第2話
翌朝、ぼくは朝食に目玉焼きをつくろうと思った。妻は半熟派でぼくはしっかり焼き派だ。フライパンをじっくりあたため、オリーブオイルをひいてもっとあたためて、さて、卵を割ろうとした瞬間に思い出した。テーブルに醤油のボトルがないことを。息がとまりそうになった。なんてぼくは迂闊で忘れっぽいんだ。半熟の目玉焼きに妻は100%の確率で醤油をかけようとするだろう。
思考は素早くかけめぐったが、ぼくの指先は止まれなかった。卵は割れてフライパンにダイブした。仕方ない。目玉焼きからスクランブルエッグに予定変更だ。冷蔵庫からバターをだしてフライパンにセカンドダイブ。同時にパンをオーブンにいれる。
朝の妻は不機嫌で忙しい。彼女は無言のままダイニングに現れ、無言のまま食卓につく。眉間に皺をよせ、スマホを片手に朝食をとる。周囲を見ることはない。ぼくと目を合わせることもしない。何よりスクランブルエッグに醤油はいらない。ケチャップがあればいい。そしてモア・バター。
おかげでテーブルに醤油のボトルがないことはばれなかった。実際的で即物的な妻は、自分にとって不要なものが存在しなくなっても気付かないのだ。
妻が家を出た後、ぼくはテーブルの上の300円を何に使おうか考える。
冷蔵庫の中にはまだ食材があるし買い物にはいかなくてよさそうなので仕事を開始する。
リビングのティッシュボックスからティッシュを三枚とる。それから玄関へとつながる廊下にでる。
ティッシュを一枚ずつ丸める。丁寧に固く固く丸める。白い繭のようなものができあがる。
それを一つずつ、ピッチャーみたいに玄関に向かって投げる。
ティッシュは玄関に落ちる。
落ちた位置を確認したら、靴箱にしまっていた日本地図をとりだして位置を確認する。
今日は岩手県と沖縄、それから東京だ。
ぼくは部屋に帰って各SNSを更新する。それらの地域で何かが起こるという予言めいた言葉を書き記す。
ティッシュが海側に落ちた東京からは何かが出ていく。
ティッシュが跳ねた北海道は束縛から解放される。
ティッシュがふわっと落ちた岩手県には何かがやってくる。
これで終わりだ。
仕事を終えてほっとして、ぼくはソファに座り込む。さて、CMでも見ようとテレビをつけようとしたら
「あの、すみません」と声がして振り返る。
ガムリンチャがソファの真裏からこちらを見上げていた。
「こんにちは」
ぼくは言う。ガムリンチャは丁寧に上半身らしきか所を折り曲げた。
「お礼を言いにきたんです」
「ふぅん」
ぼくはガムリンチャをしげしげ観察する。昨日のやせこけたやつより、ふっくらして背が高い。しかも喋っているのに、ぼくの頭は痺れない。耳から音が聞こえている気がする。
「きみは普通に喋っているように思えるけど」
「喋っています」
「ガムリンチャは喋れるの?」
「いえ、ぼくだけです」
「すごいね」
「でもぼくは仲間たちには人間と喋れることは隠しています」
「なんで?」
「ぼくの父も片言ですが人間と喋れました。そうしたら人間との和平交渉担当に任命されました。父はある夜、人間に話しかけました。その人間は大臣と呼ばれる人間の世界では色々な決定権を持っている人でした。ですが大臣は半狂乱になって父を叩き潰してしまいました。人間とガムリンチャはわかりあえないのに、仲間たちはどうにか人間とコンタクトをとって有効な関係を築きたいと願っているんです。馬鹿ですよね」
「きみは片言どころか流ちょうにしゃべっているね。しかも頭がよさそうだ」
「英語とドイツ語とフランス語もしゃべれます」
「すごい。ぼくなんか日本語も怪しいのに。言語って記憶力が大事だよね。ぼくは覚えるのがすごく苦手なんだ。いつも妻に叱られている」
羨ましくてため息がでる。
「おそらくぼくは人間でいうところの“天才”なんだと思います」
「なるほどね。きみは外国に行ったことがあるの?」
「いいえ」
「じゃぁどうやって外国語を覚えたの?」
「実はパソコンを借りて覚えました。インターネットって便利ですね」
「パソコンってぼくのパソコン?」
ガムリンチャはちょっと気まずそうに「勝手に使ってすみません」と言った。
「全然かまわない。ほとんど使ってないから。最近はスマホとタブレットで十分だしね。好きにしていいよ」
「フィーレンダンク」
「なに?」
「ドイツ語のお礼の言葉です」
「かっこいい。フィーレンダンス」
ぼくは両手をふって踊ってみせた。
「ダンスではなくダンクです。でもいいですね、フィーレンダンス」
彼も頭を振って踊って見せた。中々ノリがよくて好感の持てるガムリンチャだ。
その時、高級醤油のCMが流れた。卵かけご飯にうやうやしく一滴が垂らされる。ぽっちゃり目のタレントがご飯を頬張る。
彼は吸い寄せられるようにテレビのそばへ近づいていく。
「あの醤油はぼくたちの憧れです」
「きみたちは本当に醤油が好きだよね」
「最高の栄養源であり嗜好品なんです」
「ふぅん」
「多分、人間で言うところの依存性のないお酒や麻薬みたいなものです。しかも美味しくて栄養があって数滴摂取するだけで一週間は持ちます」
「最高だね」
「最高です」
「ぼくも醤油を数滴飲むだけでいい体質だったら良かったのに。お腹がすくのって困るよ」
ガムリンチャは少し考え込んで
「ぼくたちは人間とは根本的に違うんです」とつぶやいた。
「人間にとって体にいいものがぼくたちにとってはそうじゃないし、逆もまた然りです」
「逆?」
