第2話

「お前は正義の味方だ、と……以前、そう言われました」

 そんな風に自己紹介をされたのは今から二日前の夜――いや、日付が変わったあとだから、正確には昨日の深夜だ。

 彼女と出会ったあの日、俺は仕事帰りに駅前の居酒屋でアルコールを飲みながら食事を済ませた。

 週に一度あるかないかの気まぐれ。

 その気まぐれで帰宅する時間が普段より遅くなっていた。

 いつもの帰り道は特に変わらず、強いて言えば人通りがなかったくらい。

 自宅であるマンションまであと三分くらいの距離だったと思う。

 俺は唐突に意識を失った。

 なにがあってそうなったのかなんて、さっぱりわからない。

 それくらい一瞬の出来事だった。

 改めて思い返してみても、前兆なんてなかった。

 いきなり後頭部を殴られたとか、落とし穴に落ちたとか、そういう直前の感覚すらない。

 意識が途切れた感覚すらなかったと思う。

 そして俺が次に意識を取り戻したのは、この場所だ。

 さっきと同じようにベッドで目が覚め、見慣れた天井が視界に広がった。

 違っていたのは彼女が――花芳と名乗る見知らぬ女の子が、不安げに俺の顔を覗き込んできたということ。

 あの時は本当に驚いた。

 どこから理解すればいいかもわからないくらい混乱していたと思う。

 そんな状況で一番印象に残っているのは、彼女の表情。

 不安げな表情は今にもひび割れそうに見えて……。

「あの、朝食の準備、できましたけど」

「ん? あぁ、ありがとう」

 出会った時のことを思い返している間に、彼女が準備してくれたらしい。

 彼女の手を借りてベッドから起き上がる。

「具合、どうですか?」

「……身体のほうは大分マシになったけど、なんかこう、胸のあたりが気持ち悪いっていうか」

 用意してくれた彼女には悪いが、食事は喉を通りそうにない。

 吐き気とは少し違う不快感が、身体の中で渦巻いている。

「わかりました。なら、よくなるまでこうしています」

 そう言うと彼女は、無遠慮に身体を密着させてきた。

 ベッドに腰かけて寄り添い、手のひらを重ねて指を絡める。

 躊躇も恥じらいもない。

 当たり前のようにその身をこちらに預けて、体温を伝えてくる。

 これは別に、色っぽい話じゃない。

 俺と彼女は二日前に出会ったばかりで、ろくに互いのことを知りもしない。

 当然、男と女の関係でもない。

 彼女は自称正義の味方で、俺はただのサラリーマンで。

「会社のほうに連絡は……」

「いや、大丈夫。昨日のうちに三日分、有休は貰っておいたし」

「あぁ、そうでしたか」

 肩に直接触れるような彼女の呟きが、不思議と温かい。

 それだけじゃなく、胸の奥にある不快感が霧散していく。

 本当におかしな話だ。

 彼女と触れ合っているだけで、こんなにも楽になるなんて。

「でも、ちょっと驚きです。社会人って、簡単には休めないものだと思ってたから」

「いや、普通は休めないよ。今はただ、時期がいいだけで」

「そういうものですか」

「あぁ、そういうもんだ」

 正直、俺だって拍子抜けだった。

 時期は確かにいいけど、こうもあっさり休めるとは思ってなかった。

 なにせ、こんな風に会社を休むのは初めてだったし。

「そっちこそ、いいのか? 昨日も今日もこんなところにいて」

「私なら平気です」

 もう何度も聞いた答えだ。

 彼女は自分の家にも、家族のところへも帰ろうとしない。

「それに、あなたをひとりにするわけにはいきません。こうしていないと、辛いですよね?」

「――まぁ、そうなんだけど」

 さらに距離を詰めるように触れてくる彼女の手に、息が詰まった。

 これで本当に色っぽい話じゃないなんて、そうそう信じてはもらえないだろうな、なんて考える。

 俺だって事情が事情じゃなかったら、浮かれてしまいそうな状況だ。

 でも本当にこれは、そんな話じゃない。

 だって彼女がこうしているのは、償いなのだから。

「……本当に、ごめんなさい」

「だからそれは、な」

「はい……」

 そうする必要はないとわかっているが、なんとなく彼女の手を握り返した。

 ほんの少しでもいいから、彼女が感じる罪の重さを軽くしたいと思って。

 正しい償い方なんて、きっと誰にもわからない。

 と言うより、正解なんてないのだろう。

 偶然、不慮の事故としか言いようがなかったとはいえ、彼女は一度、殺してしまったのだから。

 この俺――佐原さはら達明たつあきという、どこにでもいるただの男を。

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