）い速さで鬼が遠離（とおざか）っていく。

　地面に立たされてようやく誰かが自分を抱（かか）えて移動したのだと分かった。

　鬼から百メートル以上離れている。

　一瞬だった。

　六花を鬼から引き離してくれた人は数歩移動すると、いつの間にか持っていた弓を構えた。

　白い胴着に落ち着いた感じの黄緑色の袴。

　六花と同い年くらいの男の子だった。

　彼は立て続けに矢を放った。

　矢に貫かれた小鬼が次々と消えていく。

　この距離から小さくて動き回ってる鬼に当てられるなんて……。

　一矢（いっし）も外してない。

　全て的中（てきちゅう）させてる。

　大鬼が咆哮（ほうこう）を上げた時、別の少年が駆け寄って長い刀を振り下ろした。

　鬼が飛び退（の）く。

　その少年は鎧姿だった。

　大鬼は振り下ろされた刀の側面を腕で弾（はじ）くと少年の方に足を踏み込んで長い爪を振り下ろした。

　刀の少年が後ろに跳（と）ぶと同時に弓の男の子が鬼に駆け寄った。

　いつの間にか弓から刀に持ち替えていた。

　弓の男の子は一気に間合いを詰めて懐に飛び込むと刀を横に払った。

　鬼が背後に跳んだ。

　そこに待ち構えていた鎧姿の少年が刀を一閃（いっせん）した。

　鬼が両断される。鬼は絶叫を上げて跡形もなく消えた。

　小鬼も全て居（い）なくなっていた。

　六花は信じられない思いで二人の少年を見詰（みつ）めていた。

　弓の男の子はこちらに無表情な顔で近付いてきて手を翳（かざ）し何か呟いた。

　木の陰から気配を消して様子を窺（うかが）っている者が居（い）る事には六花も少年達も気付いていなかった。

「鬼はともかく、男の子達も近くを歩いてる人達には見えてなかったみたい。どうしてかな」

　六花はシマを抱（かか）え直した。

「すっごく格好良（かっこよ）かったんだよ！　特に弓を持ってた男の子」

　にやけた顔でシマの背に頬擦（ほおず）りした。

　シマは顔を顰（しか）めたが六花は気付かなかった。

「また会えるかな。会えると良（い）いな……」

　シマは身を捩（よじ）って六花の手から逃れると、またベッドの真ん中で丸くなった。

　六花は物心（ものごころ）が付いた時から鬼が見えた。

　何度か知ってる人が消えた。

　消える少し前に必ず小さな鬼が纏（まと）わり付いていた。

　それで鬼に狙われてると忠告したり、行方不明になった後に「鬼に連れていかれた」と言っても誰も取り合ってくれず、周囲の大人達は六花の方を警戒するようになった。

　大人達の感情は子供達にも伝わり、六花は皆（みんな）から避（さ）けられるようになった。

　学区制のため保育園から中学校までは皆（みな）同じ学校に通うから必然的に六花を敬遠する子達と一緒に学年を重ねていく事になる。

　同じ保育園だった子達が他の保育園や小学校から来た子達に六花の話をするから中学生になっても誰も近付いてこなかった。

　それでも学校でお喋りくらいならしてくれる子も居（い）たが数は少なかった。

　そう言う子は大抵霊感が有ったりして怪奇現象を信じていた。

　学校が終わった後で会うような親しい子は居（い）なかったから六花は友達と遊んだ事が無い。

　六花はこの春、中学三年生になった。

　ずっと友達と遊びに行ったりする事に憧（あこが）れていた。

　同じ小学校や中学校の子が居（い）ない高校なら友達が出来るかもしれない。

　そう思って志望校は家から通えるぎりぎりまで遠い高校にした。

　幸か不幸か友達と遊んだりしないので勉強する時間は嫌というほどあった。

　この三年間、どこの高校でも受かるようにと必死で勉強してきた。

　残念ながら数学の成績が奮（ふる）わないので上位校は無理そうだが。

　翌日の朝――。

　六花は信じられない思いで学校の玄関へ向かっていく少年を見ていた。

　昨日助けてくれた子だ！

　弓を持っていた男の子だ。

　長い刀を持っていた子は一緒じゃない。

　転校してきたのかな。

　この学校の制服着てるし、前から同じ学校だったのに知らなかっただけかな。