「人間にとって有毒なものでもぼくたちにとっては無害だったり、もしくはいい効果をもたらすことがあります」
「G対策グッズの宣伝文句みたいだね。Gにだけ効いて人間には無害ですとか」
ずいぶん強調されて書かれていたけど彼の話によれば当たり前なのかもしれない。
「人間にはぼくたちの弱点は未知のものなんだと思います。だからG対策グッズを作るのに、たくさんの仲間が実験台となり犠牲になっています。そしてその犠牲がより多くのぼくたちの命を奪うんです」
気まずい沈黙。
「ごめん」
ぼくは謝る。
「いいえ。ぼくたちが人間に嫌われるのは当然なんです。ぼくのいるコロニーでも皆そう思っています。家族も友達も当然のように受け入れています。ぼくたちは人間から隠れて生きて見つかったら殺される、そういう存在だと」
ぼくは何だか苦しくなってしまう。せっかくのお気に入りのスーパーのCMも楽しめない。
「人間に復讐しようとは思わないの?」
「傷つけられたら傷つけ返す、ということをぼくたちはしません」
「それはモラル的に?法律的に?」
「いいえ。ただ単にそういう発想がないだけです。ちなみにぼくたちの社会には法律はありません」
「法律がない?」
「はい」
「だけど...なくて大丈夫なの?」
「大丈夫です」
「誰かが悪いことをしたらどうするの?」
「誰も悪いことはしません。だましたり奪ったり殺したりという人間たちが犯罪と呼ぶことをぼくたちはしないのです。ぼくたちはとても単一的な存在なのです。別々の個体でありながら一つの個体であり、離れていてもお互いの意思や思考を理解することもできるんです。だから法律は必要ありません。きっと法律とは多様性のある知性体を制御するための仕組みなのでしょう」
「ふぅん、なるほどね。だけどルールは必要じゃないの?」
「ルールはたった一つです」
「なに?」
「王様の命令に従うことです」
「王様って」
何かのゲームみたいだ。
「王様というのは人間社会に当てはめた場合に一番近い言葉なので選びました。でも別にえらいわけでもなんでもなくて、ただ、重要な局面や全体的なことで皆に命令を出す役割を任されているんです」
「じゅうぶん、えらい気がするけど」
「王様は各コロニーにいます。ちなみに王様に命令できる存在がたった一人います」
「だれ?」
「皇帝です」
「皇帝?かっこいい」
「責任が重い割に地味にやることが多いので皆なりたがりませんよ」
何だか会社員の中間管理職みたいな感じで急にかっこよくなくなった。
「とにかくぼくたちは人間に復讐をしようとは考えていません。たとえどれほど仲間がひどい目に合わされようとも」
「すごいね」
すごいけど...やりきれない気がした。
「ところでお聞きしたいことがあって」
「なに?」
「人間の世界ではお金が大事なんでしょう」
「大事っていうか。まぁ、そうだね、必要なようにできている」
「あなたはお金持ちなんでしょう?」
いきなりそんなことを言われてぎょっとする。
「この大きな家もたくさんの貯金も不動産もあなたのものなんでしょう?」
「元々親のものなんだけどね。三年前に亡くなってぼくがもらったんだ。だけど何でそんなことを知っているんだい?」
「パソコンを見て知ったんです」
「そんなデータ入れてたっけ?ぼくはお金の管理は苦手で妻に任せているし」
「はい。パソコンにはデータがなかったので、家のWi-Fi経由で奥さんのスマホに忍び込んだんです」
「忍び込んだ?」
「ぼくらの体は電気を帯びているんです。技術的なややこしいことは省きますが、自分の意識をデジタル化してネットワーク上に入り込むことができるんです」
「すごいね」
さっきからぼくは、すごいばっかり言っている。
「奥さんはあなたのお金をたくさん使っていますね」
「色々と物入りみたいだよ」
「でも、あなたは自由にお金は使えないんでしょう?」
「ぼくは無駄遣いしてしまうから」
「食費もまともにもらっていないのにですか?今日は300円、昨日は411円、おとといはなんかは138円。奥さんは財布から気まぐれに余った小銭をテーブルに置いていますけど、あれがあなたの一日分の食費なんでしょう?138円の日はぼくたちのコロニーで気の毒だと噂になっていましたよ」
「噂になってる?」
恥ずかしさと金額の正確さにガムリンチャの情報網が少し恐ろしくなる。
「ちなみに奥さんはある特定の男性とやり取りを頻繁にしています。彼名義の口座にお金を振り込んだり、ネットでブランド物の高価なプレゼントを買って贈ったりしています」
「...知っているよ。彼は妻の友達なんだ」
「友達ですか」
「違うかもしれない」
「かも?」
「違うだろうね」
「納得できました」
納得。どういうことだろう。ぼくが首をかしげると彼は灰色の体を深々と折り曲げた。
「ありがとうございます」
どうやらお辞儀のようだ。
「あなたのおかげで、ぼくたちは変わることができたんです」
「どういうこと?」
訳が分からない。でも彼は答えてくれなかった。体を起こすと
「ぼくたちは行きます。でもこのご恩は必ず返しますから」
「うん?」
「最後に一つだけ忠告です。インターネットで危険な物品を買ってはだめです。痕跡は完全に消しておきましたが、今後も購入はしないようにしてください」
訳が分からなかった。質問しようにも既に彼は冷蔵庫の裏に姿を消していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます