Act.7-4
シャワーを浴びて部屋に戻った由は、ベッドの片方に座り、小さく息をついた。マカノから手に入れた名刺に記載されていた名前を、そっと唇に乗せる。既に《
キィ、と
「永?」
振り返らないまま、永は
「永……?」
立ち上がり、永のもとへと歩いていく。そっと手を伸ばす。けれど、その手が、永の背中に届く前に、振り返った永が、その手を掴んだ。
永の瞳は、雫を湛えて揺れていた。
「……守れて、良かった……でも……」
涙より先に、震えた声が、永の喉から
「…………怖かった…………」
由の手を掴む永の手に、ぐっと力がこもる。由を見つめる永の瞳には、苦しげな炎が揺らめいていた。
「……今日だけじゃない……ずっと……怖い…………もうずっと…………兄さんを、いつ喪ってしまうか知れない……いつ奪われるか知れない…………この世界で……俺は……兄さんを……いつまで守っていられるんだろう…………」
永は顔を伏せた。張り詰めていた糸が切れ、溢れた言葉には、涙よりも澄んだ、ひとつの心だけがあった。
「永……」
掴まれた手と逆の手を、由は静かに、永の頬に伸ばした。ふわりと、包むように重ねる。
「怖いのは……お前だけじゃない。俺も、同じだよ、永……」
「お前を喪ってしまったら、俺は、俺でいられなくなる」
由の言葉に、永は顔を上げた。雫を湛えた瞳が、一瞬、僅かに大きく見開かれ、そして、切なげに細められる。
「……同じ……なんだ…………兄さんも……俺も…………」
弟であるということ。兄の弟であるということ。
兄であるということ。弟の兄であるということ。
ふたりでいるから、生きていられること。
「……どうして……だろう…………」
永の、その問いかけは、由に向けたものではなかっただろう。世界だった。奪うばかりで与えない世界に、永は問い続けていた。
「この世界で……生きることは……どうして、こんなにも、難しいんだろう……」
由が問い続けてきたことと同じに。
「それでも……」
由は微笑む。微笑むことしかできなかった。ずっと、ずっと……微笑んできた。微笑むことだけが、由にできる、たったひとつの、弟を守るすべだった。世界から、心を守るすべだった。
「俺たちは、今、この瞬間……生きて……ここに、存在している」
「一緒に生きて、ふたりで存在している」
永の頬に重ねた由の手に、温かな雫が触れた。心そのものの温もりだった。
それは流星のように、きらきらと光の軌跡を引いて、
「兄さん」
永の腕が、縋りつくように由を抱えた。封じ続けた心の奥から、その暗闇から、放たれた、それは、願いだった。星のように儚く灯り、あえかな光で瞬きながら、涙とともに流れていく、心の破片だった。
「……触れたい……」
「兄さんの命に、触れたい」
永の両手が、由の頬を包む。そのまま、その手は耳の縁を通り、髪の中を進み、頭の後ろへ回って、引き寄せられる。瞳が近づく。鼻先が擦れる。永の吐息が唇を掠め、由は目を閉じた。柔らかな熱が、唇に触れる。そっと重ねて、一度、離れて、それから今度は、密に塞いだ。雫の音が響く。永の舌が問いかける。由は頷き、砦を開いた。しなやかな永の熱が、由のそれに絡む。強く吸いつかれ、由の脚の力が、ふっと緩む。その体を、永の腕が、危なげなく支え、抱きとめた。
刹那、唇が離れ、由は忘れていた呼吸を取り戻す。そのとき、ふわりと、両足が床から離れた。永に抱き上げられたのだと知ったときには、永は由の体を、そっとベッドに横たえていた。
月明かりが、カーテンの隙間から射し込んでいる。澄んだ淡い光を受けて、永の頬を伝う涙が、きらきらと瞬いた。
「ごめん、兄さん」
「こんなかたちで、愛してごめん」
永の声が、涙とともに、由へと落ちる。
「謝らなくて良い」
由は微笑んだ。手を伸ばし、永の頬に触れる。涙に、重ねる。
「言っただろう、永」
永の頬を包み込む。そっと、永の
「俺も、お前を、愛している」
「お前が愛したいように、俺を愛してくれ」
由は微笑む。微笑み続ける。たったひとつの、幸せのために。
由にとって、弟は、この世界の全てだった。親を失い、家を失い、残されたのは、たったひとりの弟だけ。失い続けた世界の果てに、唯一、残った幸せが、弟だった。
生きたいと思える世界ではなかった。両親、故郷……幼い自分を守るもの全てを
「……兄さん……」
声を追いかけて、唇が降りてくる。瞼を下ろし、由は永のくちづけを迎える。永の手が、由の
弟を生かすためなら、生きられた。
弟と生きるためなら、生きられた。
ずっと、ずっと、今も、弟を、
――守るためなら、生きられる。
幸せも、
――お前に、俺の、全てを与えよう、永。
心も、命も。求められるもの全て。
――幸せの名も、希みの名も、愛の名も、全て、お前なんだよ、永。