　だとしたら下級生？

　男の子は校舎の中に入っていった。

「如月さん、顔、真っ赤だよ、どうかしたの？」

　ぼーっとして少年の背を見送っていた六花に、隣のクラスの男子が声を掛けてきた。

　同じ民話研究会に入っている鈴木だ。

　鈴木はこの学校で六花に声を掛けてくれる数少ない友達の一人だった。

「な、なんでもない」

　六花は首を振ると玄関に向かった。

　六花は教室で再度目を見張った。

　弓の男の子が六花の隣の席に座っている。

　六花は窓際の列の五番目だった。

　隣の列は四番目までしか無かったからその後ろの席の彼が隣になったのだ。

　やっぱり転校生だったんだ。

　嘘みたい、うちのクラスだなんて。

　そのうえ隣の席だなんて自分の幸運が信じられなかった。

　先生に紹介されるだろうからそれで名前が分かるはずだ。

　ホームルーム中、六花は期待して待っていたが教師は何も言わなかった。

　そして、そのまま授業が始まってしまった。

　え……？

　どうして転校生を紹介しないの？

　それも変だがクラスメイトが誰一人疑問に思っていないようなのも不思議だった。

　他の皆（みんな）は事情を知らされていて自分だけ聞いてないのだろうか。

　クラスメイトは誰も話し掛けてこないから教えてもらってなくてもおかしくないが、教師まで六花にだけ黙っているなんて事が有るだろうか。

　それとも先生は誰かに六花にも伝えるように言ったのにその子が教えてくれなかったのだろうか。

　休み時間、クラスメイト――主に女子――のお喋りに聞き耳を立てていると、どうやら皆（みんな）は彼が前から居（い）たと思っているらしかった。

　そんな訳ない。

　隣の席の子を覚えてないなんて有り得ない。

　それもこんな格好良（かっこい）い子なら尚更（なおさら）だ。

　そういえば一昨日、鬼から助けてもらったとき通りすがりの人達は鬼だけじゃなくて、この子達の事も見えてなかったみたいだけど、それと何か関係あるのかな。

　でも今は皆（みんな）この子のこと見えてるし……。

　話の断片を総合すると彼の名は卜部（うらべ）季武（すえたけ）と言うらしい。

　卜部季武（うらべのすえたけ）って確か頼光四天王（らいこうしてんのう）にいたよね。

　卜部って名字だから頼光四天王にあやかって季武って付けたのかな。

『徒然草（つれづれぐさ）』を書いた兼好の名字も卜部（うらべ）だが、彼は吉田兼好で通っていて本当の名字が卜部だと知っている人は少ない。

　それとも「けんこう」や「かねよし」より「すえたけ」の方が格好良（かっこい）いと思ったとか？

　六花は訳が分からないままクラスメイト達のお喋りに耳を傾（かたむ）けていた。

　昼休み――。

　クラスの女子のリーダー的存在の石川が取り巻きを引き連れて季武の横にやってきた。

「季武君、お昼一緒に食べない？」

「馴（な）れ馴（な）れしく名前で呼ぶな」

　季武は冷たい声で石川にそう言い放（はな）つと席を立ってどこかへ行ってしまった。

　石川がムッとした表情でそれを見送った。

　取り巻き達が口々に「感じ悪～い」などと言っていた。

　六花は鞄から弁当箱を包んだランチクロスを取り出すと教室から出た。

　一緒に食べてくれる友達が居（い）ないので、いつも屋上の階段室の陰で一人で食べているのだ。

　放課後――。

　六花は急いで自分の教室へ向かっていた。

「遅くなっちゃった」

　鈴木達と民話研究会で話をしていて時間を忘れてしまった。

　民話研究会は一階の図書準備室で行われている。

　民話研究会に入るのは妖怪などに興味がある子ばかりなので、六花が幼い頃に鬼を見たと言っていたと聞いても誰も気味悪がったりしなかった。

　民話は大好きだし皆（みんな）普通に話してくれるから出席するのは楽しかった。

　六花は窓の外を見て溜息を吐（つ）いた。

　西の空は橙黄色（とうこうしょく）に染まっていた。

　ところどころに浮かんでいる雲の上の部分はもう暗い色になっている。

　逢魔（おうま）が時（とき）。

　鬼が見えやすくなる時間帯である。

