思い出は美しいまま

 弘樹に胸を触られながら、私は昔のことを思い出していた。彼は変わってしまった。どうして昔の弘樹は私のことをこんなふうにしてくれなかったのだろう。私はとうとう口に出してしまった。

「五年前も、できればこうしてほしかったな」


 しまった。そう気がついた時にはもう遅くて、弘樹の手が止まっていた。それまで流れていた空気が一瞬にして凍りついた。

「カナちゃん、五年前のこと、まだ気にしているの?」

 私はうなずく。そして訴えるように畳みかけた。

「私、ヒロ君のことが好きだったんだよ。だから、もっと大切にしてほしかった」


 弘樹はしばらく考え込んだあと、私の股間に顔を近づけてきて、それからおへその下にキスをした。絶妙な感覚が快感だった。けれども私の心は冷めていた。


(今の発言で、これからセックスに持ち込むつもりなの? 馬鹿なの?)

 私は思わず声をあげそうになったけれど、なんとかとどまった。そして沸いてくる疑問。

「ヒロ君はどうしてそんなに上手になったの?」

 そんなこと知らない方がいいに決まっているのに、思わず口にしてしまった。


「それは……」

 彼は少し言い淀んだ。

「僕はカナちゃんと別れた後に、ほかの女性と交際した」

「うん」

「そして、カナちゃんにできなかったことを色々やってきた」

「そうなんだ」


 頷きながら私は思った。普通の交際でここまで上手になるか? きっとプロに鍛えられたんだ。

「ヒロ君、風俗とかよく行くの? そんなのいやだよ」

「違うよ。僕が出会ったのは一人だけ」

「じゃあその人に教わったのね」

「うん、そうだけど……」

 弘樹は言いづらそうにしている。やっぱり教えてもらったんじゃないか!


「ねえ、それってどんな人?」

 訊いてどうなるでもない質問だけれど、訊かないではいられない。

「えーっと、年上かな」

「どんな感じの人だった?」

「そうだね。ちょっと豪快な感じのお姉さんで。留学していたときに現地で知り合ったんだけど、実は人妻だった」


 人妻?? 弘樹、いま人妻って言ったよね。私には手を出さなかったくせに、人妻ならOKなの? それって何の冗談。


 などと言いたくなる気持ちを抑えて私は続けた。

「不倫か。それはちょっと……」

「いや、向こうが僕のことを好きになったみたいで」

「そうなんだ」

「最初は僕も戸惑っていたけど、だんだん彼女のことが気になり始めて。お互いに割り切った関係で。彼女は童貞だった僕を鍛えてくれた」

「へぇ」

「まぁ、彼女は既婚者だから、そのうち別れることになるとは思ったんだけど」

「そう……」

「結局、関係は続いて、僕が帰国するタイミングで別れた」

「そうなんだ……」


 私は納得がいかなかった。こんな技術を身につけるぐらいなら、ちゃんと私を抱いて欲しかった。

「ごめんよ。でも僕はカナちゃんのこと、本当に好きだったから」

「私はもっと大切にして欲しかったの」

「大切って………僕はカナちゃんを一番に考えていたよ」

「だったらどうしてあのとき、私とセックスしてくれなかったのよ!」

 ずっと言えなかったことを、私は勢いに任せて口に出してしまった。


 弘樹は少し考えた後で答えた。

「僕はカナちゃんのことが好きだけど、たぶん、それ以上に怖かったんだと思う。カナちゃんは少し誤解してるみたいだけど」

「怖いって何?」

「カナちゃんがはじめて僕の家に来てくれたときのこと、覚えてる?」


 そんなの忘れるはずもない。私が初めて彼の家に行ったのは、まだ付き合いはじめの頃だった。私は弘樹と深いキスをして、そのまま彼のベッドに倒れ込んだ。彼は私の下着に手を入れようとした。それで私は抵抗してしまって、「いやっ」と言ったのだ。彼はそのまま引き下がり、その後は二人で音楽を聴いて過ごしたんだ。たしかそれは私の生理が終わってなかったからで………私にとっては、彼の気遣いを感じた大切な思い出だ。


