春の夢

みのり

第1話

 おととい、小太郎が死んだ。

 仕事から帰ったら、小太郎が玄関の私のお気に入りの靴の上でうつぶせに寝ていた。私は靴が汚れると思って、なにか文句を言いながら小太郎をどけようとした。けれど、その手に触れた小太郎の体がつめたくて、固くて、私は息の仕方を忘れた。やわらかくてふわふわの、私の小太郎は、どこ? 小太郎との思い出が次から次へと頭を巡って、涙があふれた。あたたかい涙が、どんどんどんどんあふれて、流れて、壊れた水道管みたいだった。

 翌日は会社を休んで、小太郎を見送った。一日じゅう、泣いていた。火葬場に来てくれた妹に、「干からびちゃわない?」と心配そうに言われた。いくら泣いても、涙は尽きなかった。小太郎は外にあこがれていた。窓辺に座って、おひさまの光を浴びながら眠るのが好きだった。それなのに、私は小太郎を数えられるくらいしか外に連れ出してあげられなかった。土を踏んで、風の匂いをかいで、自由に走りまわる喜びを、小太郎は飽きるくらい感じるべきだったのに。火葬場から帰る道すがら、タクシーの車窓に広い公園を見つけて、ますます涙があふれた。

 小太郎は私が十一歳のとき、小学校の帰り道の公園に捨てられていた白猫だった。はじめて会った小太郎はがりがりに痩せた体のわりに手足と耳と目が大きくて、エイリアンみたいだった。雨のなか、ずぶ濡れの体をぶるぶる震わせて、必死に鳴いていた。

 その日から、小太郎は私の家族になった。小太郎という名前は、私がつけた。「メスだったら、どうするの」とお母さんは呆れたけれど、小太郎という名前以外、考えられなかった。

 食いしん坊の小太郎は、はじめは痩せっぽっちだったけれど、すぐにコロコロ太った。優しい目をした、優しい子だった。ふわふわのやわらかい毛が、私は大好きだった。頭をなでると、目を細めてのどを鳴らす小太郎が、大好きだった。目が覚めると、隣で眠る小太郎を見つける朝が、幸福だった。そして、一番小太郎を愛おしいと感じるのは、キスをするときだった。満ち足りた優しい目で顔を寄せてくる小太郎も、鼻と鼻をくっつける、可愛いキス。

 二晩眠ったからといって、悲しみは尽きない。それなのに、私は窮屈なスーツに袖を通して、化粧をして、仕事に向かった。心を殺して、駅までの道を歩く。重たい足を前に進ませる。私は必死で涙をこらえていたけれど、電車に揺られながら、どうしてこらえてなくてはならないのか分からなくなった。私は、私の体を自然に任せることにした。電車は、私が降りるべき駅を通り過ぎた。

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