第三章 とりかえ子(4)
4
〈山の民〉 の迎えは、日が暮れてからやってきた。人払いをした広間ではなく、大公の居間で、一家は
「これはラティエ鋼製の
そう言ってジョッソが取りだしたのは、銀色の鎖帷子だった。子どものように小さな手でそれをひろげ、セルマの前にかかげてみせる。セルマは、父に促されて受け取った。
「きれい」
公女がラティエ鋼をみるのは初めてだが、ふつうの鉄と異なることはひとめで分かった。開いた窓からさしこむ月明りと燭台の蜜蝋の灯りに照らされ、虹色にかがやいている。ひとつひとつの鉄の輪は、人間の手でつくられたものよりはるかに繊細で、胸には小さな水晶の粒がいくつも編みこまれている。
セルマは鎖帷子を
ティアナとゲルデは壁際に立ち、この様子を見守っている。
ジョッソは満足げに頬髭をゆらしてセルマを眺めた。
「ふむ、ぴったりじゃの」
「これを使って」
続いて白いマオールの娘がさしだしたのは、銀色の五本の矢だ。セルマは
「これは?」
「〈
『敵』と言われてセルマは戸惑い、不安げに父を振り向いた。大公は椅子の背にもたれて坐り、鷹揚にうなずいている。セルマは両手をさしだして魔法の矢を受け取った。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
マオールの娘は頬髭をゆらして応えた。
ジョッソはふんと鼻を鳴らして娘たちを促した。
「いざ、契約しようぞ。わしら〈山の民〉は今日この時より、なんじらと絆を結ぶ。敵対せず、なんじらの敵を敵となし、なんじらの子をわしらが子として保護しようぞ」
「承知した。我々も同じようにしよう」
大公は気前よく応じたが、その態度には「所詮、小さな獣の言うことだ。大したことはあるまい」というあなどりが透けて見えた。しかし、ジョッソは表情を変えず、荘重な口調を保った。
「
「真の名?」
セルマは勝手がわからず、いっそう不安げに眉を曇らせた。マオールの娘は面白そうに少女を見つめている。黒い瞳に紫色の光がひらめき、セルマは息を呑んだ。
エウィン妃がすかさず声をかけた。
「あら、ティアナでいいじゃない。いれかわるんだから」
「ええ?」
「そうだな。我々は、ティアナと呼ぼう」
大公が頷き、夫婦は自分達の思いつきに満足して笑い合った。ティアナが唇を噛んでうなだれ、ゲルデがその背に片掌をあてる。ジョッソはすうと丸い目を細めたが、なにも言わなかった。
セルマは胸を
マオールの娘は、口の中で響きを吟味するようにつぶやいた。
「ティアナ……ティアナ。うん、いいわよ」
「いいの?」
「貴女がいいなら、うちは構わないわ。ティアナ、いい名前ね」
こうして『ティアナ』がふたりになった。
人間のティアナが数歩近づいて、ふるえる声で言った。
「では、私は参ります。お父様、お母様、お元気で。今まで育ててくださり、ありがとうございました」
大公夫妻は上機嫌で応えた。
「おう、行ってこい」
「しっかり務めるのよ。アイホルム家の未来がかかっているんだから」
ゲルデが物言いたげにみじろぎをする。ティアナは構わず、項垂れたままさらに頭を下げた。
「はい。セルマ、元気でね。今までありがとう」
セルマはパクパクと口を開け閉めして妹へ片手をさしのべたが、ティアナは彼女を見ようとせず踵を返した。ゲルデに会釈をして歩き出す。その傍にジョッソが付き添い、自分の娘にこう言った。
「ではな。また来るぞ」
「はい、父さん。待ってるわ」
“ティアナ“と名付けられた白毛のマオールは、にっこり笑って(いるように、セルマには見えた)手を振り、父と公女を見送った。部屋から出ていく一人と一匹を、ゲルデが追いかける。セルマは動けなかった。
“ティアナ“はセルマに向き直り、白い頬髭をピンと立てて胸をはった。
「さあ、うちらは契約を続けましょう」
*
「ティアナ様!」
城の
「ゲルデ」
「お戻りください、ティアナ様。このままでは――」
「既に契約は成った。取り消すことはできん」
重々しく告げるジョッソを、ゲルデはきっと睨みつけた。
「あなたこそ、これで良いのですか? あなたの娘にどんな苦労が待っているか」
「もとより承知」
ジョッソの答えに、ゲルデは目を
ジョッソは(彼の外見ではどうしても緊張感に欠けるのだが)首をすくめて耳をたて、精一杯いかめしく毛をふくらませた。
