第二章 鷲の城(2)


          2


 ライアンたちと別れたアルトリクスは、数日間 〈聖なる炎の岳〉の麓を歩きまわっていた。オークの森の繁栄をことほぎ、泉の精ヤリーネスを訪ねて今年の雨量を問い、大公領内の麦の出来具合を調査した。先住民ネルダエと混血の民が土地を追われていくさまを目にし、耕作を放棄された畑地をながめ、反乱と戦争のきなくさい噂を耳にした。

 こうしてひととおり情報を得ると、アルトリクスは帰路についた。〈ラダトィイ〉族の里へ向かうみちすがら、さわやかな夏の森の香気を吸い、小鳥の歌を聞きながら、若き族長リーは沈みこんでいた。


(アイホルム大公の政策は強引だ。) 畑と家を奪われて途方にくれる先住民の親子を想い、彼の胸は痛んだ。

(このままでは終わらないぞ……。)


 土地を追われた人々は、着の身着のまま農村から都市へと移動しているが、そこでもじゅうぶんな仕事があるわけではない。放棄された畑には猪や鹿といった野生の獣があふれ、周辺の畑と果樹園をあらすだろう。領主は、減った税収をどうやって補うつもりなのか。

 大公領を追われた先住民の一部は、国境をこえて逃げている。流民を受け入れる側の地主たちにとっては負担であり、アイホルム大公への抗議活動が起きていた。常軌を逸する大公は、武力をもってこれを封じ、隣国への侵略を企てているらしい。


 アルトリクスは、つとめて冷静に考えようとした。――戦乱になれば、鉄の需要が増す。鋼鉄を産する〈ラダトィイ〉族にとっては商機だが、どこへ持っていくかが問題だ。同じ地母ネイ神の民として、アイホルム大公には売りたくない。しかし、セルマとライアンを敵にまわしたくはない……。

 まだ少年といえる年齢だが、アルトリクスは〈くろがねの民〉を率いる首長リーだ。一族の未来がかかっている。慎重に判断しなければならなかった。


水竜シルヴィアにも相談しよう。いい方法があればよいが……。)


 シルヴィアは、数百年前から〈ラダトィイ〉族を守護してくれているドラゴンだ。普段はなわばり内の湖で静かに暮らしていて、ひとの世の出来事には干渉しないが、戦争となれば知らぬふりはできないだろう。



 少年はやがて主街道をはなれ、西へ流れる細い川の岸辺を歩いていった。国境のトウイー川の支流だ。木々の枝がおおいかぶさる道に、いつしか白い霧がただよっている。

 アルトリクスは、古い石橋のたもとで足をとめた。この橋を渡ればグレイヴ伯爵領に入る。日没前には 〈アドラーブルク〉 へ辿り着けるはずだが、濃い霧が視界をさえぎっている。――彼は首をかしげた。

 辺りには夕暮れのような気配がただよっていた。夏だというのに肌寒い。風はなく、重い空気が耳をふさぎ、川の流れる水音を隠している。鳥の声も消えていた。


 アルトリクスは、ふいに、全身の毛がざあっと逆立つのを感じた。


 灰色の森の影から、高く、切り裂くような悲鳴が聞こえたのだ。胸にあいた洞穴を冷たい風がどっと吹き抜けた心地がして、アルトリクスは息を呑んだ。鼓動がはげしくなる。少年は膝がふるえだしそうになるのを堪えつつ、石橋のアーチの上に登った。

 かんだかい嘆きの声は森の静寂をわり、二度、三度と響きわたった。

 アルトリクスは橋の欄干に両手をついて身をのりだし、川を見下ろした。岸に三人の老婆がうずくまり、苦し気に体をゆすっている。少年は瞬きをくりかえし、目を凝らした。


 老いた山羊のような白髪にみえた髪は、紫がかった暗い銀色をしていた。それは彼女たちの痩せた肩をおおって長く伸び、膝の辺りまで垂れている。袖なしの灰色の外套の下に、緑色の上衣チュニックを着ている。少年が見たことのない生地だ。

 三人はそろってこうべを垂れ、ぶつぶつと低く歌いながら白い敷布シーツのようなものを洗っていた。



        夕陽のはて 海のかなた

        永遠の闇にいたる


        安寧の時は過ぎたり

        大いなる翼 馳せゆかん


        地母神ネイの地にすまうもの

        身を投げて呼ばうも届かず


        くらき影 天空をおおう 彼岸に

        飛び去りて 二度と還らず



 それから女たちは、細い喉をそらして口々に叫び声をあげた。人間ののどの限界をこえた悲痛な響きは、アルトリクスの脳をつらぬくように感じられた。少年が耳をふさぎたくなるのを耐えていると、突然、三人は彼をふり向いた。離れているのに間近から顔をのぞきこまれた心地がして、アルトリクスは呼吸を止めた。


 女たちの顔は死人さながら蒼ざめ、頬には雀斑そばかすが多数うきでていた。眼のふちは赤い糸で縫いとりをしたようだ。瞳は勿忘草サリエッテスのごとく、沼地を照らす月のごとく、生きているか死んでいるか分からない冷たさだ。

 アルトリクスの膝から震えがのぼり、水をかぶったように汗が額を流れおちた。女たちが叫びながら両手をたかく差し上げると、彼女たちのからだは伸びあがり、嵐に吹かれる柳のごとくゆらめいた。少年は気が遠くなった――


  グワッ、クワアアッ!


 しわがれた鳴き声とともに、一羽のワタリガラスが橋のうえを横切り、欄干に舞いおりた。尻もちをついて坐りこんでいたアルトリクスは、我にかえって辺りを見渡した。

 女たちは悲鳴の余韻をのこして消えていた。霧はいよいよ濃く深くたちこめ、石橋を孤立させている。

 アルトリクスは大きく息を吸って呼吸をととのえ、いまだ激しく打つ鼓動を鎮めようとした。


(あれは泣き女バンシーだ。)


 泣き妖精バンシーは、迫りくる死を予兆する。偉人や英雄が死ぬときには、何人も現われて泣き叫ぶという。


(なぜ、今? 誰が死ぬ? 誰のためだ……?)


 アルトリクスは首を振って恐怖をはらい、右手の甲で口元をぬぐった。脳内で心あたりの人物をさがす彼を、ワタリガラスが首をかしげて眺めている。


 そのとき、厚い霧のとばりの向こうから馬蹄の音が近づいて来た。力強く土を蹴る音に、馬具の金具がぶつかるガシャガシャという音が重なっている。アルトリクスは背を伸ばしてそちらを見遣り、カラスはごそごそ身じろぎをした。

 使者をせた黒馬が、つややかな毛皮を汗で濡らして現われた、アルトリクスには、霧の中からぬうっと突き出たように見えた。カラスが石の欄干でぴょんと跳ねる。


 使者の男は、立ちふさがる少年の姿に慌てて手綱をひき、馬は鼻息あらく立ち止まった。

 アルトリクスは両腕をひろげ、早口に訊ねた。


「大公の城へ行くのか。ライアンのところへ?」

「そうだ」

「俺も連れて行ってくれ!」


 急な申し出に、使者は戸惑い絶句した。しかし、悩んでいる場合ではないと判断したのだろう、乱暴に顎をふって促した。


「騎れ!」

「かたじけない」


 アルトリクスは男の後ろにとび乗り、使者はピシリと鞭を鳴らした。馬は鋭くいななくと、再び蹄をならして駆けだした。


 この様子を見守っていたワタリガラスは、翼をひろげ、彼らを追って飛び発った。





~第二章(3)へ~

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