くちづけが深くなる。隙間なく塞がれた唇、奥へと絡む舌、加速する胸に、呼吸が追いつけずに規則性を外す。
波のない白いシーツの海。さらさらと広がる黒髪の上で、由の手が、喘ぐように空を
由の頭を掻き抱いていた永の右手が、由の首から肩を撫で、脇腹から腰へと輪郭をなぞり下りていく。左手は由の腕を辿り、手首を越え、
――この祈りは、罪だ。
弟を、兄という罪に、繋いでしまった。
分かっていた。知っていた。それでも、解くことなどできなかった。手放すことなどできなかった。自分が生きるために弟を必要とした、弱い兄だったからだ。
弟を、自分の全てにしてしまった。弟に、自分の全てを与えたかった。それは、鏡のように跳ね返り、弟から、兄以外のもの全てを奪う結果を生んでしまった。
両親、友人、先輩、恋人……成長するにつれて出会い、芽生え、宛先が枝分かれしていくべき感情を、弟は全て、兄へと向けた。敬愛も、親愛も、情愛も……性愛も。そう育てたのは、他でもない、兄である自分だ。
――どうか、赦してくれ。
生きたかった。生かしたかった。守りたかった。心も、命も。与えるほどに奪ってしまうと知りながら、今も、罪を重ね続けている。弟を、罰の犠牲にして。罪の連鎖を、止める強さを、持てないでいて。
「……永……?」
ふと、永のくちづけが離れ、由は視線を上げた。触れる手を止め、由を見下ろす永の瞳が、衝動と抑制のあいだで揺れている。この先に進めば、兄の体を傷つけるのではないかという怖れを湛えて。
だから、由は、もう一度、微笑む。もう一度、罪を犯す。花の蔓のように、蜘蛛の糸のように、柔らかく、強かな、呪縛の言葉をかけて、
「大丈夫だ、永」
守るという、罪を。
「……兄さん……」
永が唇を引き結ぶ。小さく喉を鳴らし、永は右手を、由の腿の内側へと進めた。永の指先が、吸いつくように、由の窪みに届く。
中指、そして、人差し指……挿し込まれた永の指が、由の中を拡げていく。少しずつ、丁寧に、丹念に。ほんの少しの痛みさえ許さない手つきで、由を拓いていく。綻んでいく由の体。次第に
「っ……永……」
由の腹部に、永の前髪が触れる。由の雫の源を、永は
「だめだ……っ、永! それは、やめ――」
止めようとした由の声は、途中で切れた。強く吸い上げられ、由の体が跳ねる。集束する熱。白に染まる視界。反射で閉じた瞼の裏で、光が弾ける。
「……どうして、止めようとしたの?」
こくん、と喉を鳴らし、永が顔を上げる。
「兄さんの命の欠片なのに」
そう言って由に向けた永の微笑は、由がずっと永に向け続けた微笑と同じだった。
「全部、俺がもらうよ」
永の顔が近づく。由の耳に、永の唇が触れる。
「兄さんの、全部、俺に頂戴」
由の首筋に、永が歯を立てる。繋いだ手を、固く握って。
由の体の中へ、永は進んだ。熱と熱が、繋がる。
「……愛してる……兄さん……」
ほんの少しの隙間も塞ぐように、ほんの少しの冷たさも排するように、永は由を抱きしめ、深く、ふかく、体を
「……兄さんの……命の熱だ…………全部、俺の…………」
弟は微笑む。兄と同じ、まっすぐな黒髪を、さらりと揺らして。兄と同じ、白い頬を、薄く染めて。兄と同じ、透き通った微笑で、けれど兄よりも幼く。
「俺が死なない限り、兄さんは死なない」
兄を見つめる弟の瞳は、恍惚に
「俺が死なせないから、兄さんは死なない」
「兄さんが死ぬ時は、俺も一緒だ」
組み敷き、抱きしめ、穿ちながら、弟は笑った。
「兄さん」
呼ぶ。これが、幸せの、
こんなにも、満たされているのだと、与えられているのだと、示すように。
――これが、罰か。
兄という罪に科せられた、弟という罰。
瞼の
生理的な涙だと、弟は思ってくれただろうか。そうであってほしい。気付かないでほしい。兄の懺悔など、どうか、弟には届かないで。
――俺から解放してやれなかったことを、どうか、赦してくれ。
弟の言葉に、由は静かに微笑んだ。けれど、頷きはしなかった。ただ、そっと手を伸ばし、弟の髪を撫でた。
――守れなくて、ごめん、永。
兄という存在から、弟を守ることができなかった。
心を繋ぎ、命を縛った。守るために生きるのは、自分だけで良かったのに。
弟まで、兄と同じになることは、なかったのに。
――〝《
いつかの言葉が、脳裏を
――〝《
「永」
幸せの、
「お前を……愛している…………」
泣きながら、笑って。
「……綺麗だ、兄さん」
永の熱が、最奥に届く。
「とても、綺麗だ」
白く、果てて。
――弟を、守れたなら。
《
そのとき、自分は、ただの兄になれる。
繋いだ心を、縛った命を、解き放って。
永、お前を、俺から自由にしてやれる。
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