「もとより、人間の世界でわしら〈山の民〉が苦労を強いられることは承知している。それでも、今後のわしらのため、〈聖なる炎の岳〉で暮らす全ての生き物たちのために、こうしなければならぬのじゃ」
「あなた方は何をご存知なのですか? 大公の人柄を――」
「知っている」
ジョッソは目を細め、苦々しく応えた。ゲルデとティアナは息を呑んだ。
「よく知っておるぞ、なんじらの知らぬこともな。故に、わしの娘は『とりかえ子』になることを承知した。今、あの二人を止めねば大変なことになると、分かったからじゃ」
「ええ……?」
「ゲルデ、というたな」
ジョッソはふっと頬をゆるめ、公女たちの教育係を見上げた。
「わが娘を案じてくれて礼を言う。よろしく頼む。わしもこの娘を、わが子と思って扱おう。これで良いか?」
「ゲルデ」
ティアナが両腕を伸ばし、そっと彼女を抱きしめた。ゲルデは少女の頭を撫で、額に口付けて囁いた。
「ティアナ様」
「セルマをお願いね、ゲルデ。ライアンにも、アルトリクスにもよろしく伝えて」
そういうと、ティアナは呆然としているゲルデから離れ、ジョッソについて行った。階段を下り、外へ通じる扉を開ける。夜の底へと降りていく一人と一匹を見送り、ゲルデは石段の上に座りこんだ。
本丸の裏にでたジョッソとティアナは、ひとけのない城の庭を横切り、塔の東側の城壁に沿って歩いた。〈聖なる炎の岳〉の麓をおおう森へ面した城壁だ。サラサラと川の流れる音、木々の梢を揺らす風の音、遠い滝の音、虫とフクロウの鳴く声が、星のない夜の静けさをいっそう深めている。
大人の人間は通れない〈山の民〉の扉を抜け、城の外へ出たところで、ジョッソは足を止め、うんざりとつぶやいた。
「またか。邪魔が多いのう」
「え?」
ティアナはきょとんと瞬きを繰り返した。彼女の正面の闇の中から、楽しげなくつくつ笑いとともに、滑らかな男の声が話しかけてきた。
「こんばんは、〈山の民〉の長どの」
「〈
折から月をおおう雲が流れ、
「〈山の民〉がアイホルム大公家に同盟を申し込んだと聞き、様子をみに来たんですよ。とりかえ子とは、大胆ですね」
「こうでもせねば、あの母親は子らを殺してしまうからの……。仕方があるまい」
(えっ?)ティアナは驚いてジョッソのなで肩を見下ろした。〈山の民〉の長は、人間さながら胸の前で両手を組み、溜息を
カラスと呼ばれた男は、同情とも憐憫ともつかぬ眼差しを少女にあて、歌うように続けた。
「
「おぬしにも責任がないとは言わせぬぞ、カラスよ。大公家に呪いがかけられてより四百年、未だに晴らせぬとは」
「そう責めないで下さいよ。これでも一所懸命やっているんですから」
「どこがじゃ」
ジョッソはふーっと息を吹いて髭を揺らした。
「わしの見る限り、おぬしは喰っちゃ寝ばかりしておるようじゃが?〈森の賢者〉も呑気なことじゃ。出番がないと飲んだくれおって」
「夏は
「おぬしらが酔っ払っている間に、数百人の
「珍しいですねえ。神々が、地上の人間の行く末を心配してくださるとは」
「これ。不遜がすぎるぞ」
男の軽い口調は変わらなかったが、言外にこめられた皮肉を聞き取り、ジョッソは低く唸った。
「グレイヴ伯爵の逝去に際し、
「私が喰っちゃ寝していられるのも、地母神のお陰ですからね」
はいはい、わかっていますよ。とばかり肩をすくめる軽薄者を、ジョッソは
男はふっと苦笑して、幼い公女を見下ろした。
「私が来たのは神々のためではなく、お嬢さんを祝福するためです。はじめまして、ティアナ公女。
「は、はい」
ティアナがおずおず頷くと、男は彼女の正面に跪き、丁寧に一礼した。さらさらの黒髪が、仕草にしたがい肩をこぼれ落ちる。
「お辛いでしょうが、どうぞ
ティアナは瞬きを繰り返して彼を見つめた。
「それは予言? あなた、
「予言かも知れず、わたしの願望かも知れません。いずれにせよ、お戻りになるその日には、わたしがそばにおりましょう」
男は謎めいた答え方をした。柔和な面に浮かぶ微笑みは、口調の軽さとは裏腹に、今にも泣き出しそうだった。
「……ありがとう」
ティアナが戸惑いながら応えると、男はうなずいて立ち上がり、
夜の森へ入っていくジョッソについて行きながら、ティアナが振り向いてみると――男は月の下に佇み、いつまでも彼女を見送っていた。
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