第2話 須貝の庄
弘紀が須貝の庄へ出向くことを決めたのは、三ヶ月ほど前の夏の終わりの頃だった。夏の終わりとは言っても日中の暑さはまだ厳しく、朝の涼風が残る昼前に馬の調練を済ませた修之輔が二の丸の長屋に戻ると、中に弘紀がいた。
「須貝の近くに新たに茶畑を開墾したいのです」
お仕着せの着物を着て城内の下働きに変装した弘紀は、部屋の中央に広げた地図から顔を上げないまま修之輔に話しかけてきた。地図には羽代の領地が彩色された絵で描かれており、田や畑など何に使われているかが色と文字の両方で書き表されている。
「斜面があって、土があって、開墾が比較的容易にでき、できれば河川に近い方がいい」
弘紀は手に持った扇子で地図のあちこちを指し示す。
「でも、そんな場所はすでに開墾されて田畑になっているんですよね」
そう言ってようやく顔を上げた弘紀の表情は、ただ事実を述べてるだけ、言葉の割には迷いも困惑もその表情には浮かんでいない。
修之輔は二人分の湯飲みに甕から水を入れ、一つを弘紀に渡してから自分も座敷に座った。
藩主である弘紀は迂闊に自分の意見を言えばそれが決定事項となってしまうため、口にする言葉には日ごろ常に気を配っている。けれど物事を判断するためには人と話すことの必要性も弘紀は十分知っていて、なので何か考え事に詰まると気安く雑談ができる修之輔の部屋を訪れる。
修之輔は自分の湯飲みの水を一口飲み広げられた地図に目を落とした。
そもそも石高に直結する田畑をたやすく茶畑に変えることはできないのは決まりきったことだった。羽代の地は古来より人が居住していたため、開墾しやすい地はそのほとんどが田畑になっている。
弘紀の父の代から新田開発も行われているが、それは海辺の開けた地域に限られているため斜面を必要とする茶の栽培には適さない。羽代の領地全般が耕作に適した地だからこその解決しがたい土地問題だった。
「前の参勤で羽代の茶を商ってくれる新たな問屋を見つけることができました。その商人曰く、羽代の茶はこれまでにない特質をもった良い茶だということです」
「羽代の茶のどんなところが評価されたのだろう」
修之輔が弘紀に向ける口調は、黒河に二人がいたときから変わっていない。この藩の当主に向けるにしてはぞんざいすぎると相応の言葉遣いに変えようとしたが、弘紀がそれを望まなかった。
以来、二人だけでいるときは互いに前からの、剣術の師弟であったときの口調で話している。
「香りの良いところだそうです。けれど羽代で採れるすべての茶がもつ香りではなく、特定の地域で採れる茶のみが持つ香りなのです。私は今後その茶の木を増やしていきたいのです」
「特定の地域、というのは」
修之輔がふたたび地図に目を落とすと、弘紀が扇子の先で地図の片隅を指し示した。
「ここです」
そこに書かれている須貝という二文字の地名。修之輔には覚えがあった。
「そこは木村の実家がある土地だと聞いたことがある」
木村によれば、須貝の庄では近年、疫病が流行って多くの土地が捨てられたという。
その流行り病は、胸に入って咳や熱を引き起こす伝染病だった。辺りの別の村にほとんど病は見られず、ただその場所だけで二人、三人と死者が出るうち、次第に村人は離れたところの親類縁者を頼ってその土地から離れて行った。
ちょうど羽代の海辺では干拓が始まった頃で、そこへの入植を藩が奨励したことも村人の離散に拍車をかけた。疫病がすべて収まるまで留まったのは、その土地の庄屋を務める家の者だけだった。それが木村の実家と縁者たち数家族だった。
香り良い茶ができる土地なのに茶葉の生産に携わる人手が少なく、放棄された耕作地は荒れたままである。このごろは木村と懇意の下士で役職に就いていない者も時折訪れて、茶の木の世話を手伝っているらしい。
「そこに新たに茶畑を拓けないか、検討する価値は十分にありますね。一度見に行きたいな」
木村から聞いていた須貝の庄の話を修之輔が弘紀に教えると、すぐに弘紀は須貝の土地に視察に行くことを決めた。
「これから予定を組みますから、行くのは秋になるでしょう。勿論貴方に護衛を務めてもらうことになります」
この春に修之輔は藩主の護衛を任務とする馬廻り組の組頭に任命されていた。任命したのは他でもない、弘紀自身である。
「貴方も一緒に、行きましょう」
弘紀はそういって華やかな笑みを修之輔に向けた。
その時の会話のとおりに弘紀の政務の日程が調整され、十一月の上旬に視察の件が公布された。それ受けて修之輔は先日、木村の家へ煎茶道具を届けに行ったのである。
弘紀が須貝の庄への視察に出る前夜、修之輔は任務である夜の見回りが終わってから弘紀の私室を訪れた。弘紀の私室は政務を行う二の丸御殿の奥にある。当主からの正式な呼び出しではなく、隠し通路を使っての訪問は以前から何度も密やかに繰り返されていることだった。
