第二章 鷲の城(2)
2
ライアンたちと別れたアルトリクスは、数日間 〈聖なる炎の岳〉の麓を歩きまわっていた。
こうしてひととおり情報を得ると、アルトリクスは帰路についた。〈ラダトィイ〉族の里へ向かうみちすがら、さわやかな夏の森の香気を吸い、小鳥の歌を聞きながら、若き
(アイホルム大公の政策は強引だ。) 畑と家を奪われて途方にくれる先住民の親子を想い、彼の胸は痛んだ。
(このままでは終わらないぞ……。)
土地を追われた人々は、着の身着のまま農村から都市へと移動しているが、そこでもじゅうぶんな仕事があるわけではない。放棄された畑には猪や鹿といった野生の獣があふれ、周辺の畑と果樹園をあらすだろう。領主は、減った税収をどうやって補うつもりなのか。
大公領を追われた先住民の一部は、国境をこえて逃げている。流民を受け入れる側の地主たちにとっては負担であり、アイホルム大公への抗議活動が起きていた。常軌を逸する大公は、武力をもってこれを封じ、隣国への侵略を企てているらしい。
アルトリクスは、つとめて冷静に考えようとした。――戦乱になれば、鉄の需要が増す。鋼鉄を産する〈ラダトィイ〉族にとっては商機だが、どこへ持っていくかが問題だ。同じ
まだ少年といえる年齢だが、アルトリクスは〈
(
シルヴィアは、数百年前から〈ラダトィイ〉族を守護してくれているドラゴンだ。普段はなわばり内の湖で静かに暮らしていて、ひとの世の出来事には干渉しないが、戦争となれば知らぬふりはできないだろう。
少年はやがて主街道をはなれ、西へ流れる細い川の岸辺を歩いていった。国境のトウイー川の支流だ。木々の枝がおおいかぶさる道に、いつしか白い霧がただよっている。
アルトリクスは、古い石橋のたもとで足をとめた。この橋を渡ればグレイヴ伯爵領に入る。日没前には 〈アドラーブルク〉 へ辿り着けるはずだが、濃い霧が視界をさえぎっている。――彼は首をかしげた。
辺りには夕暮れのような気配がただよっていた。夏だというのに肌寒い。風はなく、重い空気が耳をふさぎ、川の流れる水音を隠している。鳥の声も消えていた。
アルトリクスは、ふいに、全身の毛がざあっと逆立つのを感じた。
灰色の森の影から、高く、切り裂くような悲鳴が聞こえたのだ。胸にあいた洞穴を冷たい風がどっと吹き抜けた心地がして、アルトリクスは息を呑んだ。鼓動がはげしくなる。少年は膝がふるえだしそうになるのを堪えつつ、石橋のアーチの上に登った。
かんだかい嘆きの声は森の静寂をわり、二度、三度と響きわたった。
アルトリクスは橋の欄干に両手をついて身をのりだし、川を見下ろした。岸に三人の老婆がうずくまり、苦し気に体をゆすっている。少年は瞬きをくりかえし、目を凝らした。
老いた山羊のような白髪にみえた髪は、紫がかった暗い銀色をしていた。それは彼女たちの痩せた肩をおおって長く伸び、膝の辺りまで垂れている。袖なしの灰色の外套の下に、緑色の
三人はそろって
夕陽のはて 海のかなた
永遠の闇にいたる
安寧の時は過ぎたり
大いなる翼 馳せゆかん
身を投げて呼ばうも届かず
くらき影 天空をおおう 彼岸に
飛び去りて 二度と還らず
それから女たちは、細い喉をそらして口々に叫び声をあげた。人間ののどの限界をこえた悲痛な響きは、アルトリクスの脳をつらぬくように感じられた。少年が耳をふさぎたくなるのを耐えていると、突然、三人は彼をふり向いた。離れているのに間近から顔をのぞきこまれた心地がして、アルトリクスは呼吸を止めた。
女たちの顔は死人さながら蒼ざめ、頬には
アルトリクスの膝から震えがのぼり、水をかぶったように汗が額を流れおちた。女たちが叫びながら両手をたかく差し上げると、彼女たちのからだは伸びあがり、嵐に吹かれる柳のごとくゆらめいた。少年は気が遠くなった――
グワッ、クワアアッ!
しわがれた鳴き声とともに、一羽のワタリガラスが橋のうえを横切り、欄干に舞いおりた。尻もちをついて坐りこんでいたアルトリクスは、我にかえって辺りを見渡した。
女たちは悲鳴の余韻をのこして消えていた。霧はいよいよ濃く深くたちこめ、石橋を孤立させている。
アルトリクスは大きく息を吸って呼吸をととのえ、いまだ激しく打つ鼓動を鎮めようとした。
(あれは
泣き妖精バンシーは、迫りくる死を予兆する。偉人や英雄が死ぬときには、何人も現われて泣き叫ぶという。
(なぜ、今? 誰が死ぬ? 誰のためだ……?)
アルトリクスは首を振って恐怖をはらい、右手の甲で口元をぬぐった。脳内で心あたりの人物をさがす彼を、ワタリガラスが首をかしげて眺めている。
そのとき、厚い霧の
使者を
使者の男は、立ちふさがる少年の姿に慌てて手綱をひき、馬は鼻息あらく立ち止まった。
アルトリクスは両腕をひろげ、早口に訊ねた。
「大公の城へ行くのか。ライアンのところへ?」
「そうだ」
「俺も連れて行ってくれ!」
急な申し出に、使者は戸惑い絶句した。しかし、悩んでいる場合ではないと判断したのだろう、乱暴に顎をふって促した。
「騎れ!」
「かたじけない」
アルトリクスは男の後ろにとび乗り、使者はピシリと鞭を鳴らした。馬は鋭くいななくと、再び蹄をならして駆けだした。
この様子を見守っていたワタリガラスは、翼をひろげ、彼らを追って飛び発った。
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