「僕はとても悲しかった。そして怖かった。あんなに一生懸命に告白してくれたカナちゃんを、傷つけてしまったと思って」

 そんなことで、弘樹は私とセックスしてくれなくなったのか。

「ヒロ君……」

 私は涙が出そうになるのをこらえた。

「私はヒロ君のことが好きだったんだよ。だからヒロ君も、ちゃんと好きって言ってほしかった」


「僕は臆病なだけなんだよ」

 弘樹は悲しそうに言った。

「僕はね、カナちゃんに拒絶されてから、カナちゃんのことも怖かったんだよ」

「……そんな」


 弘樹はしばらく考えてこう言った。

「カナちゃんは、どういうつもりで僕の身体をもて遊ぶようなことをしたの?」

「それは……」

 恥ずかしい記憶を思い出して、すぐには言葉が出ない。

「えーと……元気が出ると思って」


 恥ずかしい話なのだけれど、正直なところ、私はヒロ君の勃起していない男性器のことをちょっとだけかわいいと思っていた。それで私は、あんまり勃起しなくなってしまったヒロ君に、柔らかいのはたいした問題じゃないよと伝えたくて、励まそうとして、できるだけ明るく振る舞って、触ったり握ったり、先っちょをデコピンしたりして遊んでいたのだ。ときには応援歌を作って歌ってあげたり、とにかくいろいろなことをやってあげた。


「怖かった。セックスレスを何とかしようとするよりも、僕の身体で楽しそうに遊ぶカナちゃんのことが。僕のことを馬鹿にしてるように見えて、僕はすごく怖かったんだよ……」

 そんなことで、私はヒロ君に嫌われたのか。いや、もしかしたら男性にとっては屈辱的なことだったのか。


「だからカナちゃんと別れたときから、僕は変わったんだ。もう昔の僕じゃないんだ」

 そう言って彼は自分のシャツのボタンを外した。そこには鍛え上げられた肉体がある。まるでボディビルダーのようだった。

「僕は変わったんだよ。君にふさわしい男になろうと」

「それはどういう意味なの」


「カナちゃんと付き合っていた頃、僕は君のことが好きで仕方なかった。だけど僕は貧相な身体の童貞だったから、拒まれたと思っていた。だから別れてから僕は、年上の彼女と付きあって、女の人が喜ぶようなことを練習したんだ」

 彼は私の耳たぶに触れると、首筋から胸にかけてするりと指を這わせた。私は身体をビクッとさせる。

「君が喜ぶと思って」

 弘樹は真面目な顔で言った。


 嫌悪感というよりも、なにかの化け物と一緒にいるような感覚になって、背筋がぞわっとよだつ。彼は変わってしまった。

「私は童貞のヒロ君が好きだった。すっかり年増女に染められちゃって、このヤリチン! 最低……」

 そう言い放つと、涙が止まらなくなってしまった。私はその場にうずくまって泣いた。


 どのくらい泣いていただろうか。弘樹は私の肩を軽く叩いて、何か布のようなものを渡してくれた。

(ハンカチかな。そんな気遣いまでできるようになっちゃって。年増の人妻よ、私のヒロ君を返せ)

 心の中で悪態をつきながら、弘樹から受け取った布を見る。それは私のショーツだった。


「おなか、冷えると良くないよ」

「……ああ、そうですね。ありがとうございます。でもそういう問題じゃなくてね」

 私は呆れつつも弘樹に背を向けると、彼がこっちを見ていないことを確認しながら、下半身に穿くべきものを穿いた。


 ああ、ヒロ君はやっぱりヒロ君だ。私が好きだったのは、この不器用でやさしいヒロ君だよ。

「帰る」

 私はそう言うと、服を着はじめた。

「待ってくれ」

 弘樹はそう言って私を引き留めようとする。

「もう遅いから泊まっていったほうが」

「いやよ。あなたといると何をされるかわからない」

 私は弘樹を振り切って部屋を出た。


 そしてその夜、私は泣いた。

「もうあの頃のヒロ君はいないんだ。そして、あの頃の私ももういない」

 夜遅くなってから、私のスマホに電話がかかってきた。弘樹からだ。私は一瞬躊躇して、何度も確かめながら着信拒否のボタンを押した。

「ごめんね、ヒロ君。私が馬鹿だった。大好きだったよ」

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