ソイソース革命

ぐしゃん

第1話

 ヒェウアワ!!!


 言葉にならない叫びをあげて妻がソファから飛び跳ねた。


「どうして!対策したんじゃないの」


「したよ」


 春先にG専用の対策剤をドアや換気扇にまいた。宣伝文句によれば半年は安心。まだ今は8月。夏のGはタフでエネルギッシュでずるい。見事に我が家に侵入した。


「早くなんとかして!」


 ぼくは殺G剤を手にして西部劇のガンマンみたいに構える。Gが忍者のように素早く目の端をかすめる。発射、残像、スプレーの煙が西部劇の砂埃みたいに虚しく舞い上がる。逃げられた。


「なにやってんのよ、役立たず!」


 妻は怒ってキッチンを出ていく。ぼくは取り残される。


 ソファに座りテレビをつける。CMは心が和む。人気のタレントの笑顔。大企業の売りたい商品。わかりやすさが、すごくいい。ドラマやバラエティはぼくには難しいのだ。何に感動して何に笑えばいいのかわからない。


 Gがカサカサ部屋の隅で動めく。でももう妻がいないので気にならない。ぼくはCMを探してテレビのチャンネルを変え続ける。妻がいるとテレビの主導権はぼくにはない。妻はぼくとは逆の行為、つまり、CMを避けてドラマを探し続けるから、ぼくはいつもCMをじっくり楽しむことができない。


 シャンプーのCMに見入る。さわやかなのにしっとり潤う、夏の青い誘惑、と最近よく見かける女性タレントがささやく。彼女はボトルを額に押しあてる。ボトルは半透明の白で中身の深い青が透けている。多分、単体で見たら病的などろっとした青だ。だがタレントの額の上、というよりは、この創りこまれたCMの中では美しい青さだ。しかも天然成分でできているらしい。


 カタ、カチャ、と後ろで音がする。Gだ。多分テーブルの上にあがってきたのだ。テーブルの上には醤油が常設されている。妻は何にでも醤油をかける。ぼくは塩派だけど塩のボトルはテーブルの上にはない。


 Gは妻と同じく醤油派だ。先日も高級醤油の倉庫が被害にあった。うちの醤油はそれほどのものじゃないけど、Gにとっては塩よりはましなのだろう。


 ふと鼻がかゆくなり反射的にティッシュをとろうとする。つい振り返ったらティッシュボックスの左斜め向こう、醤油のボトルにはりついたGとしっかりと目があってしまった。


 Gは気の毒なくらい痩せていた。飢えているのだろう。ぼくに見つかった恐怖で身動きできないくせにボトルから細い腕を離せずにいる。5センチ弱の全身が恐怖でガタガタ震えて、醤油のボトルも揺れた。


 灰色で鱗上の肌。上半身は人間によく似たフォルムだが下半身は無数の触手でできている。頭部には鱗はなくてのっぺりしている。黒点のような目だけがあって鼻や口はない。


 ぞっとする、とぼくたち人間はGを形容する。本能的に受け入れられない外観なのだ。さらにGは不衛生だ、病気を媒介する、と後付けの理由で殺戮は正当化されする。そして結果的にGことガムリンチャも人間を恐れるようになった。


 ぼくはガムリンチャを嫌いじゃない。彼らが病気を媒介するのが100万分の1の確率で、媒介する病気が二の腕に四角い形の痣を作る通称四角病だということや、不衛生さが二日に一度の頻度で風呂に入る人間並だと心あるネットニュースが教えてくれたからだ。


 でもそんな事実は世間にとってはどうでもいいらしく、ガムリンチャは迫害され続けている。ちなみにぼくの妻も世間に入る。妻はガムリンチャを迫害する。ぼくのことも迫害する。妻は迫害に忙しい。


 不意に眩暈がした。


 ...い い の で す か ...


 頭の芯がビリビリしびれて、その音が言葉になる。


 幻聴を聞くのは四年半ぶりだった。


 懐かしい感覚だった。


 ガムリンチャの触手が空気と接触面を震わせて、普通の人間には聞こえない“信号”を出す。これは“サイン”あるいは“幻聴”と呼ばれている。


 ある研究者によれば、“サイン”が聞こえるのは30万人に一人の特異体質で、別な識者によればただの“空耳”だという。要するに何もわかっていない事象だということだ。


「持ってきなよ」


 ...あ り が と う ご ざ い ま す...


「どういたしまして」


 Gは醤油のボトルを抱きかかえてテーブルから飛び降りて、キッチンカウンターの向こうに消えた。


 一瞬、何かがひっかかる。でもそれを突き止める前にぼくの心は不動産会社の新CMに奪われる。

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