今夜は帰りたくない、だってさ
隆宏が帰ってから一時間くらい経った頃。私の携帯が鳴った。着信表示は非通知になっているけれども、私はそれが隆宏からの電話だと確信していた。
慌ててトイレに駆け込んで、画面を見る。深呼吸して、通話ボタンを押す。
「もしもし」
聞き慣れた声に安心する。
隆宏は外からだろうか。後ろが少し騒がしい。そのまま黙っているから、私は少し怒った口調で
「どこに行ったのかと思ったら、いきなり押しかけてきて。どういうつもりよ」
などと言いたいことを言ってやった。
「ごめん。説明するから。明日の夕方、どこかで会える?」
「どこかってどこ?」
私が訊くと、隆宏は
「初めて会ったショッピングモールのテラス。覚えてる? あそこで六時に待っているから」
とだけ言って、一方的に電話は切れた。
ちょっと待って。何なの。
隆宏が何を考えているのかよくわからない。私に謝りたいみたいだけれど。それなら、もっと別の場所があるでしょうに。
***
翌日。ショッピングモールのテラスにて。隆宏は五分ほど遅れて現れた。
「悪い。遅れちゃった」
言いながら近づいてきた隆宏の顔はちょっと青ざめて見える。目の下のクマがひどい。
「どうしたの、その顔」
「いや。ちょっとトラブルで眠れなくてさ」
隆宏はうつむいて、頭を掻く。
同情か憐れみか。彼を心配する気持ちがいまだに湧いてくることに自分でも驚く。
「大丈夫? ちゃんと寝た方がいいわよ」
「はは。ありがとう。そう言ってくれるのはカナさんだけだよ」
隆宏は何か疲れている様子だった。
しかし私はとりあえず、言いたいことを言うことにした。
「それより昨日の。あれは一体何のまね? 私、心臓が止まるかと思ったわ。もう二度と来ないでほしい」
「それは本当に悪かったと思っている。でも、どうしても会いたかったんだ。話を聞いてほしくて」
「話って、いったい何?」
私は尋ねた。
隆宏はしばらく黙っていた後で、やっと口を開く。
「うん。ちょっとお願いがあって……。実は、その。カナちゃんの家に泊めてもらえない?」
隆宏は顔を上げて言った。
「はぁ!?」
私は驚いて大声で叫んでしまった。思わず口に手を当てる。来るだけでも迷惑なのに、非常識にもほどがある。自分の立場を分かっているのだろうか?
そしてまわりに誰もいないことを確認してから、今度は小さな声で
「ちょっと待って。どうしてうちに泊まりたいの。自分の家に帰りなさいよ」
と私は言う。
隆宏はちょっと困ったような顔をしているけれど、引き下がる様子はない。
「だから、その。僕んち今、修羅場なんだよ。シェアハウスで喧嘩していて。僕は関係ないのに」
隆宏はかなり切羽詰まった様子。
ははぁ。そういうことですか。隆宏がアパートに帰ってこなかったり、いろいろおかしかったけれども、それには何か複雑な事情がありそうだ。
「コーヒーでも飲みましょうか。質問がたくさんあるわ」
二人でテラスを出て、すぐ近くにあるカフェに入る。
席に座って、注文を済ませて、私は隆宏に質問を始める。
「隆宏がシェアハウスに住んでいて、シェアメイトのトラブルで家に帰れないっていうのはわかった。でも、どうしてうちなの。ホテルとか、ネットカフェに行けばいいじゃない」
隆宏は
「いや、それは……人目がないところだとやばいんだよ。じつはそのうちの一人、女の子なんだけど、僕、その子にストーカーされてて。その子は僕のいかがわしい絵とか写真とかを部屋に飾ったりしているんだ。そういうのがいっぱいあって」
と答える。
私は呆れて
「はぁ。何それ。シェアメイトがストーカーとか怖すぎるんですけど。それでどんな絵なの?」
と言った。隆宏は答えに窮しているようだ。よっぽどイヤな経験だったのだろう。これ以上訊いてもかわいそうだからやめておく。
しかしここで私は鬼にならねばなるまい。わが家の平和を乱されるのは困るのだ。
「とにかく、家に来られるのは、困る。無理。絶対ダメ」
