ようこそわが家へ
ようこそわが家へ
春節も過ぎて久しく、だんだんと暑さが気になってくる頃、いつものように怠惰な午後を過ごしていたら、弘樹からのメールが着信していることに気がついた。この時間に来る弘樹からのメールは無茶振りのことが多い。恐る恐る開封すると、
「六時に会社の若いのをひとり家に連れて行くから。夕食の用意をよろしく」
弘樹は本当に突然なのだ。
弘樹が私に不倫を告白してから、数ヶ月がたっていた。いろいろあって私たちの営みはほとんどなくなっていたけれども、私が弘樹に執着する気持ちも薄くて、表面上は以前の関係に落ち着いていた。つまり、隆宏からの連絡が急なのも元通りというわけだ。
今日の夕食のメニューはローストチキンとポテトサラダ。急な来客は迷惑だけれど、人数分取り分ければすむメニューで助かった。どちらもその辺のレストランよりおいしいはずだ。でもきっと量が足りないから、もうひと品、私が何かを作る必要がある。
なにがいいかな。そういえば若いのってどこの国の人だろう? そもそも菜食主義者だったらどうするんだ? 弘樹にメールを書いても返事が来ないから、私は昆布で作っただし巻き卵を準備しておくことにした。日本の料理で肉や魚を使わないヤツ。それがこういうときの鉄板だ。
夕食の準備を終えると、午後五時を回っていた。急いで片付けと掃除をする。化粧もしなくちゃ。そうだ、服はどうしよう? まさか部屋着のまま出るわけにはいかない。姿見の前でファッションショーをして、結局、シンプルな紺色のワンピースにした。アクセサリーは真珠のネックレスだけ。もうすぐ約束の時間だ。
六時よりは少し遅れて玄関の扉が開いた。弘樹は時間にかなり正確だ。
「ただいま」
「おかえりなさい」
弘樹の少し後ろに今日のゲストが立っていた。
私は一瞬凍り付いた。なぜ弘樹と隆宏が一緒にいる?
弘樹が連れてきた「会社の若いの」とは、私の知り合いのことだった。知り合いなんてもんじゃない。高田隆宏。ヒロ君。つい半年ほど前まで、私の遊び相手だった男。
どういう経緯なのか私はしらない。ただ、隆宏はかなり良いスーツを着ていて、一言で言えばかっこいい。髪型も違っている。でも同じメガネをかけていて、間違いなくそれは隆宏だ。
「はじめまして」
おそらく隆宏であるところのその青年が、礼儀正しく挨拶をする。
私は懐かしいと思うよりも先に、その青年を殴り倒したい衝動に駆られた。どれほど心配したと思っているのだ。それなのに、よくもぬけぬけと。まず最初に言うべきことがあるだろう。
しかしその隆宏っぽい青年は、私のことなど知らないといったふうに平然としている。
弘樹が不思議そうに私を見る。
「あれ? 知り合い?」
「えーっと……」
私は口ごもる。
しかし隆宏は
「いいえ。初めてお会いすると思います」
といって、表情一つ変えることなく、きっぱり私のことを切り捨ててきた。
正しいよキミは。どういうつもりか知らないけれど。でも、もし許されるなら、こいつは私のおっぱいに顔を埋めながらセックスしたいって言った男、私はそう叫んでやりたかった。
私は我慢して、なんとか笑顔を作った。
とにかく、二人ともリビングに通す。隣のダイニングのテーブルの上には、ローストチキンとポテトサラダが並んでいる。あと私が作った、だし巻き卵も。
私は三人分のグラスにシャンパンを注ぐ。弘樹と隆宏が乾杯して、私もそれに加わる形で食事が始まった。
まずはオードブルを出して、シャンパンを片手にリビングで話をする。
「見事な飾りつけのサーモンですね」
隆宏が褒めてくれた。
「ありがとうございます」
私は平静を装う。
私は無言の視線で
(ぼろが出ること言うんじゃないわよ)
と会話をする。隆宏は私の目を見て頷いてきた。
(そっちこそ詰めが甘いんだから、気をつけなよ)
と言っているような気がした。
私は弘樹と隆宏のほうを見ながら
「あの、高田さん。弘樹とはどういったご関係ですか?」
と言った。
隆宏が何か言おうとしたところを、弘樹が遮った。
「ああ、隆宏君はうちの会社のインターンだよ。S大学の大学院生の中で、毎年一番優秀な人に来てもらっているんだ。今年は珍しく日本人だったから」
弘樹は答える。
そうか。ということは、私が隆宏にレポートの書き方を教えたばっかりにこんなことになったのか。それにしてもこういう形で再会するとは……人生、どこに落とし穴があるかわかんないもんだ。