一昨日から降り続いている長雨のため、夜の寒さは冬の訪れすら感じさせる。私室で寛ぐ弘紀は、寝巻の白い単衣の上に灰色の羅紗の羽織を掛けて地図を見ていた。それはこの間、修之輔が木村の家に持っていた須貝の庄の地図で、その後いくつか続いた報告と話し合いの結果が所々に書き込まれている。
「須貝という土地の名前は、昔その辺りを収めていた豪族の名に由来するのだそうです」
明日の視察の工程は既に綿密に打ち合わせが済んでおり今さら確認することは一つもない。だから弘紀の話すことは当たり障りのないことで、ただ修之輔と心安く言葉を交わす、そのためだけの話題だった。
それは修之輔にも分かっていて、部屋に忍び込む雨音と潮騒の音の揺らぎに話の行方をを任せ、弘紀と視線を交わしながら会話を紡いでいく。
「ならば今もその豪族の流れを汲むものが羽代の家臣にいるのだろうか」
「いえ、徳川様の治世が始まる前に途絶えたと聞いています。滅ぼされたのか、住む場所を変えたのか、あるいは他の豪族と融合したのかもしれません。今、須貝の名を持つ者は羽代の地にはいません」
かつてはこの辺りに構えの大きな館があったといいます、と言いながら、弘紀は地図の片隅を扇子で示すが、そこには荒れ地とだけ書き込まれていた。
「明日、この近くを通ることになっているのですよね」
「ああ、そこにはしっかりした道が通っていると木村に聞いた。だが今の話を聞くと、その道はもともとその館を使っていた者が作ったのかもしれないのだな」
「人がいなくなっても道は残る、というところでしょう」
そこで言葉が途切れて、秋の終わりに細く鳴く虫の音だけが雨音に紛れて聞こえてきた。何気なく見交わす視線の内に、互いの心情を測り合う。
先に視線を外したのは弘紀だった。修之輔に弘紀が決めたことを覆す権限はない。元より、逆らうつもりもなかった。今夜はこれで充分、それが弘紀の意志だった。
「……明日はそれほど早い出立ではありませんが、それでも貴方には準備があるでしょう」
そう促す弘紀に見送られ、修之輔が隠し通路を通って御殿の廊下に出ると、先ほどまで降っていた雨は既に上がり雲を透いて月の光がうっすらと滲んでいた。
翌朝、前日までの長雨が上がり、久しぶりに晴れた秋空が広がった。
須貝の庄へ向かう一行は、愛馬である松風に騎乗した弘紀の他に、修之輔が指揮する騎馬の馬廻り衆と番方から歩兵隊が一組、ついていく。これは日ごろの訓練の成果を確かめる意味合いもあり、歩兵隊は皆、洋銃を持っている。そして、当主である弘紀も背に洋銃を背負っていた。
一年前の江戸参勤の時に手に入れたスペンサー騎兵銃を弘紀は気に入って、羽代に戻ってからは城の外に出るときは常に背に担いでいる。修之輔は弘紀の刀を預かって、残雪の脇に下げて運ぶ役目を言い渡された。
羽代は海が広がる南側とは対照的に北の方は信州へと続く山脈のはしりが伸びる。
須貝の庄はその山へと続くなだらかな丘陵地帯の一画にある。
城を出て半刻ほど、道はなだらかに登り続けて、やがて山道に差し掛かった。
「おおい、この先、道が崩れているぞう」
先行した物見がそんな報告を寄こしてきた。それを聞いた家臣の一人が周囲を見回し、畦で頭を下げている百姓に状況を尋ねる。
「へえ、一昨日の夜に鉄砲水が出て、だいぶ土が流されました」
「被害はどれほどか」
「そうですねえ、崖が崩れて山に近いところの家が二つほど潰されちまいましたが中にいたモンは何とか逃げましたなあ」
もともと二十年前に大きな地震があって、この辺りの地盤は緩みがちだったらしい。このところの長雨でとうとう崖が崩れて鉄砲水が出たのだという。
馬であれば行けるのではないかとその崖崩れの場所まで進んでみたが、鉄砲水の名残か、山から下る水が細い流れを幾筋も作り足場を不確かなものにしていた。突貫の道を作るには人数が足りず、羽代城に引き返すほかはない、という雰囲気が伝播していく。
と、急に行列から一騎が飛び出して土砂の上に蹄を掛けた。他の馬が戸惑って足を止めた土石の山をその馬は難なく登っていく。馬に乗る者の小柄な背には洋銃があって、その騎馬が弘紀と松風であることに皆が一呼吸遅れて気付いた辺りで当の弘紀が振り返った。
「馬が登れるなら、人も登れるだろう」
どちらも登れないから皆が足を止めていたのに当主の乗るあの馬がおかしいのだ、と、一瞬ざわめく辺りを置いて、修之輔は残雪の腹を蹴り、土石の堆積を上るよう促した。賢い残雪は危険を察知して進むことを躊躇うが、修之輔が右、左、と出す足に一つ一つ指示を与えると、やがて要領を飲み込んだのか自らの判断で登り始めた。
「付いて来ることができたのは、貴方だけですか」
弘紀が修之輔の姿を見て喜ぶ顔を隠さずに松風を寄せてきた。
「崖が崩れたばかりだといいますから、ここから少し離れて待ちましょう。見晴らしのいいところがあれば、そこで皆を待てば良いでしょう」
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