　六花が鞄を持ってドアに向かおうとした時、季武が教室に入ってきた。

　他に誰も居（い）ない。

　石川さんみたいに綺麗な子でさえ相手にされなかったんだから私なんか口も利（き）いてもらえないよね。

　そのまま擦（す）れ違ってドアから出ようとした時、まだ助けてもらった礼を言ってなかった事を思い出した。

　六花は戸口で足を止めて振り返った。

「卜部君、昨日はありがとう」

「え……」

　季武が戸惑ったような表情を浮かべる。

「中央公園で助けてくれたでしょ」

「覚えてるのか？　じゃあ、俺が昨日まで……」

　季武は途中で言葉を切った。

　最後まで言わなかったのは藪蛇（やぶへび）を恐れたのだろう。

　やっぱり、いなかったんだ。

　六花が頷くと季武は顔を逸（そ）らせた。

　小さく舌打ちしたようだ。

　黙ってた方が良かったかな。

　でも助けてもらってお礼言わない訳には……。

「それ、人には言わないでくれ」

　季武が六花の方を向いて言った。

「うん」

　六花は頷くと教室を後にした。

　喋（しゃべ）っちゃった！

　しかも二人だけの秘密まで！

　刀の少年も居（い）るがそれはとりあえず置いといて良（い）いだろう。

　六花は飛び上がりたい衝動を必死で押さえた。

　どうしよう、どうしよう、どうしよう！

　ほんの二言三言（ふたことみこと）話しただけなのに、こんなに嬉しくて走り出した鼓動が止まらない！

　早く帰ってシマに報告しなくちゃ！

　生まれて初めて鬼に感謝したい気持ちになった。

　六花は母に頼まれていた買い物も忘れて家に向かって駆け出した。

　夜――。

　季武は貞光（さだみつ）と公園のベンチでコンビニ弁当を食べていた。

　弁当に桜の花びらが落ちてくる。

　昔なら風流で済（す）んだんだけどな。

　これは散々車の排気ガスを吸ったものだ。

　八重（やえ）と月の下で桜を見た事を思い出した。

　名前が八重だったから庭に八重桜を植えて毎年春になると二人で眺めていた。

　季武は弁当の上の桜の花弁を見た。

　ま、食っても死なないからと、おかずごと口に入れた。

「頼光様（あのひと）から追加の指令だ。例の猫がまた人間界（こっち）に来てるってよ。ミケって奴（の）」

　貞光が言った。

「あれ、猫じゃないだろ」

　季武が答えた。

　人間界（こちら）の動物ではないのだ。

　当然、普通のイエネコではない。

　ミケは大喰（おおぐ）らいで異界の餌だけでは満足出来ないのか良く人間界（こちら）にやってきては反（は）ぐれ者（もの）を喰っていた。

〝反（は）ぐれ者（もの）〟とは異界（むこう）から人間界（こちら）へ人間を喰いに遣（や）ってきている異界の者の事である。

　異界にも人間界の生物同様、多様な生物種がある。

　人間界で人を喰った者は等（ひと）しく反（は）ぐれ者として討伐対象になる。

　人間界に来て人を喰っているのは日本では主に「鬼」や「土蜘蛛」などと呼ばれる種族である。

　季武達はそうした反（は）ぐれ者を討伐する為に異界から送り込まれた討伐員（とうばついん）だ。

「見付けたら捕まえて送り返せとさ」

　貞光の言葉に、季武はどうでも良（い）いという風に肩を竦（すく）めた。

　翌日の授業中――。

　六花が隣を窺（うかが）うと必ず季武と目が合って二人揃って前を向く、と言う事を繰り返していた。

　私を見てるんじゃないよね。

　きっと窓の外を見てるのだろう。

　季武が自分を見てるなんて自惚（うぬぼ）れたら笑われる。

　昼休み――。

　六花は弁当箱の入ったランチクロスを持って立ち上がると屋上へ向かった。

　屋上へ出て階段室の脇へ回った所で足を止めた。

　いつもの場所の奥に季武が座っていた。

　横に緑色のエコバッグがある。

　足音に気付いていたのか季武がこちらを見上げていた。

　反対側も誰もいないはずだからそっちへ……。

　踵を返そうとした時、

「二人くらい座れるだろ」

　季武が声を掛けてきた。

　えっ!?

　隣に座って良（い）いって事!?