私は強い口調で言う。
隆宏はいつもの濡れた子犬のような目で私を見ている。わかったよ、そうなった理由くらいは聞こうじゃないか。
「どうしてそうなったのか順を追って話してちょうだい。私は全然分からない」
隆宏によると、私が隆宏を振ってからすぐに、住んでた部屋のお風呂が水漏れして住めなくなってしまったそうだ。それで、ちょうど友人が住んでいたシェアハウスに空きがあったから入ったとのこと。
「あ、友人ってもちろん男だよ。三人のシェアハウスで、僕と友人と、あとは女の子が一人いた」
隆宏はまわりくどい説明をした。
「はぁ。そうなの。大変だったわね。で、その二人が仲悪くなって、どうしてあなたがストーカーされるの?」
と私が聞くと、隆宏はため息をついて、
「そうじゃないんだ。その友人は、彼女ができたとかで、ついこのあいだ、出て行ってしまった。で、後から入ってきたのが別の女の子で」
女二人とシェアハウスと聞いて、私は内心たいへん面白くなく、
「あら、それはよかったじゃない。隆宏、人生初ハーレム、ハーレム王の誕生ね。で、その子と何かあったのね」
ぶっきらぼうに冷やかして言った。
隆宏は苦笑して、続ける。私の冷やかしは無視された。
「まあ、そうなんだけど。その新しい子が問題なんだ。その、なんていうか、いわゆるメンヘラでさ。僕の変な絵を大量に部屋中に貼ったり、僕のゴミ箱をあさって、その、後始末的なゴミを回収されたり……」
隆宏は青ざめた顔でそう言う。
「そんなの無視すればいいじゃない。最悪でも引っ越したらすむ話よね」
と私が言い返すと、
「いや、それができないというか、したくないっていうか」
と隆宏は歯切れ悪く答えた。
「どうして?」
「もう一人、もともといた子が、そのメンヘラの子に切れてしまって」
「は? なんでよ。意味わかんない。だってその子は隆宏とは他人なのよね?」
隆宏は答えにくそうにしている。もしや、女子二人が隆宏をシェアしていたのだろうか。それともまさかの三角関係!? などと私が妄想していると、
「あの、実はその子からは、僕が入居してすぐに告白されていて。それで僕は断ったんだよ。そのときには『いいわ、忘れて』って言われたから、解決してると思っていて」
隆宏。なかなかモテるようになったようだ。ちょっと誇らしいような。でもちょっと面白くないような複雑な気分だった。それで私は
「あー、それは家に帰れないわね。あなたその子たちのことが『両方とも』怖いのね」
冷たく言い放った。
隆宏は真面目な顔で答える。
「うん。そう。怖くて帰れない。昨日なんて取っ組み合いに近い喧嘩で。僕、女子の喧嘩があんなに怖いなんて知りませんでした」
「まあ、それは災難だったわね」
男子みたいに殴る蹴るしないので、女子の喧嘩は陰湿極まりないのだ。
「本当に怖かったです。あの、もしカナさんがよかったら、ほとぼりが冷めるまで、しばらく泊めてもらえませんか。ホテルとかに泊まるより安全だと思うんです」
と隆宏はおそるおそる頼んできた。
たしかに私の家ならばゲストルームがあるから、しばらくどころかずっと住み着くことさえ可能だろう。
だがそれでいいのか? さっきのシェアハウスの話を男女逆転させて考えてみる。
私は必死に考えた。そして一つの結論を出した。
「わかったわ。今の話をそのまま弘樹にしてちょうだい。彼が決めるべきだと思うから。もし彼がOKするなら、私はただの上司の奥さん。いいわね?」
私はこれで体よく断ったつもりだった。
***
その晩、私は自宅の玄関で、弘樹と隆宏を再び出迎えていた。
「今日からこちらでお世話になります。よろしくお願いします」
スーツケースを引きずって、隆宏がまぶしい笑顔で挨拶していた。
ちょっと、正気? 弘樹。もしかしてわざとやっている? ウチはリアリティショーの番組じゃないんですけど。
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