証
えぬ
第1話暗闇から
「里橋はもうおわりだ。」
そのネット記事が出たのはいつ頃だろう。彼の小説家としてヒット作は一つのみ。
「とある町の灯」
何気ない田舎町で起こる出来事にスポットライトを当て、受け継がれる意思を描いた作品だった。ドラマ化もささやかれたが結局、実現することはなかった。その後の作品も思うように売れず、出版しては在庫を抱えるという状態が続いた。気がつくと書いてはボツ書いてはボツを繰り返し、生活も荒れていった。
ついには一発屋としてネット上に名前が出始めた。年月が経つに連れ、有望な新人の出現によってその存在はかき消されていった。自分の無力さと書けない焦燥感は日に日に増していくばかりだった。自分は一体なにをしているのか。どうなりたいのか。何度も小説を書くのをやめようと思った。その度にサイン会で応援の言葉をかけてくれるファンの方たちの顔が浮かぶ。闇と光が入り交じり、一切の干渉を受けつけないこの葛藤が無限の牢獄のように里橋の心をねじ伏せていく。
夏も終わりを迎え程よく涼しく過ごしやすい十月中旬。里橋洋は部屋着のまま着古したコートを羽織り、部屋を出た。マンションを出て数分歩くと大通りに出る。この道はまるでかぐや姫が月に帰る道のように美しく咲くイチョウ並木であることからかぐや道とも称される。夕方の薄暗い時間帯はまさに絶景で観光客が多く訪れる観光スポットとなっている。里橋にとっては毎日のように見ているのできれいだなと思うくらいのものだが、この日は違って見えた。散っていくイチョウを見ると今の自分と重なりやるせない気持ちになる。
役目を終え、散っていくだけ。あとは誰かの養分となる運命。見知らぬ誰かのためになってるのだったらもうこのまま諦めてもいいのかもしれない。今までのいろいろなことを思い返しながら、惨めな散歩をはじめようとしていた。目的地などない。ただただまっすぐ、まっすぐに歩いていた。イチョウの木と写真を取る外国人やテラス席のカフェで談笑する女性たち。手をつないでいるカップルや小さい子を連れている家族。いつもより人が多いな、今日は何曜日だっけ。そんな感覚は最早概念ごと消え失せている。この中にどん底に落ちた人間がいるとは誰も知らないだろう。里橋に羨ましさはなかった。その感情すらも湧いてこない。もう人間でもないのかもしれない。
どのくらい歩いただろうか。散歩を始めてから時間という概念がなかった、喉が乾いて足が疲れているのを忘れるほどに。気がつくとブルーアワーの空が広がり並木道もとっくに終わり、なんの特徴もない田舎道が目の前にあった。街灯に照らさている薄暗い道が悲しそうに見え、我に返る。自分の今の気持ちはこんな感じなのだろうか。太陽に見放され夕闇の世界に放り出される。再び日の光に照らされようともがくがいつになっても迎えに来ない。次の朝が来るまでの時間が止まっているような、とんでもなく長い時間に拘束されている。腕時計をちらっと見ると夕方六時を回ったところだった。帰ろうかと進行方向を変えたところで世界がぐるりと回った。
目を覚ますとそこは見知らぬ天井があった。眼球だけを動かし、室内を見回す。右側を見ると点滴があり、右腕に繋がっていた。あたりはすっかり闇に包まれ、壁に掛かってある時計を見ると夜の10時を回っていた。深い眠りから帰還した今、心は羽のように軽く、浮き上がりそうな感覚になっていた。胸は異常なほど清々しく晴れ渡り、なんの汚れもない純粋な子供のように澄み渡っていた。眠っている数時間に宗教学者に説教を食らい、人生を悟ったような。もしかしたら別の世界に飛ばされていたのかもしれない。そんな妄想が体を覆った。
「目を覚ましましたか、よかった。道で倒れてると通報があって病院に運ばれたんですよ。お医者さんによると過労だそうです。数日安静にしていれば問題ないとのことです」
隣に座っていた担当編集者の加藤が少し震えた声で言った。
「すいませんご迷惑をおかけしました」
ベッドから起き上がって言った。
「こちらこそ申し訳ありませんでした。先生の異変に気付かなくて。先生の家からかなり離れた場所で部屋着のまま倒れてらっしゃったので何事かと思いました。何かあったのですか?」
「どうしても書けなくて、なにをしても現状が変わらない。世間の目も厳しくなって、自分を見失ってしまうのです。一体何に向かって進んでいるのだろうか、と」
ふと目にした窓外の街灯が悲しそうな目でこちらを見ているような気がした。
