レナ4.白昼夢

 私の誕生ライブは、なんだかんだいって恙無く終わった。そして、なんの変哲もない土日を挟んで、私の冴えない日常がまた繰り返されていく。


 はずだったのに、私は今、不思議な光景の只中にいる。

 夕焼けが眩しくて風が強い。近頃の春の訪れを忘れてしまったかのように肌寒くて、だからこそ斜陽が暖かくて心地良かった。私の目の前には、よく見慣れた地方都市の情景が広がり、少し離れたところによく行く大型ショッピングモールの看板が見えた。町の外れには、夕陽に染まる田園とそこに等間隔で立ち並ぶ送電鉄塔。

 高いところから見ると、日本全国どこにでもあるようなこの街の姿も、何故だかここにしかない特別な風景なように思えて、私はうっとりと見惚れて冷たい風に目を細めた。


 そこで6時30分のアラーム音が鼓膜を叩き、私は目を空けた。自室のクリーム色の天井を見る前に、夢を見ていたのだと気づく。

「だっる……」

 あんまりにもいい気分だったものだから、もう一度目を閉じてまたあの光景へと戻りたくなった。そういうわけにもいかないから、私はいつも通り1日を始めることにする。

 私が進学した高校は、電車で10分くらい、そこから歩いて20分くらいのところにある公立の普通科高校だ。荒れているわけでもないけれど、取り立てて有名でもない、家から近くて治安がいいというだけで選んだ、どこにでもある田舎の高校。正門には、錆びて緑がかった「白陽高等学校」のプレート。まだ真新しくて着慣れていない制服に身を包み、精一杯背伸びをしている一年生たち、打ち解けた友達と合流して悪ふざけをしながら校舎へと入っていく二、三年生たち。私は二年生だけど、そこまで仲が良い友達はいないので、イヤホンを耳に一人で教室まで向かうのが日常だ。


「笛木さんはよー」

「おはー」

「……おはよう」

「ねえ金曜日、ライブあったんでしょ? 新聞見たよー」

「すごいじゃんね」

 仲の良い友達がいないからと言って、別にいじめられていたり、孤立しているわけではない。クラスメイトと軽く話すくらいはするし、今の薄い人間関係に特に不満はなかった。新聞、破り捨てていいよと軽口を叩く代わりに、私はクラスメイトの女の子たちに少し笑って見せる。


「ありがと。でも、知り合いばっかりの小さなライブだから」

「へえー、でもすごいよねえ」

「いつか学校でも歌ってよ」

 その提案には、冗談と分かっていても流石に苦笑した。

「恥ずかしいから、ちょっと……」

「ほらあ、困らすな」

「え、ごめんて」


 だんだんと盛り上がっていく会話の速度についていけなくなって、私は曖昧に笑うと、ハンカチだけ持ってトイレに行くふりをして教室を出た。地元の高校ということもあって、私のジャズシンガーまがいの活動を知っている生徒は決して少なくないと思う。トイレの鏡の前でまつげを取るフリをしながら、彼女たちの話題がとっくに私から外れているであろうタイミングまで待った。自意識過剰なのはわかっているけれど、それでも、歌のことを誰かに話すのは、心の中の一番大切で綺麗で壊れやすくて、そしてどこか邪魔臭い物を素手で鷲掴みにされているような気分になるのだ。陶器製の手洗い鉢の排水溝に、水が流れていくのに目を落としたまま、気づけばそんなことを考えていた私は、朝のSHRの鐘の音に我に帰って慌てて教室に戻った。



***

 学校にいる間の私は、一言で言えば「上の空」だ。授業なんて出席しているだけで、頭の中では音楽が流れているし、ノートは窓から見える景色や歌っている時に思い浮かぶ物たちの落書きばかりだ。進級後クラスが替わり、窓際から2列目背後から2番目の席という、とても幸運な席順を引き当てたことも原因の一つだ。それでも、課題とテスト勉強さえしていれば、中位程度の成績は取れるようなレベルの高校なのだ。だから私は上の空。なんなら、今日は窓から差し込む春の日差しが心地よすぎる。数学担当男性教師の、スキャットみたいに不明瞭な解説を耳に、うたた寝でもしたい気分だ。


