無敗のギルドマスター

天音鈴

第1話

 そこは、地獄としか表現できない場所だった。


 燃え盛る業火が一面に広がり、人や家を容赦なく焼き払っていく。


 叫び声が聞こえる。ある者は絶望の声を、ある者は救済を願う声を上げていた。


 人々の願いを踏みにじりながら、炎は村を包み込む。全てを灰にしてもなお、その勢いは止まらない。


 ふと、目の前に少女が現れた。


 救いを求めるように、その小さな手をあらん限りの力で伸ばす。


 手を取ろうとした。そのときだった。


 少女の胸に生える一本の剣。


 おびただしい血液で地面を赤く彩りながら、少女は地面に倒れ伏す。動揺に目を大きく開くと、そのまま動かなくなってしまった。


 どうして、どうして――。




「……ん。俺、寝てたのか」


 寝起きで定まらない視界のまま、イーサン・グルーバーは部屋の中を見渡した。


 イーサンの目の前には、山のように書類が積まれた執務机がある。さらに奥へと目を向けると、接客用の長机を挟むようにソファが二つ置かれていた。


 大きく伸びをして、頭に残っている眠気を吹き飛ばす。凝り固まった筋肉や骨が軽やかな音を立てた。


 ちょうどそのとき、ドアが数回ノックされる。


「イーサン、起きてる?」


「エリスか。今起きたところだ。入ってくれ」


 執務室に入ってきたのは、長い金色の髪が印象的な女性だった。仕事に支障が出ないように髪を後ろに纏めている。すらっと通った鼻筋に、大きく開かれた瞳。澄んだ水のような青い眼が、椅子に座るイーサンを見下ろしていた。


