甘さを知らない彼女を甘さで満たすお話。
天野詩
ビターチョコレート
『バチンッ』
廊下に響いた音は、頬の熱と共にぼーとしていた意識を呼び覚ます。視線を落とすと、目に涙を浮かべた"元"彼女の怒りに満ちた顔が映る。
「最低……」
吐き捨てて歩き去っていく彼女の背中を見つめながら、次の時間の小テストのことを考える。
「お前、もう別のこと考えてるだろ」
振り返ると、友人であるところの熊谷がいた。
「ちょうど良かった。次の小テストの範囲って」
「そんなことより頬、保健室で冷やしてこいよ」
腫れてるぞと言われ、触れてみると痺れるような痛みを覚える。平手だったが、結構本気で叩かれていたらしい。
「……先生によろしく伝えといて」
「わかった。あとあんまり廊下で揉め事起こすなよ、お前は容姿で勘違いされやすいんだからな」
そう言い残すと熊谷は教室へと消えていった。ふと、周りを見渡すとこちらに目を向けていた人達が目を逸らす。別に、勘違いでもないのだから気にしないのだけれど。
保健室へ向かう足取りは、平手打ちを食らったとは思えないほど淡々としている。それがまるで、自分には感情が乏しいではないのかという疑問に繋がるような気がして、考えるのを止めた。
扉に掛かっていた札は離席中になっていたが、予鈴がもうなってしまったので居る場所もなく、仕方がないので入室する。体調が悪いとか言ってベッドを使わせて貰えば問題はないだろう。
「失礼します」
養護教諭の先生が居ないことを確認し、湿布もしくは冷やせるものを探すため部屋の中に当を付ける。すると、仕切りのカーテンが閉まっていることに気が付く。どうやら使おうとしていたベッドには先客が居たみたいだ。
とりあえず目当ての湿布は見つかったので、腫れた頬に貼り先生の椅子に腰掛ける。
「……鞄忘れたな」
ぼそっと呟き、今更手ぶらで来ていたことに気がつく。 これではやることが何も無い。今頃授業中の教室に戻る気も起きず、椅子を回転させ軋む音を立てながらどうするか考える。
ふと、もぞもぞという音がカーテン越しに聞こえる。
「先生?」
寝起きのようなふわっとした女の声と共に、ガラガラと音を立てながらカーテンが開く。彼女の第一印象は綺麗な顔立ちだと思った。白い肌に顔のパーツそれぞれがバランスよく整っていて、離れていても分かるくらいの透き通るような少しだけ青の混ざったような黒髪。半開きだが、透き通るように見える目は寝起きなのか潤んでいた。
「……ヤンキー?」
初対面の女の子から発せられた最初の言葉は、そんな疑問であった。
じっと数秒間見つめ合う時間が続く。
「ふっ」
彼女のぼーとした目と、髪についた寝癖に先に限界が来たのはこっちだった。
?マークが頭の上に浮かんでいるかのように、彼女は首を傾げる。
「ヤンキーじゃないよ」
さっきの疑問に答えると彼女は首を戻し、「そう」と関心なさそうに応える。
「先生は?」
「今いないよ、札が離席中になってた」
「で、貴方は誰?」
目が覚めてきているように見える彼女は、切り替えるように警戒心を顕にする。ただ、寝癖がその威嚇を台無しにしているのにはまだ気が付かないようだった。
「北原春樹、二年」
笑えるのを堪えて自己紹介をする。ついでに、側においてある上履きの靴紐から、彼女が一年であることを踏まえ学年も付け加える。
「そうですか北原先輩、ではこれで」
鞄を持ち出ていこうとする彼女を目の前に立ち制止する。
「……変なことしようとした瞬間に叫びますよ」
不自然な行動に勘違いをされたようだが、すぐに誤解を訂正する。
壁に掛かっている鏡を指差し、そちらに彼女の視線を誘導する。
「寝癖」
その一言で彼女は髪を抑え縮こまる。上から見える耳が紅くなっており、その姿に堪えきれず思わず笑ってします。
「君、名前は?」
ふと、上がった視線は少し疑問を持ったような目に見えたが、気のせいだったのか彼女は口を開く。
「……天野です、天野桜。一年です」
何処かで聞いたような名前な気がするが、思い出すところまでは至らない。ので、考えるのを止める。
「で、では私は行くので……あっ」
勢いよく立った天野は立ちくらみのせいか、険しい顔をしてすぐふらついて体制を崩してしまう。だが、ギリギリのところでなんとか倒れる前に捕まえることに成功した。
すぐには力が入らないようで、そのまま先程のベッドに座らせる。気づかなかったが、よく見ると顔が青白いようにも見える。
「朝ご飯は?」
「食べてないです……」
何か食べさせるにしても、鞄が無いのでポケットに都合良く食べ物が入っていない限りは……お。
「あった。はい」
一つの小さい箱をポケットから取り出して天野の手に置く。
「なんですかこれ?」
「チョコレート」
「……見ず知らずの人にここまでしていただくわけには」
そこそこ困ったような顔、いや、嫌がっている顔なのかもしれないが良くない顔をされる。恩を売ったり、そういうのが嫌いなのか?
「お前の事情はしらないけど、もう見ず知らずじゃないでしょ。自己紹介したし」
「でも」
「それに、俺のが先輩だしな。困ってる後輩を助けるのは当然だろ?」
「そんなことはないと思いますけど……」
適当な理由を付けたら真正面から否定された。が、
「……では、有り難く受け取っておきます。」
「うん。それがいい」
素直ではないが受け取ってくれたので良しとする。
「さて、んじゃ俺は教室に戻るわ」
「あ、ありがとうございました。恩は必ず返します」
やっぱり、気にしてるようだ。
「別に返さなくていいよ」
ひらひら手を振って保健室を後にする。時計を見ると10分程度しか時間が経っていないことに気が付く。
「まあ、荷物は熊谷に任せるか最悪明日でもいいか」
そんなことを思いながら帰路につくことにした。
――――――――――――――
「最悪」
彼が居なくなった保健室で一人そう呟く。初めて会った男の人に失態を見せてしまった。手に置かれたチョコレートの箱の中身は個別に梱包がされているもので、半分以上残っていた。
「……頂きます」
一つ開き口に含むと苦味が広がる。箱をよく見るとビターと書いてあった。――私の嫌いな、苦い味。
彼の容姿を思い出しながら、鞄から水を取り出しビターチョコレートを無理矢理流し込む。
細くて鋭い目だが、優しさを感じる顔立ち。が、それを台無しにするかのように雑に染められ、伸ばされた灰色の髪の毛。耳につけられたリングピアス。加えて、殴られたのか腫れていて、湿布の貼られている頬。第一印象は言葉として出てしまった通りヤンキーだった。
ため息をつく。この学校であまり人とは関わりたくはなかった、極力避けてきた。それが、自分の幸せに繋がるものであると信じているから。
「恩は早く返しておかないと」
その言葉が、天野桜という人間の本質を表していた。
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