降雨と濃霧でトドコオル。

繕光橋 加(ぜんこうばし くわう)

9:45―チユヒコの出陣

 悪魔の赤子が泣いている、この世界の空には。

 ドンッッ――、という強い衝撃が空に伝うと、晴れ空も雨雲も急き立てられたように身を震わせ、産み落とされた歪みにかいがいしく世話を焼くように、太古からある自然も、技師たちの築き上げた電子網も、たちまち膝を曲げ、狂いだす。

 そして涙と呼ぶには、あまりにも刺々しく、汚れ切った、世界の残骸とも呼ぶべきモビールが、壊れたように空から落ちてくるのだ。地上に生きる私たちは、降り注ぐつぶてに抗うことはできない。

 決して空模様を翻すことはできない…私たちにできる事は、ただ、この地の上を駆けまわることくらいなのである。



 就職前は、こんなに忙しい仕事とは思わなかった…なんて経験、誰にだってあるだろう。その道のベテランも、あるときは感情を、またあるときは私生活の一部を捨てて来て、やっと今の仕事場があるのだ。

 こと郵便配達人でも、ガス灯がはたはたと揺れる街角で、舞い降りた綿毛を見て空を見上げ、「あ、雪だ…」などと冬の訪れに気付く美少女など存在しない。ましてや僅かな外部の変化に耳を傾けながら、封書をぎゅっと握るその美少女の画など、ある訳がないのである。

 現場にそんな暇はない。痛くも幼い幻想なのだ。

 見仰ぐ空など、横叩きの雨が弱まり、感覚のマヒした配達の「ん?これ止んだ?降ってる?……知らん。止んだことにしよう。」程度の、速さに強弱を生むフィルターでしかない。そうして手紙はポストに叩き込まれる。

 明日は明日の風が吹く。気まぐれ猫のご愛嬌。しかし配達員たちが求めるのは固定された天候なのだ。

 管理された気象、惑星の自転運行や公転周回さえも、コンピュータが統括できないのか…これが令和までの淡い願いだった。



「もう、もういいだろ!?」

 朝から事務室で泣き言を上げる私は、配達員のルーキー、チユヒコだ。いつもはクールに帽子をかぶり、鋭い眼光をつばの根本から覗かせて、私を怖がる人も多い。そんな私も、今朝はついに戦々恐々とした心持ちで、長机に突っ伏さんばかりだ。

「いやあ、残業はかさんでるね。今日は早く帰りなよ。」

「そりゃあ帰れるなら帰りたいけどさぁ!……はぁ。」 

 私だって入局して数年はまじめに大人しくしていたが、最近では給料が安いことに気付いてしまい、どうにも仕事に身が入らない。それもこれも、あの空にぶち模様を作る気象兵器のせいだ、などと、今更な八つ当たりを心中に繰り返す。

 

 この戦争が始まってから、ボロボロになったのがプロバイダ各社だ。かつて誰にでも開かれていると謳われた、先進文明の雄たるインターネット環境も、上空での攻防に大いに振り回されている。消失こそしていないが、その接続の不安定さは「便利で現実的なもの」ではなくなってしまった。

 その影響で通常の郵便物数も増え、官公庁差出のA4三つ折りの封筒がぐっと増えた。長形三号の枯葉のような封筒が積まれて束となり、郵便事務室の区分口棚を彩っていく。

 蛍光灯の弱々しい明かりは、黒い雨の降る窓から見える暗さの前には心細い。しとしと、ぱらぱら、雨が事務所を鳴らす。色々な音を立てて鳴らす。

「今日の天気は?」

 朝の天気予報など、この仕事に従事する皆が見ているのだ。だが、一縷ばかりの望みを捨てられずに聞く。この悪天候が覆りはしないか…?

「三丁目三三区、三四区もまたがって、昼前にはインク雨、お昼からはもっと降るね。十五時には弱まりもするんじゃないかな?」

「糖蜜雨は?」

「否定できないけどね、午後から。用心はしとくんだな、チユヒコさん。」

「…ノイズがどう群れるか、分からんな。27で収まればいいが。」

「ね。」

 ふう、と息をつき肩を落とす。だが、どれほど嘆いても働くことには変わりない。昼から降るということは、弱い雨の午前中こそ勝負なはずだ。

 出発準備がてらスキンクリームを塗る同僚ノズリザを事務室に残し、エレベーターの鉛の扉は閉まった。

 …しゃきっとしないか、自分。次に扉が開くころには、空中制動機が並ぶ地下車庫の片隅に、残虐な戦士が生まれ落ちるのだ。

 口づけをした缶コーヒーは、砂を噛んだような味がする。この黒い飲料に、わずかばかりの安らぎなんて期待できなかった。いつだって私たちが無理に見出している、弱々しい慰めに過ぎないなんじゃないか。


 キビキビと冊子類や荷物、それと手紙を空中制動機に積み込み、敵を掃射するための砲口を取り付ける。今日はK川沿いの三丁目の配達だ。インク雨から守るための装備と糖蜜雨の装備は全く異なるのだが、とりあえずはインク雨対策だ。糖蜜雨は捨てよう。

 そんなことをやっているとノズリザが事務室から降りて来た。彼女もまた仕事の表情になっている。配達用の乗務機械は進化したのに、台車はまだアナログで、ゴリゴリと車輪から金属音が鳴っている。

「ふん、どうせ糖蜜対策してないでしょう。」

「いらんいらん。午後だろ、降るのは。」

「それでまた汚損で怒られるんだよ。…まったく、一緒に持っていくだけ持ってったらいいのに。」

「邪魔になりますんで。」

 やれやれと、あたかも私をたしなめる顔をするが、彼女は同期なのである。それで私と同じくらい速いわけだから、過ぎた心配はご無用という頼もしさと同時に、僅かならぬライバル意識も持っているのが正直なところだ。


 彼女は、速かった。速くなければやっていけない。


 私たちは追いかけられている。時間制限とあの局所的な雨雲に。


 本当に恐ろしいのは雨や酷暑ではなかった。「時間制限」だ。押し寄せるおびただしい仕事量や、徒党を組んだ敵さえ大したことはない。やっていればいつかは終わる。

 だが、いつかではダメなのだ。そここそが給料になる最も根本的な礎なのだから。

 かといって怪我をしたいわけでもない。大して働いてもないのにダウンしようものなら、そんなものは無能の象徴だ。仕事ができないやつに限って仕事しながら怪我をする。…ここまで啖呵を切っておきながら、交通事故や転倒などの惨事を舐めると洒落にならないのだが、それでも終わらせようとして、どうしても心が急いてしまう。

 到着地に呼ばれるようにして体は飛んでいく。


 暗い空。垂れ込む雲からは黒いインクの雨が降る。西にはまだ晴れの兆候は見えない。

 小型免許、ピンクナンバーの空中制動機1223-3号は唸りを上げながら、街の中を切り裂くように飛ぶ。交通法規の胸に抱かれ、力いっぱいモーターは回る。

「うわ、なんだこれ!小雨かと思ったら霧雨じゃないか。うえぇ?」

 同じゼロミリの雨でも、小雨と霧では濡れ方が段違いだ。霧の方が全身濡れるし、汚される。やはり装備を厚くして出た方がよかったか…と思いながらも、もう出てしまったのだから仕方がない。いよいよ早く終わらせた方がいいだろう。

 私ならできる、私ならできる…!一発目の街角に至る前、民家やアパートの速達と午前再配の書留を消化していく。


「こんにちは!郵政局です!速達です!こんにちは!……」

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