「————寝てる人ー、置きなさい」

 女性教師の声に私ははっとして黒板を見る。自分のことを言われているのかと思ったけれど、先生の視線の先には机に突っ伏している男子の姿があった。私はほっと胸を撫で下ろして、あれ、と違和感を感じる。さっきまで、数学の授業じゃなかったっけ。冴えてきた頭を回転させてあたりを見回す。教壇に手をついて居眠り男子を叱るのは、国語担当の女性教師。黒板には、竹取物語の原文と、誰かに書かせた現代語訳。いつのまにか数学の授業が終わっていたのだ。私は焦りを悟られないよう、教科書をすり替えるべく体を動かした。

 しかし、動かそうとした体はびくりともせず、それどころか、私の意に反してすらすらと綺麗な文字で板書を書き写していく。私はそこで、もう一つの違和感に漸く気付いた。周りの生徒が、誰一人として私のクラスメイトではない。私が座る席は、廊下側一列目、前から2番目。焦った馬鹿な私は咄嗟に、「クラスを間違えた!」と意味のわからない解釈をしてしまい、立ち上がって出て行こうとした。


「————笛木、どうした」

 男性教師が急に物音を立ててノートや筆記具を床にぶちまけた私のことを覗き込んでくる。

「あ、えと、落としただけです…………」

 羞恥のあまり一瞬で火照った顔を髪の毛で覆い隠しながら、私は惨めに背中を丸めて落とした物を拾い上げた。



***

 あの夢が、単に呑気に春の日和を堪能する私の身に降りかかった、恥ずかしくてばつの悪い不運ではないと悟るのに、そう時間はかからなかった。

 あれから数日間、そして5月の大型連休、所謂GWに入ってもなお、私は何度か似たような夢——ただの夢というよりは、ぼんやりしている時にふと視点が切り替わったように見せられる白昼夢というものかもしれない。

 例えば、昼食を食べている時、何を見るでもなくぼんやりとおかずを噛んでいると、いつの間にか廊下を歩いている感覚に陥る。放課後なんかは、代わり映えのしない通学路を歩いているはずなのに、いつのまにか写真映えしそうな可愛いドリンクを片手に、知らない女子と会話に花を咲かせている。それはまるで、誰かの視点になって撮影された録画ビデオを見ているような感覚だった。


「それはなんだか……刺激的な体験だね」

 GW最終日、私はランチタイムの営業を終えた「DEBBY」に居座って、休憩中のアズマさんに白昼夢のことを打ち明けた。

「信じてないんだ、アズマさん」

「そんなことはないよ。玲那ちゃん、嘘つくとすぐに分かるもん」

 渋い佇まいのイカしたお爺ちゃんから「もん」なんて語尾が飛び出てきて、私は思わず吹き出した。


「ちょっとアズマさん、私は真剣なの。急に教室の風景が変わったり、歩いてる廊下が微妙に違ったりで、道に迷いかけることもあるんだから」

「でも話を聞いていると、なんだか他人の人生を覗き見しているようで面白そうだけどねえ」

 アズマさんがカウンターを磨きながら言った感想には一理ある。確かに、夢の中の私は、こんなおばちゃんみたいに低い声じゃなくって、スマホの画面を滑る指は艶のある爪と細い指が綺麗で、授業ノートは整頓されて字も整っている。夢の中の私は、現実の私じゃあ、とても実現困難な人物である。

「夢って、よく自分の願望が現れるっていうけれど、玲那ちゃんはどうなんだ」

「どうって……」

 本音を言えば、憧れはある。だからといって、はいそうなんです、実はもっと可愛くてお洒落で普通に女子高生を謳歌する生活に憧れています、なんて言えない。恥ずかしいのもあるし、それを言葉にすることは、これまで歌に囚われてきた私自身と、ジャズとともに私の歌を何よりも愛してくれたじいちゃんへの裏切りであるような気がした。


「まあ、体験はしてみたいと思うけど……そんな生活してたら、アズマさんの店で歌わなくなっちゃうし」

「ええ、それは困る。玲那ちゃんが歌ってくれないと、ウチ潰れちゃうよ」

「大袈裟すぎ。それに、ただの夢だから。私がそんな女子高生に今更なれないから」

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