　どうしよう、ホントに良（い）いのかな？

　一瞬迷ったが、こんなチャンスは二度と無いだろう。

　怒られたら反対側に行けば良（い）い。

　六花は思い切って隣に座ると膝の上でクロスを開いて弁当箱を開けた。

　レタスの上に載せた鶏の唐揚げ二個に、プチトマト、それに春雨サラダとタコさんウィンナ。

　食べようとして、ふと顔を上げると季武が弁当をじっと見ていた。

　六花も弁当に目を落とした。

　別に変なものは入ってないよね？

　季武に目を向けると未（ま）だ弁当を見ている。

　六花の視線に気付いた季武が顔を上げた。

「それ、自分で作ったのか？」

「うん」

　食べたそうに見えるのは気のせいかな。

　わずかに躊躇（ためら）った後、六花は勇気を奮（ふる）って、

「あの、良かったら食べる？　口に合うか分からないけど」

　勘違いだったりしたら恥ずかしいと思いつつ訊ねた。

「良（い）いのか？」

「うん！　食べて！」

　季武の返事が嬉しくて勢いよく弁当箱を差し出した。

「じゃあ、これ」

　季武がエコバッグを六花に渡した。

「ありがと」

　六花がバッグを受け取って中を見ると大量のパンが入っていた。

「これ、夕食の分も入ってるの？」

「え？」

　弁当を食べようとしていた季武が怪訝（けげん）そうな表情をした。

「昼の分だけだ」

　男の子ってこんなに沢山食べるんだ。

　六花はカレーパンを取りだして袋を開けると一口食べてみた。

「あ、おいし。一度食べてみたかったの」

　そう言って季武の方を見ると、もう弁当を平らげてしまっていた。

「それだけじゃ足りないでしょ。私は一個で十分だから」

　これだけの数のパンが一食分なのでは六花の弁当箱に入っていた量では全然足りないだろう。

　六花は残りのパンを季武に返した。

「ご馳走様（ちそうさま）」

　季武もそう言って弁当箱を返してきた。

　どうしよう、聞いてみようかな。

　怒られるかな。

　六花は弁当箱を受け取る時、意（い）を決（けっ）して、

「いつもパンなの？」

　と訊ねた。

「普段は弁当だけど今日は売り切れてた」

　どちらにしろ買ってるのだ。

「じゃあ、明日（あした）から私がお弁当作ってきてあげようか？　一人分も二人分も同じだし」

　季武が六花を見詰（みつ）め返した。

　返事が返ってくるまでの短い間、六花の心臓は胸を突き破（やぶ）りそうなほど飛び跳（は）ねていた。

「いいのか？」

　季武の言葉に六花はホッとして胸を撫で下ろした。

「うん！」

　良かった、怒られなかった。

　六花は弁当箱をクロスで包むと季武の邪魔にならないように教室へ戻る事にした。

「お前、見鬼（けんき）だろ」

　立ち上がり掛けた時、季武が前を向いたまま言った。

「けん、き？」

「鬼、見えるだろ」

〝見鬼（けんき）〟とは鬼が見える人の事らしい。

「暗示に掛からないって事は陰陽師（おんみょうじ）か何かの一家か？」

「ううん、普通のサラリーマン。ね、どうすれば鬼を倒せるの？　倒せるようになれば怖くなくなる？」

　六花は季武の横に膝を突（つ）いて訊ねた。

「普通の人間には無理だな。あれを倒せるのは同じ異界の者だけだ」

「そっか、残念」

「随分（ずいぶん）さらっと流したな」

『同じ異界の者』と言う言葉を指してるのはすぐに分かった。

「季武君は怖くないから」

　しまった！

　名前で呼んじゃった！

