ハルキ1.メビウス8ミリ

 4限目終了の鐘が鳴る。それなのに政治担当教師は板書をやめない。おれは開いてすらいないノートと教科書を机下に雑に突っ込むと、弁当を持って教室を出た。教師が「鹿嶋、まだ終わっとらんぞ」と呼んでいるが、時間を守らないあいつが悪い。


「つーちゃん先生、飯食いに来た」

 保健室の戸を開けると、養護教諭のおばちゃん、筒井が、扉のすぐ前に立ってそれを阻んだ。おれの背がそれほど高くないのもあるが、筒井はもうすぐ定年のくせしていやに姿勢が良くて背も高く、毅然とした態度で俺を見下している。

「今日はだめよ」

「え、なんで」

「病人がいるの。熱が移っちゃうし寝る邪魔になるから、あんたは教室で友達と弁卓囲みなさい」

「まじか、じゃあいいわ」

 筒井に逆らって、保健室出入り禁止になってはたまったもんではない。おれは早々に諦めて、屋上——は鍵がかかっているので、その手前の誰も来ない埃っぽい階段に腰掛け、弁当の包みを広げた。


 冷凍食品と昨日の晩飯の残りが詰められた弁当をつつきながら、スマホを確認すると、友達からDMが来ていた。「お前また授業さぼったん?」「笑」というふざけた文面に、すでに別クラスまでおれの話が流れてきていることを悟って、少し口角が上がった。「ちがうわ 鐘がなったから休んだだけだし」とだけ送ると、すぐに既読がつく。このまま昼もサボるのかを聞かれて、おれは箸を止めて少し考えた。三年生に進級して、もう間も無く2ヶ月が過ぎようとしているが、まだまだ卒業単位が足りるかどうかはわからない。そう考えると、今はまだ大人しくしていた方がいい気がした。


 午後からも授業に出ると返信しようとした矢先、ラインの通知が画面上に現れる。おれは体の動きをぴたりと止めて、ほんの一瞬頭が真っ白になった。そしてすぐに、胃の底からむかむかと不快感がこみ上げてくる。さっきまで気にならなかった、階段の埃と黴の混ざった靴箱の奥みたいな匂いが、今になって鼻の奥を刺激し始める。


「今日は命日なので、早く帰って来てね。夕方にみんなでお墓参りに行きましょう」

 母の妹の瑠美さんから、そんな連絡とともにテンションの高いウサギのスタンプが送られて来た。おれは、瑠美さんが拵えた弁当の半分も食べないまま蓋を閉じると、わざと弁当箱の入った巾着を振り回しながら階段を一段飛ばしで駆け下りた。


 そのまま大股で職員室を訪れ、昼食を食べながら机に向かっている担任に声をかける。

「先生、気分悪いんで早退しまあす」

 すると、担任はあからさまに嫌そうな顔をして席を立ち、おれの元まで歩み寄った。

「鹿嶋、お前5月からそんなんじゃ——」

「親の命日なんで、気分悪いっす」

「…………」


 おちょくるつもりで片眉を上げて見せると、おれを見下ろす薄毛の男は心なしか身を引いた。説教をしようか、労ろうか迷う様子の担任教師を、俺はじっと見上げて返事を待った。しかし、数秒経っても沈黙が破られることはなく、おれは舌打ちをすると、「せんせー、さようなら」ときちんと別れの挨拶を告げて靴箱に向かった。返事に困るくらいなら、理由なんて聞かずにさっさと帰せよ。おれがサボっていることには変わらないのに、どいつもこいつも、はっきりしない態度で言葉を濁すばかりで腹が立つ。


 おれは友人に「今サボった」と返事をして、駐輪場から自分の自転車に跨って正門を出た。

 スラックスのポケットに入れたスマホが振動している。おそらく、担任からおれの早退を知らされた瑠美さんが、電話をかけてきたのだろう。胃の底のむかむかが増してくる。


 郊外に抜けると、瑠美さん宅のある住宅街までは、見晴らしの良い田園が広がっている。小さな苗たちが整列する、鏡面にも似た田んぼは、五月晴れの空をぴかぴかと映し出していた。時折駆け抜ける薄い風に、あぜ道の雑草が長閑にそよぐ。

 まるで、世界で苛立っているのはおれだけだと突きつけられている気がしてくる。おれは自転車を止めると、鞄の奥底に隠し持っていたメビウスの8ミリを一本取り出し、唇で挟んだ。こんな辺鄙なところでタバコをふかしたって、警察には見つからない。おれは咥えタバコのまま、また自転車を漕ぎ始めた。


 中学2年生の頃、先輩から分けてもらったのを機に始めたタバコの味は、さして美味しくもないし不味くもない。けれど、行き場のない苛立ちや手持ち無沙汰な気分を紛らわすにはいい手段だった。特に、今日のような腹立たしい日には、気管支を満たす煙のぬるさとメンソールの清涼感が、おれの意識を苛立ちから遠ざけてくれるのだった。


 本当に、両親の命日なんて腹立たしいだけだ。

 勝手に死んでいったくせに、毎年大事に拝まれていいご身分である。

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