023

 2年生が始まって既に5月。

 結局、リア研の新入生はいなかった。

 まぁひとりで先輩と世界語講座の時間を確保できたのだ、僥倖だと思っておく。

 だから世界語は順調なのだが・・・これまで順調だった他の教科で問題が出始めた。


 ひとつは歴史。

 教育課程の歴史の範囲があまりに広い。

 日本史、世界史を網羅していくので覚える事が多いのだ。

 俺は理系にしてはそこそこ勉強していたので、それなりに理解していた。

 だから2000年以前の古代史は十分に理解できた。

 ここまでは1年生の範囲。

 2年生前期は近代史、つまり2000年以降、2158年までの歴史が範囲。

 2030年までは記憶に残ってるから良いよ?

 それ以降の未来史って・・・。

 リアルの未来なのか、ラリクエスタッフが妄想した未来なのか。

 覚えることで俺の記憶がかえって混乱する。

 だって考えてもみてくれ。

 「あなたの未来はこうです」って言われて覚えるんだぜ?

 しかもテストに出る。

 それが現実と異なる話かもしれない。未来なんて分からないから。

 嘘や妄想だと思ってしまうと、今現在、目の前で動いているラリクエの現実が否定される。

 でも本当だと思ってしまうとリアルの俺の行末がこうなってしまうと思い込んでしまう。

 宗教じみた気分になるのだ。

 だから腑に落ちにくい。

 そんなわけで覚えるのにとても苦労をしている。

 第三次世界大戦、勃発しているのを知りたくはなかったよ・・・。


 もうひとつは科学。

 俺の知っている科学の範囲は、高校物理、生物、化学、地学の範囲。

 中学生なのに高校の範囲をやるのか、というのは置いておいて。

 経験がある範囲は覚えるのは容易い。

 そう、ここに経験がない分野が入ってくるのだ。

 宇宙力学とか、魔法力学とか。 

 高校や大学みたいに数式を駆使して理解するわけではないのだけれども。

 俺の知らない超常現象を取り扱うため、やはり腑に落ちないのだ。

 頭が拒否していることは理解が遅くなる。

 これも悪循環の予感がする・・・大丈夫かな。

 

 要するにどちらも知識の貯金を使い切ったのだ。

 自然と勉強時間を増やしてカバーすることになる。

 結果、俺はリア研の部活時間のすべてを勉強時間に当てるようになってしまった。

 21時以降もほとんどを勉強している気がする。

 本当に勉強漬けの日々を過ごしていた。



 ◇



『ねぇ、本当に大丈夫? 顔色悪いって』


「大丈夫。ほら、あんまし話すと勉強時間、無くなっちまうから」


『もう・・・分かった。今度のパスタの会の時に、もう少し話を聞かせて』


「その・・・パスタの会、1回くらい飛ばせねぇかな?」


『え? 駄目よ、そんなの』


「・・・ほんと、追いつかねぇんだよ」


『・・・。私を説得するなら、九条を先に説得してちょうだい』


「九条さんを説得すりゃ、飛ばしてくれんの?」


『そうね、考えるわ』


「分かった。それじゃ、今日はこれで」


『あ、ちょっと・・・』



 俺はPEの通話を終了させた。

 何か言いたげだった橘先輩も電源を切ってしまえば追求はできない。

 週に2回とはいえ、橘先輩と1時間近く話すのはそれなりに時間を使っている。

 勉強に不安が残る俺の現状としてはもう少し頻度を減らしたいくらいだ。

 今月のパスタの会は次の日曜日。

 それまでに九条さんと話をして、今回はパスさせてもらおう。



 ◇



 翌日。

 俺はPEで九条さんに夕食後に話がしたい旨の連絡を入れた。

 PEで連絡が来るかと思っていたら、九条さんが直接、俺の部屋に来た。



「お邪魔します」


「ごめん、急に呼んだりして」


「それで、お話というのは?」



 いつも通り座布団に座って俺と向かい合う。

 少し笑みを浮かべているのは愛想笑いなのか。

 何だか不気味な感じがしたけれど、用件を伝えなければ。



「あのさ、次のパスタの会。延期にしてほしいんだ」


「え? どうしてですか?」


「勉強が追いつかねぇんだ。情けねぇんだが・・・」


「・・・京極さん」



 九条さんがいつになく強い口調で呼びかけてくる。

 怒っているような調子に、俺は急に罪悪感を覚えた。



「京極さん。それは駄目です」


「どうして?」


「あの・・・とてもお顔の色が悪いのです」


「え?」



 顔色が悪い?

 俺が? 風邪でもひいてるのか?