「確かに批判的な内容の記事が出ていますがそれでも私は先生の世界観が好きですし、良いところだと思っています。売れ行きが悪くなってきているのは確かです。どうにか策は練ってはいるものの力不足で、申し訳ありません。苦しいことはいつか終わります」
里橋は何も言わず窓の外を眺めていた。
その言葉を何度聞いたことか。「苦しいことはいつまでも続かない」そんな言葉を信じる気はない。いつまで経っても変わらないじゃないか。もううんざりだ。この時、ファンという糸によってかろうじて繋がっていた小説とのつながりが切れたような気がした。
「そう思ってくれるのはすごく嬉しいです。けど、もう書けないのです。小説家としての僕はもうおわりだ。やめさせてくれませんか。」
自然と言葉が出た。自分でもびっくりするくらいにスラスラと。
「え、、」
加藤は驚いて数秒の間固まっていたが、すぐに信じられないといったふうな焦りの表情で立ち上がり言った。
「本気ですか。」
「はい。もうこの世界には居れないような気がして。ここにはもう居場所はありません。ワガママを言って申し訳ありません。」
加藤との付き合いは8年ほどになる。今まで加藤にどれほど支えられて来たか。感謝しかない。しかし、編集技術が高く、物事を的確に判断できるその能力は里橋にとってはもったいないものだった。だからこそ他の有能な作家さんについてもらう方がいいと考えての判断だった。しばらくの沈黙が流れた。ベットに座り目の前をじっと眺めている里橋に対してその横顔を加藤は眺めていた。加藤にとってこのときの里橋の顔はどのように映ったのだろうか。深淵の境地に至った、地獄のような顔だろうか。病室にはスズムシの命の声が静かに流れていた。かろうじて続けて連載していた雑誌『フチュール』もいまいち評判にならずにいた。里橋の作る物語は大学生を主人公にすることが多く、SF要素を少し含んだ世界観だった。当時はその世界観が認められ、成功の兆しが見られた。しかしある日を境に書けなくなってしまった。挫折を味わい壁を乗り越えることが出来ないまま二年が経っていた。その間も担当編集者が次々と変わりいつの間にか加賀さんになっていた。初対面の時から加賀さんはファンだと熱く語っていた。何人もの作家さんを担当してきたベテランの編集者だったが里橋にはもう手遅れだったのかもしれない。
「先生が決めたことに反論をする気はありませんが。私は先生の作品に影響されてこの世界に来ました。大学生のころ、何も取り柄のなかった私を先生が救ってくださいました。言葉は人をつなぎます。どこかで誰かを救っているかもしれません」
加藤はまだ納得していないような様子で言った。
「そうですね。ありがとうございます」
ベットに座ったまま頭を下げる。
加藤は座ったまま無言で頭を下げた。この時の加藤は諦めていたのかもしれない。
「小説をやめて何をされるおつもりですか」
「まだ考えていません。しばらくはなにもしたくありません」
「そうですか、なにかあればいつでも相談に乗ります。連絡してください」
「はい。ありがとうございます」
加藤が帰ってからは何を考えることもなく天井を眺めていた。模様の不揃いさが星座ように見え、心が安らいだ。
携帯が鳴った。ゆっくりと起き上がり携帯を手にとる。加賀雅からだった。
加賀とは大学時代からの仲だ。里橋にとって青春を共に過ごした唯一気の合う友だった。二人はいわゆる落研で出会った。入部して間もないころ、サークル内での新歓交流会が開催された。小さな居酒屋に20人程度が集まり騒いでいた。未成年の一年生はお茶や水を飲む一方、一部の上回生はお酒を飲んでいた。酔っ払い、急に落語を始める先輩や寝てしまう先輩。高校を卒業したばかりで、衝撃的な光景だった。それまでお酒に無縁だったこともあり、社会から切り離されているような感覚になった。そんな渦の中、一人ご飯を食べていた里橋に「コントをやってみないか」と加賀が声をかけてきたことから始まった。これは後から聞いた話だが、加賀はクラスなどで孤立している子を放っておけない性格らしい。周りに「里橋は危なっかしいから俺が近くにいてやらないと」と言っていたそうだ。そのあともいつも明るく場を盛り上げる加賀に助けられることがよくあった。その影響からか、里橋もグループ内で明るく振舞えるようになっていった。
携帯をスピーカーにし、机に置いた。
「おい。大丈夫か。急に加藤さんからお前が倒れたって電話があって、過労だって?無理すんなよ」
その声はいつもと変わらない加賀雅の声だった。この声を聞くとどこか安心する自分に気づく。ここ数カ月、連絡を取らないでいたが加藤さんとも仲のいい加賀は随時様子を聞いていたようだ。
