第8話
「もし調子が悪くなったら、我慢せず入ってきてください。約束ですよ?」
彼女が大真面目にそう言って浴室に入ってから、そろそろ五分。
一人暮らし用のワンルームなので、どうしてもシャワーの音が聞こえてしまう。
そこに生々しさを感じてしまうのは、完全に俺が悪い。
「別に初めてってわけでもないのにな」
なのに落ち着かないのは、シャワーを浴びている相手が相手だからだ。
これがちゃんと付き合っている恋人なら、また違ってくるのだが。
生憎と彼女はそうじゃない。
成人はしているらしいが、年下なのは間違いなく、出会ってまだ数十時間の相手。
全く余裕のなかった昨晩とはまるで違う。
それに今日だけでも、花芳と名乗る彼女のことをいろいろ知った。
正義の味方なんて肩書とは無縁にしか見えない、ちょっと変わった女の子。
妙に意識してしまう部分があるのは、そういう一面の積み重ねのせいだ。
「そんなんじゃないっていうのに……」
ソファにだらりと背中を預けて、頭上の蛍光灯に向けてため息を漏らす。
「お待たせしました。具合、どうですか?」
「痛みはないよ、おかげさまで」
出てくるなり声をかけられたが、驚くことなく返事ができた。
少し前からシャワーの音が止まり、脱衣所で動く気配があったおかげだ。
まぁ、だからと言って風呂上がりの彼女を直視する心の準備ができていたとは、言い難いが。
彼女はタオルで髪を拭きながら、当然のように俺の隣に座る。
「ドライヤー、借りしても?」
「どうぞ」
ドライヤーを手渡した俺は、そのまま彼女が髪を乾かす様子を横目で眺める。
風呂上がりの彼女は、初めて見る恰好をしていた。
ちゃんとサイズの合っているシャツにショートパンツ。
部屋着用に買って来たものだろう。
それと、今の彼女は少し幼く見える。
もともと化粧などはしていなさそうだったから、風呂上がりでも大きく印象は変わらない。
髪が乾ききっておらず、頬が少し紅潮しているからだろうか?
雰囲気がどこか柔らかく感じた。
「ありがとうございました」
「あぁ、そこらへんに置いといていいよ」
「そうですか」
ドライヤーを使い終えた彼女は小さく頷くと、律儀にコンセントを抜き、邪魔にならないよう隅の方に置いた。
料理の味見はしないのに、そういうところは細かい。
「……なんです?」
「ん、別に」
俺の視線を感じたのか、彼女はジッと見上げてきたが、下手なことは言わずに首を振る。
夕飯のことをほじくり返して、また反撃でもされたら困る。
彼女もあえて追及はしてこず、そのまま俺の腕に触れて来た。
なんのつもりかと一瞬硬直したが、すぐに理解する。
彼女がシャワーを浴びていた時間は十分程度。
髪を乾かしていた時間も含めたら、十五分くらいは離れていた計算になる。
戻って来てすぐ体調を確認してはきたが、念のためということだろう。
わかってはいるのだが、風呂上がりの異性がすぐそばに座り、腕に触れてくるという状況はやはり落ち着かない。
恋人が相手ならそれでもいいし、むしろ望むところなんだけど。
「どうしますか?」
「えっ、どうって?」
「いえ、もう眠るのかと」
「あ、あぁ、そうか」
いきなり上目遣いにどうするかなんて訊かれたせいで、無駄に心拍数が上がってしまった。
他意がないのはわかっているが、もう少しこう、男心に配慮した訊き方をして欲しい。
まったく、我ながら年下相手に情けない話だ。
「俺は別に……というか、そっちこそいいのか?」
「なにがです?」
「いやほら、風呂上がりはいろいろ忙しいもんだろ? スキンケアとか、そういうのがさ」
「別に必要ありませんけど」
「あれ、そうなのか?」
「まぁ、普通なら少しはするものですけど……今の私には必要、ないですから」
「正義の味方でもしていいと思うけどな、スキンケアとか化粧とか」
「戦うのになんの役にも立ちませんよ?」
「それはそれ、だろ。正義の味方がどんなもんかは知らないけどさ。プライベートなときくらい、オシャレしたってバチは当たらないって」
どんなヒーローだって、自分っていうものがある個人に変わりはない。
まぁ、忙しくてそれどころじゃないっていう気持ちも理解は……いや、簡単にはできないけど、想像はできる。
だから彼女だって、風呂上がりのスキンケアくらいしてもいいと思う。
「……確かに、そうかもしれませんね」
彼女は一瞬きょとんとしたあと、頬を緩めてそう呟いた。
「なんだよ?」
「いえ」
その表情が気になって訊き返してみたが、彼女は優しい表情のまま首を振る。
一体なんだというのか。
「それはそれとして、お風呂上がりの女性に詳しいんですね。もしかして、そういう機会が多いんですか?」
そして今度はなぜか、楽しげに目を細める。
まるで思いついた悪戯をすぐ実行せずにはいられなかった子供のような目だ。
こんな目をする子供は正直、可愛くないと思う。
「言っとくけど、別にそういう、アレな店に通ってるとかじゃないからな」
「別にそんな意味で言ったわけじゃないですけど。逆に怪しいですね」
こいつ……。
どう考えてもそういうニュアンスだっただろ。
俺の考えを裏付けるように、彼女はクスクスと笑う。
その表情にちょっとでもドキッとした自分が悔しい。
「いいだろ、そんな話は」
「そうですね」
俺の渋い顔を見ていろいろと察したのか、彼女はあっさりと引き下がった。
特別面白い話にはならないので、そうしてくれるとありがたい。
「寝るにはちょっと、早いですかね」
「疲れてもいないしな」
俺はそう答えながら、暇つぶし代わりにテレビをつける。
これと言って見たい番組があるわけでもないが、眠くなるまで時間を潰すには丁度いい。
彼女もそれでいいのか、俺の方に身を寄せ、同じようにテレビを眺めていた。
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