「京極さん、落ち着いて聞いてください」



 諭すような口調だ。

 悪いことでもしたような気分になってきた。



「根を詰めすぎです。いわゆる鬱病みたいな状態になっています」


「え? 俺が? そんなわけねぇだろ、いつも通りだよ」


「いいえ・・・わたしも、橘先輩も同意見です」



 そう言うと、九条さんは立ち上がって俺の手を引いた。

 有無を言わさぬ雰囲気に大人しく従う。

 連れて行かれたのは洗面所の鏡の前だった。



「どうでしょう。いつも通りの京極さんですか?」


「あ・・・」



 見ればそこに見慣れぬ俺がいた。

 少し頬がこけ、隈ができ、目も少し充血している。

 よく考えるとずっと頭が痛かったかもしれない。

 そうか、不調だったのか。

 だから頭に何も入らなかったのか・・・。



「これは、駄目、だな・・・」


「はい。実は橘先輩に怒られてしまいました。わたしが傍にいながらって」


「・・・ごめん」


「少し、休んでいただけませんか」


「・・・休むって、どうすりゃ良いんだろな」



 よく考えれば、俺はこの世界に来てからずっと走り続けていた。

 たった1年かもしれないけれど、それこそ休日も無く、がむしゃらに頑張った。

 だから自分を追い詰めていたのだろう、ということは想像に難くない。

 あれこれ経験している四十路だ、この根を詰めた状況を考えるに、確かに鬱一直線だ。

 このまま同じように頑張り続けるのは危ない。

 けど・・・ここで立ち止まったら。

 俺はリアルに戻れなくなるんじゃないのか。

 立ち止まっては駄目なんじゃないのか。

 そういった強迫観念が俺を奮い立たせて走らせている。

 だから・・・休むという選択肢は無かった。

 この状況で、どう休めば気が休まるというのか。



「気付かせてくれてありがとう、九条さん」


「いえ・・・」


「ごめん、少しひとりにしてくれよ」


「・・・」


「・・・九条さん、頼むよ」



 混乱した頭を整理しよう。

 そう思い、ひとりになりたいと思った。

 九条さんに退室を促すが、隣に立ったまま動かない。



「・・・どうして」


「え?」


「どうして・・・そんなに頑張るのですか」



 震える声が俺の耳を突く。

 はっとして見ると、涙目で眉間に皺を寄せている九条さんがいた。



「わたしは・・・京極さんが・・・あなたが、そうしてやつれていく姿を見ていられません」


「・・・」


「あなたが平気でも・・・わたしと、橘先輩は・・・悲しいです」


「・・・」


「だから・・・どうか、休んでください・・・」



 ふわり、と。

 ぼうっとしていた俺の顔を、九条さんが抱いていた。



「!?」


「少し、このままで・・・」



 頭を抱えられて。

 女の子独特の良い匂いがした。

 そういえば、匂いを感じたのは久しぶりかもしれない。

 ・・・。

 何でだろう。

 少し、悲しくなってきた。



「・・・あれ・・・?」



 気付けば俺は泣いていた。

 目から涙が次々と溢れてきていた。

 情けない、恥ずかしい。

 そんな焦りが嗚咽を押し殺す。



「ーーーっう・・・」



 ぽたぽたと、床に雫が落ちていく。

 何だこれ、止まらねぇ・・・。

 呼吸が荒い。

 声が出そうだ。

 駄目だ、格好悪いところなんか見せたくねぇ。

 彼女は、九条さんはどんな表情で俺のことを見ているんだ。



「ーーーうう・・・」



 ・・・これもう、泣いてんの分かるよな。

 幻滅したかな。

 くそ・・・。



「ーーー・・・」



 どのくらい時間が経過したのか。

 かなり長い時間、こうしてもらっていた気がする。

 入浴時間も終わっちまったかな?

 ようやく涙も嗚咽も落ち着いた。

 俺の頭を抱える九条さんの手を取り、優しく外した。


 顔を上げた。

 恐る恐る、九条さんの顔を見ると・・・。

 九条さんも、泣き腫らしていた。


 言葉が出なかった。

 九条さんが、ただ慈しむように俺の頬に手を添えた。

 そして微笑みながら言った。



「・・・あなたの背負っているものを・・・少し分けてください」



 ・・・うん。

 疲れた俺には、とても嬉しい言葉だった。

 素直にシチュエーションから考えれば極上の言葉だ。

 だったんだけど・・・。

 この台詞を聞いて。

 疲れとか色々なものを吹き飛ばして、曇っていた俺の思考は一気に現実に引き戻された。


 この聞き覚えのある声、台詞!!

 ラリクエで、九条さん主人公の時に、他の主人公を攻略する時の決め台詞じゃねぇか!!

 俺、攻略されちゃってるよ!?

 ちょっと、ちょっと待って!!


 九条さんは・・・潤んだ瞳で・・・ちょっとずつ、近付いて来てますね?

 目を閉じてません?

 その、艶のある唇を・・・。

 ちょっとお待ちになってくださいませんかね!?

 あー! と、止められんの!? これ!?



 ピピピ、ピピピ・・・


 その音に咎められたように、正気?に戻った九条さん。

 俺はこれ幸いと距離をとった。

 これは・・・PEの呼び出し音だ。モニタから鳴っている。

 橘先輩か・・・助かった・・・。



「ごめん、出るね」



 俺がモニターに触れると、橘先輩の顔が映し出された。



『こんばんは~。あ、武君! 少しすっきりした顔してるね!』


「え? あ、ああ・・・」



 少し目尻に涙が残っていたので手で拭う。

 その様子を見た橘先輩が覗き込むようにこちらを伺った。



『へぇ。九条が頑張ってくれたみたいね。良かったよ~』


「あはは・・・お恥ずかしながら・・・」



 もう泣いたのとか、攻略されそうになったのとか、どうでも良くなってきた。

 橘先輩の不安が解消したときのようなホッとした表情を見て、そう思ってしまった。



「京極さん、とても疲れていらっしゃいましたから」



 後ろから九条さんもやって来た。



『あ、やっぱり九条、そこにいた。PE、繋がらなかったからね』


「はい、先程までお話していましたから」


『ん~? あっはっは! よく見たら、ふたりとも酷い顔してる!』


「ええ?」



 俺と九条さんは、お互いの顔を見た。

 洗面所は暗かったからよくわからなかったけど。

 泣き腫らしたその表情は、傍目から見ても少し可笑しかった。



「確かに・・・九条さんの顔」


「京極さんこそ、酷いですよ」


『あっはっは! もー、そんなに頑張ってくれちゃったのね、九条!』



 橘先輩の笑い声が俺の耳に響く。

 心地よいその響きが、俺の中にあった焦りを砕いてくれたような気がした。




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