「もう大丈夫。ありがとう」
「お前の大丈夫は全然信用できないんだよ。悩んでるんなら相談に乗るぞ。最近書けないんだろ、聞いたぞ。昔を思い出してみろよお前は十分やってきたし成績も残してる。自分のスタイルを崩したら終わりだぞ」
小説を書くことをやめたことはまだ伝わっていないようだった。大学生のころから夢を語り合った二人はお互いに励ましあい頑張ってきた。今回の一件でこの関係に少しの亀裂を生んでしまったように感じ、里橋は申し訳ない気持ちになっていた。同時に、それでも心配し温かい言葉をかけてくれている雅に感謝していた。そんな雅を悲しませることはできない。そう思うと胸が苦しく言葉が出てこなかった。
「今度メシでも食べに行こうぜ。息抜きだ。久しぶりにとっと屋にでも行かないか。懐かしいだろ。原点に返るのもいいぞ」
『とっと屋』は学生時代、当時は開店して間もなかった大衆食堂だ。大学のそばに出来たその店は学生の行列ができ、二人もよく並んで通った懐かしの店だった。学生向けの低価格とクオリティが人気で今でも行列の名店だ。店主の竹本さんは一般企業を定年退職した後、夢だった食堂を奥さんと始めたと聞いたことがある。加賀と里橋はよくそこで閉店までネタの打ち合わせをした思い出の店だった。竹本さんも怒ることなくジュースのサービスをしてくれ、応援してくれていた。時には閉店後の誰もいない店内で竹本夫妻の前で漫才をしたこともあった。笑ってくれた時のうれしさは今でも忘れない。
「そうだね。竹本さん元気にやってるかな」
ベットに寝たまま言った。
「もう歳で体力的に結構きついらしい。バイトを入れてるらしいよ」
電話の向こうからは車が通る音が聞こえていた。
「そうなんだ。それなら尚更行かないとね」
「そのためにはまず体を治せ。心もな」
「あぁ」
「また連絡する。じゃあな」
そう言って電話は切れた。加賀は要件人間なところがあり、電話の時間も短く終わることが多い。実際に会って話すと止まらないが。多くを語らない加賀だからこそ里橋との相性がいいのかもしれない。
次の日の昼頃ようやく自宅に帰ることを許された。誰もいない部屋に一日ぶりに足を踏み入れる。玄関を見ると一日しか経っていないのに一週間くらい空いていたような感覚になる。病院で一週間分の夢を見たような気がする。内容を覚えてはいないがやけに現実味のある夢だったので少し覚えてはいる。過去の友人、仲間たちと飲み会をしている。その席で里橋だけ特別な席、お誕生日席とは違うカウンター席のように孤立した席だった。普段からあまり自分が話さないからか最初は気にならなかったが、みんなの会話を聞いているとまるで存在していないかのように里橋の昔話や暴露話をしていた。その中には加賀も参加し、話はさらにヒートアップしていく。そんな夢だった。
玄関を入るとそのまま書斎へ向かう。扉を開くと埃が舞っているのがわかるほど掃除のされていない部屋があった。改めて見るとこんなところで作業していたのかと驚いた。カバンを置き、部屋の隅に置いてあるハンド掃除機を手に取る。その感覚が久しぶりで無意識に掃除機を何度も握りなおした。上から下に掃除という教えに従い本棚から掃除を開始する。あまり本を置いていない隙間の空いた本棚は本来の役割を果たせないままさみしそうに埃の中にたたずんでいた。本を棚から出し、掃除機で掃除する。次に床のカーペット。床をざっと一周するだけでダストボックスはたちまちあふれ、吸引の勢いが落ちた。小さな掃除機なこともあり、それほどの量を吸えない。しかしすぐに一杯になるほど埃がためっていたということに驚く。一通り掃除を終え、書斎のデスクに腰をかけ一息つく。一仕事を終え、思考がなくなっているように感じるがまだ病院で起きてからはっきりと自我を意識することができずにいる。複雑なことが考えられず、日常のいつもの動きをただ機械的に行うだけ。それは自分でも怖いくらいに自覚しているがこれ以上考えることはできないだろうと分かっていた。座ったまま目の前に広がる世界に目をやる。本棚に本、壁に立てかけられた丸時計は音を立てずに動いている。先ほどまで働いていた掃除機は部屋の角でため息をついている。机の上のノートとペンはどこかものさみしい感じがした。パソコンはスリープモードのまま黄色い光を点滅させている。あらゆる物が窓から差し込む日光によってまるで生きているかのように映し出され、申し訳ない気持ちになった。
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