第三章 とりかえ子(5)
5
ジョッソはティアナの先に立ち、夜の森を歩いて行った。やがて、大きな岩が重なりあう崖下へ到着すると、ジョッソは岩の隙間から〈
通路は入り口こそ狭かったが、天井はティアナが立って歩けるほど高く、幅は両腕を伸ばせるほどで、壁と床は綺麗に
道はゆるやかな下り坂で、枝分かれをしたり十字に交差したりしていた。ジョッソは迷うことなく、ずんずん進んでいく。ティアナは懸命についていったが、城から離れるに従い心細くなってきた。
もうどれくらい遠くへ来たのか分からない。道は分からず、一人で帰ることはできない。そう考えるとティアナの足どりは重く、ジョッソから遅れがちになり、遂には立ち止まってしまった。
小さな光の花の前で、ティアナは立ったまま泣き始めた。一度こぼれると、涙は次から次へとあふれ出し、嗚咽が止まらなくなった。
帰れない。帰っても自分の居場所はない。父母の笑顔を想い、セルマとゲルデの辛そうな顔を想うと、ティアナの胸は張り裂けそうに痛んだ。両手で顔をおおって泣いていると、ジョッソが慌てて戻って来た。
「どうしたんじゃ? どこか痛いのか? 疲れたのか? 腹が減ったのか?」
ジョッソはおろおろと両手をもみしだき、右へ左へ、体を揺らして彼女の顔をのぞきこんだ。先刻までのいかめしさはどこへやら。そのさまは小さな子どもの身を案じる気のいい農夫のようで、ティアナは安心していっそう泣きじゃくった。
ジョッソは困り、小さな手でぽてぽてと少女の腰を押した。
「もう少しで着くんじゃ。がんばってくれ。ほれ、あの角を曲がればすぐじゃ」
それで、ティアナが目元を手の甲でぬぐいながらのろのろ進むと、急に広い空間に出た。天井が高くなり、壁の果てが見えない。花の明かりはここでは足らず、うすい闇に覆われている。
ティアナは立ち尽くした。闇の底に、無数の、金色の光の点が並んでいたのだ。それが全てこちらを見詰める獣の目だと気づくと、ティアナはひゅっと息を呑んであとずさりし、ジョッソにぶつかって尻もちをついた。
「あ~あ。駄目じゃない、父さん。泣かせたら」
「グウィン、助けてくれ」
「転んだの? 大丈夫?」
「そうではない。転ぶ前から泣いておったのじゃ。人の子は、わしらより親離れに時間がかかることを忘れておった」
ジョッソはしおしおと頬髭を下げ、耳を伏せ、なで肩をいっそう落としている。白っぽいマオールの娘は、蒼白くかがやく
「まあ、それは辛いわね。こんばんは、お姫様。うちはグウィン、父さんの五十六番目の娘よ」
「五十六……番目?」
グウィンは丸い耳をぴくぴくと動かし、ふうっと頬をふくらませた。そうすると、笑うように目尻がつり上がる。
「うちらは兄弟が大勢いるの。あなたと入れ替わったラーヴギアル(「白い手」の意)は、うちの姉さん」
「お姉さん?」
言われてみればグウィンの毛は純白ではなく、ラーヴギアルより黄色っぽいバター色だ。
ジョッソが溜息まじりに説明する。
「しきたり上、とりかえ子になる子どもは、新しい名を養い親につけてもらう習わしじゃ。グウィン、ラーヴギアルの呼び名は、この娘と同じティアナになったぞ」
「そう。ティアナというの、お姫様。よろしくね」
「よ、よろしく……」
ティアナはぎこちなくうなずいた。
彼女たちの周囲には
キュイッ、キュキュッ。
チッチッ、チュチュチュッ。キュイイ、チュッ。
小鳥のような声で鳴きかわす彼らを観ていると、ティアナのお腹も鳴いた。思わず腹をおさえる少女を観て、グウィンは優しく目を細めた。
「お腹が空いた? いらっしゃい。あなたの部屋を用意しているわ」
グウィンは彼女に立ちあがるよう促した。ティアナがグウィンについて歩き出すと、〈山の民〉の子ども達がぞろぞろ後をついてきた。ジョッソも安堵したようで、一緒に来る。広間に集まっていたマオール達が、角燈をかかげて彼女らの行く手を照らしてくれた。
「ここは大昔、〈聖なる炎の岳〉が火を噴いていた頃、溶けた岩がつくった洞窟よ。うちらは集会場として使っているわ。群れごとの町につながっているの」