「顔にインクが付いてるわよ。また徹夜してたんじゃないでしょうね」


「思いっきり徹夜だったよ。この量の書類が一日で終わるように見えるか? どうやっても勤務時間内に終わるわけがないだろ」


 イーサンは怒った口調で机に溢れる書類を指さした。


 冒険者ギルドへの討伐依頼や、酒場からの請求書、冒険者の安否確認など、多種多様な書類が机の上を占拠している。


 メアリーは嘆息するように紙束へと目を落とし、改めてイーサンへと目を向けた。


「言いたいことはわかるけど、あなた、何日家に帰っていないのかわかってる?」


「えーと、約五日か?」


「一週間よ、一週間! お風呂にも入らず、満足に寝てもない。そんな状態でいいと思ってるの? そんな生活を続けてたら体調崩しても文句言えないわよ」


「近くの川で水浴びしてるし、そこのソファで横になってる。どうだ、完璧に執務室での生活を送ってるだろう?」


「馬鹿なこと言ってんじゃないわよ……」


 エリスは呆れた眼差しで、ブラックな仕事に取り組む男を見下した。


 その間にもイーサンは手元の書類に目を走らせ、ギルドマスター認可の印を押していく。数年続けてきた仕事なだけあって、その流れは極めて速い。


 エリスは仕事に熱中するイーサンにため息をつくと、紙束の山から数枚を抜き出した。


「今日の新しい依頼は……ゴブリン退治と、サラマンダー退治。それに、薬草の採取で合ってる?」


「そうだ。ついでに印を押したこの依頼も持って行ってくれ」


「ホーンベアの捕獲……こんなに沢山の依頼、冒険者たちがやってくれるかしら。ここの冒険者ギルドに暇な冒険者はいないわよ」


「そんなことは知らん。だが、依頼が来たからには、それを出すのが冒険者ギルドの仕事だ」


 イーサンとエリスが勤める冒険者ギルド「フェンリル」は、アスター王国の南端の町であるメルコポートにある。


 一年中暖かい気候のこの地域には人が住みやすい環境のため、メルコポートの人口はアスター王国の中で首都を抜いて最も多い。


 しかし、


「人間が住みやすいところって、どうして魔物も住みやすいのかしら……」


「そりゃ、同じ生き物だからだろう。あいつらも人間や魔物を食って生きてるんだ」


「生々しい話はやめて」


 よろしくない表現を耳にして、エリスは眉を顰める。氷のような心臓を射抜く視線に、イーサンは思わず背筋が伸びてしまった。


 耳を澄ますと、階下から冒険者たちの声が聞こえる。どうやら依頼を探しに来たようだ。


 イーサンは手を叩いて執務室の空気を一新する。


「無駄話はここまでにして、さっさと仕事に取り掛かるぞ。エリスは受付に戻ってくれ」


「しょうがないわね……あっ、そうだ」


 エリスは手を叩き、スカートのポケットから一枚の紙を取り出す。イーサンは手渡された紙を受け取り、紙面に目を落とした。


「キメラ討伐の依頼じゃないか。俺に渡さず掲示板に出してくれよ」


「誰への依頼なのかよく見てみなさい」


「へ?」


 イーサンは紙の一番下に目をやると、自分宛ての依頼になっていた。しかし、まるで見なかったように、イーサンは書類を紙くずとして込み箱に投げ入れる。そのまま溜まった仕事に取り掛かろうとした。


 その光景を目にしてエリスは平然としている。いい加減なギルドマスターに侮蔑の感情すら抱いていないようだった。


 エリスは丸まった依頼書を取り出し、シワを伸ばして綺麗にする。


「冒険者を引退して、最年少で冒険者ギルドマスターになったあなたが依頼を受けたくないのはわかるけど、キメラ討伐ぐらい半日で終わるでしょ?」


「そこまでわかってるなら聞くなよ。半日も無くなったら普段から溜まってる仕事が終わるわけないだろ。それに、今日も朝から依頼の認可をして、依頼が達成できなかったジャックさんの家に土下座しなきゃならないんだ」


「ほんと、冒険者の頃のイーサンとは大違いね」


 プライドを彼方に放り投げてしまったイーサンに、エリスは白けた目を向ける。過去のイーサンの姿と今の姿を重ねているのだろう。エリスの瞳は遠い過去を見ているようだった。


 しかしこの程度で引き下がらない。エリスはもう一度依頼書をイーサンの眼前に突き出した。


「この依頼を受けられる実力者はあなたぐらいしかいないのよ?」


「そんなわけない。タイアーやグレンとか、適当な冒険者ならいくらでもいるだろ」


「タイアーさんはドラゴン討伐、グレンさんは行方不明。ほら、誰もいないでしょ?」


「おい、グレンが行方不明ってどういうことだ」


 イーサンの突っ込みにエリスは顔色一つ変えない。盗賊のグレンの行方が掴めないのはいつものことなので、冒険者ギルドにとって大した問題ではないのだが。


「それはともかく、キメラ……どうするかなぁ……」


 キメラはかなり手強い魔物であり、並みの冒険者で太刀打ちすることは不可能だ。よほど腕に自信のある冒険者が挑まない限り勝ち目のある相手ではない。


 回転する椅子をグルグルと回しながら、イーサンは思案に耽る。壊れかけの椅子が苦痛を訴えるように甲高い音を立てた。


「報酬も弾んでくれるみたいだし、行くだけ行ってみたら? 時間がかかるなら帰ってくればいいじゃない」


「けどなぁ、ギルドの仕事で手一杯だからなぁ」


「もしかしたら、村が滅ぼされちゃうかもしれないわよ?」


 その一言で執務室の空気は凍り付いた。気楽な雰囲気だったイーサンの目に殺意が宿る。


 まるで喉元に剣を突きつけられたように、強張ったエリスは無意識に喉を鳴らしていた。


 だが、その空気はイーサンの声と共に氷解する。


「わかった。そこまで言うなら行ってやる。その代わり、適当に俺の仕事をやっといてくれよ」


「さすがはイーサンね」


 煽てられているような感じがして、目の前のエリスに腹が立つ。しかし怒りの気持ちを抑えて重い腰を上げた。


 壁に立てかけられた巨大な両手剣を手に取り、執務室のドアへと向かう。


「頑張ってね、イーサン」


「仕事が減ってなかったら承知しないからな」


 嫌味のような口調で、笑顔で手を振って見送るエリスにそう言った。

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