第20話
「後片付けは私がします」
「あぁ、頼む」
二人分の食器を重ねて、彼女はキッチンに持って行く。
今朝の食事は俺が用意した。
余っていた食パンをトーストにして、あとは冷蔵庫に残っているものを適当に組み合わせただけの簡単なものだが。
彼女は自分で調理したがっていたが、いきなりでは不安なので我慢して貰った。
今後の食事がどうなるかだが、レシピ通りに作ってくれることを祈るしかない。
出社するための準備をあらかた済ませた俺は、最後にクローゼットを開けた。
スーツに着替えるためなのだが、違和感を覚える。
「……そうか、スーツが」
いくつか用意してあるスーツの数が合わない。
正確には一着分、空きがあった。
そしてその足りないスーツを最後に着たのがいつかと言うと……。
「なぁ、あの日のスーツだけど」
「あー、そうだ。すみません、伝え忘れてました」
キッチンで洗い物をしている彼女が手を止め、振り返る。
「あのスーツはその、どうにもならない感じだったので……シャツとかと一緒に処分、しちゃったんです」
「どうにもならないって……あぁ」
自分の身体を見下ろし、残っていた傷痕と彼女の話から想像する。
「そりゃあ、ダメになるか」
「はい、さすがにあれは……勝手に処分しちゃって、その」
「あー、いいよいいよ。うん、妥当な判断だと思う」
ボロボロなだけではなく、きっと血まみれにもなっていたのだろう。
修復なんてできるわけがないし、処分する以外の選択肢はなかったはずだ。
「あの、新しく買うならお金は出しますから」
「それもいい。丁度買い替えようかなって思ってたところだし」
「でも……」
「本当にいいって。気持ちだけ貰っとく」
軽い調子で言いながらスーツに着替える。
考えてみれば、仕事用の鞄やスマホが無事だっただけでもラッキーだ。
スマホまで壊れていたら、仕事にも影響が出ていただろうし。
不幸中の幸いっていうのは、こういうことを言うのだろう。
そんなことを考えながら着替えを済ませたところで、ふと疑問が頭をよぎった。
あの日の夜、目覚めたのはこの部屋で、俺のベッドの上だった。
そのとき俺は確か、シャツとパンツしか身に着けていなかった気がする。
「……うん、間違いない」
露出していた腕や足に残る傷痕を見て覚えた吐き気は、今でもはっきりと思い出せる。
だから、間違いなくシャツとパンツだけだった。
でもその二つはボロボロではなく、そもそもあの日着ていたものじゃない。
ということは、スーツだけではなく、他の衣類も処分するしかなかったことになるわけで。
つまりどういう結論に辿り着くかと言うと……。
「…………」
食器を洗い終え、タブレット端末を眺める彼女を無言で見る。
おそらく、レシピサイトなどをチェックしているのだろう。
勉強熱心でなによりだが、それはともかく。
あの夜の状況を考えれば、俺を着替えさせたのが誰なのかは明白で、一人しかいない。
彼女にしてみればそれは当たり前のことだし、他に手はなかっただろう。
そんなことは考えるまでもなくわかる。
ただ、そうなると気になることと言うか、認めたくない事実が浮かび上がってくるわけで。
「時間、大丈夫ですか?」
「え? あ、あぁ、そうだな」
彼女に声をかけられてハッとする。
時計を見ると、そろそろ家を出なければいけない時間だ。
「もしかして具合い、悪いとか?」
呆ける俺を見て勘違いしたのか、立ち上がった彼女が診察するように胸元に触れてきた。
「――っ、ち、違うから! 大丈夫だ、本当に」
「無理はダメですよ?」
「無理じゃない。だから、大丈夫だ」
大丈夫だと繰り返しながら、彼女からそっと離れる。
彼女に他意なんてないことはわかっているが、今のは困った。
我ながら情けないと言うか、思春期の学生かと思いたくなる反応だったと思う。
本当に、なにを狼狽えているんだ、俺は。
気絶している俺を着替えさせたのが彼女なら、そのときに裸を見られたはずだなんて、確かめるまでもない。
今更裸を見られた可能性を考えて恥ずかしくなるなんて、それこそ思春期男子のそれだ。
「……確かに、問題はなさそうですけど」
「だ、だから大丈夫だって。あと、近すぎる」
正面から顔を覗き込んでくる彼女に、またドキッとしてしまった。
彼女が今まで俺にどう接してきてくれたのかを思い返す。
肌に直接触れるのも、抱き締めるように眠るのだって、躊躇していなかった。
それはあの行為が、治療目的のものだったからだろう。
俺は患者で、彼女は医者みたいなもので。
だから仮に裸を見ていたとしても、気にはならなかったということだろう。
そう、気にしていないはずだ。
実際、彼女にはそんな気配、微塵もないのだから。
彼女が気にしていないのなら、あとは俺自身の問題。
そしてわざわざ『俺の裸、見た?』なんて彼女に確かめる意味は、たぶんない。
つまり、この話はここで終わりにするのが正解だ。
「えっと、時間だな。俺、仕事行ってくるから」
「無理は絶対にダメですからね?」
「約束する。それじゃ、なんだ……行ってきます」
「はい、行ってらっしゃい」
これじゃまるで同棲している恋人みたいだ、なんて思いながら、久しぶりに外へ出た。
行ってきますなんて言ったのも、ずいぶんと久しぶりな気がする。
当たり前のように自分の口から出てきたことに、少しだけ驚いた。
胸の残るのは、微かな高揚。
俺はその感覚を照れくさく思いながら、通勤で混雑する駅へと向かった。
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