グウィンは角を曲がり、通路に入った。天井は相変わらずティアナが立って歩ける高さだ。やや急な坂道をのぼり、数度曲がってまた平らな道を行く。ぐるぐる闇のなかを巡り、ティアナは思わず呟いた。
「迷いそう……」
「大丈夫よ、すぐ慣れるわ」
グウィンはキュキュッと笑い声をたてた。行き止まりの場所に立つ。
「慣れるまでは、うちが案内するわ。さあ、ここがあなたの部屋よ」
驚いたことに、そこには木製の
人間のために作られた部屋としか思えず、ティアナは目を瞠った。
「どう? 気に入った?」
グウィンとジョッソと〈山の民〉の子ども達は、ティアナの反応を面白がっている。テーブルには、ベリーと堅パンと蜂の巣の欠片が載った木の皿があり、木のカップに飲み水が用意されていた。
ジョッソがふんと鼻を鳴らして説明する。
「〈
「他にも
そう言うと、グウィンは小さな子ども達を抱き上げ、ジョッソを促した。ティアナは、ふたりに声をかけた。
「あ、あの……。ありがとう」
*
翌朝、思いがけずよく眠れたティアナが目を開けると、仔マオール達が寝台の周りに集まっていた。少女が覚醒したことを喜び、キュッキュと鳴いて室内を駆け回る。ティアナが驚いていると、扉を開けてグウィンが入って来た。
「こら。あんた達、勝手に入っちゃ駄目だって言ったでしょう。ごめんなさい、うるさかった?」
「いいえ、ちょうど起きたところだから」
ティアナが身を起こすと、人懐っこいマオールの子が膝の上によじのぼって来た。ふかふかの背をなでていると、ティアナの頬はほころんだ。
グウィンは窓を開け、明るい朝の日差しを室内へ入れた。
「ごらんなさい。いい天気よ」
「わあ。こんなに高いところだったのね」
仔マオールを抱いて窓辺に立ったティアナは、そこが切り立った崖の上に穿たれた穴だと気づいた。地下から岩のなかをここまで登って来たのだ。南向きの窓の下には濃い緑の森があり、そこからゆるやかに草原が広がっている。銀色にきらめく小川の先に、雪をかぶった山々が蒼くかすんでいる。夏の木の葉の匂いをのせた爽やかな風が吹きこみ、ティアナの頬をなでた。
グウィンは短い腕を伸ばした。
「あれは〈三姉妹の岳〉よ。あの向こうにヒューゲル大公領があるの。さあ、水場に案内するわ」
部屋を出てグウィンとともに道を下るティアナの足下を、マオールの子ども達がはしゃぎながらついてきた。その賑やかさに、大人のマオール達も巣穴から首を出して見守る。ティアナは気恥ずかしくなったが、同時に久しぶりに胸がはずんだ。
外への出入り口は狭く、ティアナはグウィンとともに這って出なければならなかった。陽は高くのぼり、〈聖なる炎の岳〉の尖った頂きを金色に輝かせている。野原には黄色の
ティアナはグウィンに連れられて小川へ行き、岩の隙間から流れ出る冷たい清水を口に含んだ。清々しい喉ごしに、身も心も清められる心地がする。グウィンはティアナを満足げに見上げ、小さな尾をぷるんと振った。
「この辺りではここの水がいちばん美味しいの。少し川を下れば、魚の捕れる場所があるわ。あっちの森にはベリーがあるし、胡桃も、秋には葡萄も実るわ。人間の食べ物が欲しければ、もらってきてあげる」
「いいの?」
ティアナが目をまるくすると、グウィンはキュッキュと笑った。
「うちら、麓の村へ行って、抜け落ちた羊の毛をもらったり、干し葡萄や林檎をもらったりしているわ。親切な人なら、牛のミルクを分けてくれることがあるの。お返しに、地下でみつけた綺麗な石をあげたり、うちらが作った細工物をあげたりしているわ」
「ふうん」
「ティアナ。あなたは捕虜や人質ではないんだから、居心地よく暮らしてくれればいいのよ。うちらのことを知ってもらうのが目的なんだから」
グウィンはまるい耳をぴんと立てて首をかしげ、黒い瞳で公女を見詰めた。『とりかえ子』の本来の目的を知り、ティアナは瞬きを繰り返した。
「……ありがとう」
ここでなら、生きていける。ティアナは心からそう思った。
~第四章へ~
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