第3話 霧中の山百合

 腹の底にわだかまる苛立ちに空腹が輪をかけて、忠孝はその夜は一睡もすることなく己の太刀をじっと眺め続けた。

 須貝の後継者たる忠孝に渡された太刀である。細やかな細工は、本来ならそれが陣中にあっても抜かれることのない道具に過ぎないこと物語っている。

 鞘に収まって、しん、と重い兵庫鎖の太刀と、初陣で功績を上げるどころか山中に隠れ潜んでいる今の自分の身の上と。重なるようで重ならない思考は忠孝の頭中を夜通し巡った。


 月が沈み切る前に夏の空は白み始めた。

 足元が見える程度の明るさを待って忠孝は太刀を持ち小屋を出た。小屋の外には籐佐が立っていた。互いに無言で歩き出し、だが足を向ける場所はあの池しかなかった。

 水を腹に入れて空腹を紛らわせる。

 思考というより生き物の本能で近寄った水辺には、山百合が昨日とは違う新たな花を咲かせていた。


 とぷん


 手に汲んだ水を飲み干して顔を上げると、池の水を何かが潜る音がした。

 忠孝は何の気なしに立ち上がり、膝丈より高い草を分けて音の聞こえた方へ近づいた。緑の草むらの中に真白な生き物が動く。よく見ようと身を乗り出そうとして、後ろからその肩を強く引かれた。いつの間にかすぐ近くに身を寄せていた籐佐だった。


 途端、昨晩の出来事が甦り、肩に掛けられた籐佐の手を振り払おうとして、また昨晩と同じように手を掴まれ、抑えられた。抗議の声を上げようとしたが、籐佐の視線は忠孝ではなく、前方の草叢に向けられていた。

「動かないでください」

 籐佐の声を耳元に聞き、ゆっくりと前を向く。微かな風が池の水面を渡って青草を揺らした。割れた草の波のその先にいるのは、朝靄の白さよりもなお白く、昇る朝日を思わせるほどに輝く一羽の白鷺だった。


 白鷺と忠孝の目が合った。

 感情のない野生の目。忠孝は視線を逸らせた。

 鷺は姿の見えている忠孝を警戒しているが、草の陰に身を屈めた籐佐の存在には気づいていない。忠孝は僅かに己の顔の向きを変えた。白鷺は忠孝のその動きの意味を探ろうと、じっと忠孝を見つめている。

 次の瞬間、籐佐が手に持っていた石を勢い強く投擲した。石は鷺の胸の辺りに当たり、もがきながらも飛び立とうと持ち上げた翼が広がり切る前に籐佐が白鷺の首を掴んだ。ごうごうと鷺は鳴き、首を絞める籐佐に抗う。

「籐佐、退け」

 今度は忠孝が籐佐の肩を抑え、手の中にある兵庫鎖の太刀で白鷺の首を貫いた。池に踏み入れていた二人の足元には白鷺の首から溢れる血潮がぼたぼたとこぼれ落ち、水面に不規則な輪をいくつも作った。


「ここで血を抜いてから持ち帰りましょう」

 そう云う籐佐に後の始末を任せて、忠孝は太刀に付いた鷺の血を拭い、鞘に納めた。

 その視界の隅、何かまた動くものがあった。

 鷺の羽を毟る籐佐の動きを、今度は忠孝が手で制する。

 それは水面下に潜んでいた。黒い影が見え隠れしながら水の中を巡っている。

 忠孝はもう一度太刀を抜いた。影を目で追いながらゆっくりと太刀を持ち上げる。狙いを見定めて勢いよく、太刀を水面に突き立てた。

 鷺よりも力強く、水面を叩く激しい音。水しぶきの中で太刀を引き上げれば、その先には一尺を優に超える山女魚が刺し貫かれていた。

 すぐにまた足元にぬらりと触れる別の影。忠孝は山女魚一匹を刺し貫いたままの太刀をもう一度、水に突き立てた。今度はさらに大きな山女魚が先に刺さった。


 忠孝は籐佐を見た。

 片手に鷺をぶら下げた籐佐は目に笑みを浮かべて忠孝を見ている。

 その目に映るのは昨夜の感情と同類のものであることを忠孝は直感したが、反発する気持ちは起きなかった。


 小屋に戻り火を熾して山女魚を焼き、夜には血を抜いた鷺の肉と掘り出した山百合の根で腹を満たした。久しぶりに感じる満足感は、若い忠孝にここ数日覚えなかった健康的な眠気を呼び起こした。

 土間では籐佐が火種を守っている。その明かりを頼りに太刀の手入れをし終えると外の風の音が強くなってきているのに気づいた。風が巻いている。深い谷が山の奥まで伸びるこの地に独特の風で、この風は夏でもなお根雪の残る北の山から冷気を運んでくる。

 忠孝は寝る前に麻布一枚の着物の襟を合わせてみたが、案じていたように深夜になって風はより強く冷気を帯びた。


 夏という季節を忘れさせるほど深々と冷え込む夜気に、忠孝は眠気を覚まされた。

 昨夜より格段に寒い。太刀を引き寄せてみたが、鞘を介して鉄の塊の冷たさが感じられただけだった。

 火種は巻き込む風に消され、開け放たれたままの間口から冷気が直接小屋の中に吹き込んでくる。壁に身を寄せると少しはましになった気がしたが、それでも眠気は去ったままだった。


 と、忠孝の動きに気づいた籐佐が土間から床に上がってきた。

 気配を察しても忠孝は籐佐を見ようとはしなかった。籐佐は忠孝の傍らに来ると、壁に向かう忠孝の背にその背を向けて、律儀に自分の体が忠孝に触れぬよう二寸ほどの間をおいて横になった。狭い床に身を屈めるようにしていても籐佐の体躯は忠孝より一回り大きい。小屋に流れ込む冷気が籐佐の背で遮られるのが分かった。


 少し間を置き、忠孝は籐佐の背に自分の背を付けた。


 触れるか触れないかの微妙な距離を神経質に保つより、いっそ完全に背中を預けてしまった方が気が楽だった。互いの呼吸を粗末な麻布越しに感じる多少の居心地の悪さは、互いの体温に再び呼び起された眠りの誘引に打ち消された。

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