自分に言い聞かせて、何とか落ち着きを取り戻す。
「高田さん。私も隆宏君って呼ばせてもらっていいかしら」
「日々野さん。全然かまいませんよ。なんなら呼び捨てでも。突然押しかけてしまってすみません」
隆宏が礼儀正しく返答をする。
「いえ、全然かまわないですよ。私のことも香奈でいいですよ。ゆっくりしていってくださいね」
私はにっこりと笑って隆宏のことをにらみつける。虚しい会話だ。
弘樹は私と隆宏を席に座らせると、席を立って
「ちょっとごめんね。飲み物を持ってくるから」
と言ってから、キッチンの方に向かっていった。
私と隆宏は、今日はじめて二人きりになった。つまり、およそ六ヶ月ぶり。感動の再会と言うには空白期間が短すぎて、どちらかと言えば怨念の再会。
「久しぶり、カナさん。元気にしてた?」
隆宏はさわやかに笑いかけてきた。
「おひさしぶりね、ヒロ君。あなたも元気みたいでよかったわ」
たぶん私は睨みつけるような目で彼を見た、と思う。
私と隆宏はリビングのソファに並んで座る。
「ヒロ君、今日は驚いたわ。いままでどうしていたのよ」
「いろいろあって……」
「まさか他の女のとこに住んでたなんて言わないでしょうね?」
あの状況で考えられる原因と言ったら、その手の可能性が高そうなのは明らかだ。私は自分のことを棚に上げて隆宏に詰め寄る。
すると隆宏は無言で私のことを抱き寄せて、素早く右手で私の唇をふさいだ。一瞬のことで、私は身動きできなかった。隆宏はすぐに私から離れると、何事もなかったかのように話を続けた。
隆宏には訊きたいことが山ほど会った。けれども、いまはその時ではない。時間がないのだ。
「いいこと、ヒロ君。今はただ、ボロを出さないようにすること」
「それはこっちのセリフです。だってカナさん、何か勘違いしてますよ」
弘樹が戻ってくる気配がしたから、そこで私たちは会話を止めて互いに頷いて、
(あとで詳しく話しましょう)
と目で会話した。
リビングでの軽食を終えて、ダイニングの食卓に移動する。弘樹と隆宏が向かい合う形で、私は弘樹の隣に座った。私は隆宏の前に皿を置いて、椅子を引いてやる。
弘樹が赤ワインの入ったボトルを持ってきて、私と隆宏のグラスに注ぐ。
つつがなく食事が進む。私が作っただし巻き卵を隆宏が食べてくれている。
「で、うちの会社はどう? 大変じゃない?」
「はい、大変なことも多いですが、楽しくやっています」
「そうか。頑張って」
「ありがとうございます」
弘樹と隆宏は普通に会話をしている。私は安心して食事を味わう。
私は隆宏が弘樹の会社で何をしているのかが気になって、少し会話に挟まってみる。
「ええと、隆宏君、弘樹の会社ではどんな仕事をしているんですか?」
「はい、僕は弘樹さんの下でクラゲロボットの市場調査をしています」
「ああ、なるほど。自宅でクラゲを飼ってみたいっていう人もいるものね」
「はい、本物のクラゲは飼育が大変なので難しいのですが、クラゲ型のペットロボなら飼えるのではないかと思いまして」
「うん、そういう発想は面白いですね」
相変わらずクラゲにこだわる隆宏。私はその話を聞いてちょっとうれしかった。
けれどもこの会話はぎこちない。隆宏の会話はそうじゃないはずだ。だから私は隆宏に気持ちを切り替えてもらおうと思った。
「失礼します」
そういって席を立つと、自分の部屋に戻る。
真珠のネックレスをはずして、隆宏からもらったシルバーのアクセサリーをつけてみた。弘樹がくれたアクセサリーはかなり簡素なものだから、いま着ている紺色のワンピースと比べると、アンバランスと言わざるを得なかった。だったら服も着替えなきゃ。そう思った私は、薄手のニットにスカートという普段着に着替えて、髪をゆるく巻いてみた。
ダイニングに戻った私を見て、弘樹と隆宏は驚きの表情を浮かべる。
「若いお客さんだから、くつろいでもらった方がいいわよね?」
私は二人に問いかけた。弘樹と隆宏は目を合わせて、うなずく。
「カナちゃん、ありがとう。そうだ、隆宏君、僕らも上着を脱ごうか。ここを自分の家だと思ってリラックスしてね」
隆宏がジャケットを脱ぐ。私はジャケットをクローゼットにしまうために隆宏に近づいて受け取った。
隆宏は私が身につけているシルバーのアクセサリーに目をとめると、こっちを見ながら微笑んだ。なにかを小声でつぶやいたようだけれど聞き取れなかった。