　怒られるかと思って身構えたが季武は気にしてないようだった。

「家は？　陰陽師じゃないなら結界（けっかい）は張ってないだろ」

「無いと思うよ。だから前は鬼がベランダにいる事もあったし」

「前は？」

「うん、猫を飼い始めたら出なくなったの。鬼って猫が苦手なの？」

　季武は訝（いぶか）しげな顔で、

「いや」

　と答えた。

　二人の会話はそれで終わった。

　六花は夢見心地で廊下を歩いていた。

　足取りが弾みそうになるのを必死で押さえる。

　嬉しい、嬉しい、嬉しい！

　きっと今、足が床に付いてない。

　今なら空も飛べる！

　季武君にこれから毎日お弁当食べてもらえるなんて！

　顔がニヤけてるのは分かっていたから俯（うつむ）いて人に見られないようにした。

　季武君は沢山食べるから多めに作らなきゃ。

　今日は唐揚げやウィンナだったから明日はお魚にしよう。

　サラダはポテトサラダで良（い）いかな。

　ご飯は炊（た）き込みご飯にしようか、それとも三色ご飯にしようか。

　失敗しないように慎重に作らなきゃ。

　教室に入り机に弁当箱を置いた時、ケースの中で箸がカタッと鳴って六花はハッとした。

　お箸（はし）！

　季武君が使ったんだった！

　季武君が使ったお箸。

　このまま一生洗わないで飾っておきたい！

　でも、カビが生えるよね。

　つい冷静に現実的な事を考えてしまった自分を引（ひ）っ叩（ぱた）きたかった。

　とは言え季武が使った箸にカビが生えたり変な臭いがしたりするのは嫌（イヤ）だ。

　あ、季武君の分のお弁当箱も買わなきゃ。

　いっぱい食べるみたいだし、うちにあるお弁当箱じゃ小さいよね。

　早く家に帰ってシマに報告したい！

　午後の授業はずっと上の空で気付いたら放課後だった。

　放課後――。

「如月さん、今日民話研究会に出る？」

　六花が帰り支度をしていると、鈴木が廊下から声を掛けてきた。

「あ、鈴木君、ごめんなさい。今日は用があるの」

　六花の返答を聞くと、

「そう」

　鈴木は残念そうな顔で行ってしまった。

　その夜――。

　六花は母親にねだって夕食をカレイの煮付けにしてもらった。

　魚はそれほど好きでは無いので弁当に入れるのは前の晩が魚料理で、かつ翌朝まで残っている時だけなのだ。

　だから上手く作れる自信がない。

　かと言ってまた肉料理にしたら魚料理が作れないと思われてしまいそうで――実際作れないのだが――どうしても明日は魚にしたかったのだ。

「こんなに作ったって食べきれないでしょ」

　と母に言われたがそこを拝（おが）み倒した。

　明日の分の弁当の下拵（したごしら）えをすると自室に戻った。

　六花がベッドに飛び乗るとスプリングと一緒にシマが弾んだ。

　六花はシマを抱（かか）え上げる。

　シマが嫌そうな顔で六花を見た。

「シマ！　ね、聞いて！　明日から季武君にお弁当作ってあげる事になったの！　あ、季武君って言うのは――」

　六花はシマに季武とのやり取りを話し始めた。

「美味しくなかったら作ってきて良（い）いなんて言わないよね。美味しいって思ってくれたんだよね。ね、そう思うでしょ？」

　六花はシマの背に頬ずりした。

「シマ～。嬉しいよ～」

　シマは我関せずと言った表情で欠伸（あくび）をした。

　お料理を教えてくれたお母さん、ありがとう～！

　六花は心の中で母に礼を言った。

　迷惑顔のシマを抱きしめて幸せに浸（ひた）っていた。