リラックスした格好に変わった隆宏は、弘樹と対面して、食事と酒をともにしている。弘樹は隆宏が気に入っているようだ。隆宏の人となりや、仕事ぶりを褒めている。隆宏は嬉しそうにしていた。
私はというと、隆宏と目が合うたびに、恥ずかしくて視線をそらしてしまう。
隆宏に唇を触られてから、私の心はかき乱されて、落ち着くことができなかった。私はこんな気持ちになったことがない。どうすればいいのかわからない。隆宏は時々、私をじっと見つめている。彼の熱いまなざしが心地よかった。隆宏は私に何か言いたいことがあるみたいだけれども、二人の会話の時間はとれなくて、それがとてももどかしい。
「あれ、もうボトルが空なのか。じゃあもう一本開けようか」
弘樹が言う。隆宏は
「これ、すごくおいしいワインでした」
と返す。
「そうだろ。ブルゴーニュの老木をクローンしたハイテクワインなんだ。隆宏君だから言っちゃうけど、これで一本たったの三千円で買えるんだよ」
「へえー、そうなんですか」
「じゃあ次はちょっとびっくりするヤツを持ってきてあげよう」
弘樹はそう言って、ワインセラーへと消えていった。
私は隆宏に近づいて、小さな声で立ち話を始める。
「ヒロ君、どうして私があなたのことを心配していたか、わかる?」
「ええと、どうしてでしょう?」
「私、あの後あなたの家に何度も行ったの。そしたらずっと留守じゃない」
「ああ、それなら………」
隆宏が何か言いかけたところで、弘樹の声が割り込む。
「おーい、カナちゃん。キッチンをちょっと手伝ってくれないか」
「はーい」
私は隆宏との話を中断して、キッチンに向かった。
キッチンに行くと、弘樹は茶色の液体が入った小さなボトルを持っていた。
「あなた、それ」
「ああ。いいんだ。せっかく隆宏君が来てくれたんだから、一緒に飲もう」
「チーズとドライフルーツを見繕ってくれないか」
弘樹は私の背中に声をかけた。私は弘樹の要望に応えるために、ブルーチーズとアプリコットを用意する。
弘樹は小さなグラスを三つ持って、一つを隆宏の前に置いた。ワインのコルクを抜いて、トクトクと注ぐ。甘く芳しい香りが漂った。弘樹はグラスを持ち上げて言う。
「乾杯」
隆宏もグラスを持ち上げた。私も持ち上げて、一口飲む。
甘い、とても爽やかな甘さ。後を引かずキレのいい上品な甘さがおいしい。隆宏もおいしいといって、グラスからちびちびと飲む。
「これは一体なんという飲み物なんですか?」
隆宏が弘樹に質問をした。
「うまいだろう。特別だ」
答えになっていないのは、私に説明しろということだ。
私はワインの瓶を手に取る。
「隆宏君、これは貴腐ワイン。それもハンガリーのトカイ地方で採れる特別なもの。昔から王侯貴族が取り合いをしてきた幻のワインなの」
弘樹は黙って私に説明させる。こんなとき、弘樹が自分で説明すると自慢みたいに聞こえて鼻につく。だから私がこの損な役割を引き受けるのだ。
隆宏は、ワインの味に感服する一方で、この特別なワインを弘樹が開けたことに戸惑っているようだった。それはそうだろう。この缶コーラよりも小さい瓶が、一本何十万円もするのだから。三千円の赤ワインはともかく、一本数十万円とか数百万円とかの世界は私にも理解できない趣味だった。
弘樹は私の用意したものを全部食べて、ワインも飲み干す。それから、おもむろに口を開いた。
「隆宏君、うちの社員にならないか」
大きな声で、私にも聞こえるように言っているような気がした。隆宏は驚く様子もない。もう何度目かの話題なのだろう。
私は隆宏がどう答えるのか不安で仕方がない。隆宏が弘樹の部下になるなら、私たちの関係はなかったことになるのだろうか。
「まだ考えさせてください」
隆宏は答えを保留にした。
「わかった。だが隆宏君、男には決めなきゃならん時がある。そのことはわかっておいてくれ」
弘樹は言った。
帰りがけに、隆宏は私にもの言いたげな視線を送る。私は、そんな目で見ないで、と願う。
「それでは、また近いうちに。今日はありがとうございました」
隆宏は頭を下げて、私と弘樹が住む家から出て行った。
隆宏が帰ってから一時間くらい経った頃。私の携帯が鳴った。着信表示は非通知になっているけれども、私はそれが隆宏からの電話だと確信していた。
慌ててトイレに駆け込んで、画面を見る。たぶん、この通話を受けるかどうかが私の運命を左右するのだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます