流れ星に内緒話を

柳路 ロモン

--

 僕が「田舎での穏やかな暮らし」という淡い夢と共に越してきた町には、不思議な催しがあった。

 それは、「流星群が見られると今年初めて予報された夏の日」に開催され、町中の人間が、各々好きな場所で星空を眺める、というものであった。

 娯楽の少ないこの田舎の小さな町の一大イベント。いったいいつの時代から、誰が何を理由に始めたのかは一切不明。

 星空を眺めるだけの催し、であるにも拘らず、町の集会所の広場には屋台が並ぶ。煙と湯気に運ばれる焦げたソースの香りが辺りを舞い、怒号によく似た歓声がCDプレイヤーから再生される祭囃子を伴奏にして辺りに響く。

 元々賑やかで大勢人の集まる場所は好きじゃなかったし、自分には縁のない催しだと思っていたのだが、僕が住んでいた家の近所の人から、お祭りのメインイベントの説明をしてもらい、その年は初めてお祭りに参加することを決めたのだった。


 ◯


 今夜、流星群が見られると大々的に予報されているため、町は先日から忙しなく祭りに向けて準備していた。

 日が南東の空に昇り始めた午前中。集会所に集められた町民は、くじを引かされる。町民はその行いに特に疑問を抱く様子はなく、皆揃って、くじの入った段ボール箱に腕を突っ込み、箱の中でがさごそと手を動かした後、「これだ!」と声を上げて引き抜く。

 ハンドメイド感溢れる厚紙で出来た長方形のくじには、黒の油性ペンで番号が書かれていた。その番号を周りに見られぬよう、僕は自分の手のひらでくじを隠しながら確認する。老眼の進行が酷い者は、くじを顔の前で前後させて焦点を合わせようとしていたりするため、まだ目の若い僕は、さっと目を明後日の方へやったり伏せたりして、守られるべきプライバシーを尊重するよう試みたりする。他人の番号を見てしまったら実行委員会に罰せられるなんてことはないのだが。

 全員分のくじが引き終わると、今度は、自分と同じ番号のかかれたくじを持っている人物を探さなければならない。

 これが大変な作業、のように思えて、実際はそうでもない。この小さな町に住んでいて、午前中の間に集会所に集まれる人間の数なんてたかが知れている。探す、というほどの労力をかけることもなく、すぐに相方を見つけられる。現に、周りの皆もすぐに相方を見つけて「なんだまたお前かよ」「今回は違う奴がよかったなぁ」と、わざとらしい、本音ではない嫌味を言いながら笑い合っている。

 僕の今夜の相方は、初めて見る、若い男性だった。畳の敷かれた広間の端っこで、片膝を立ててぼーっと座っており、「相方を探そう」という熱意は感じられない姿勢だったが、人差し指と中指の間に挟んだくじの厚紙は、番号の書かれた面を外側に向けしっかりと周りに見えるようにしていた。その何気ない配慮のおかげで、僕は、自分が彼と同じ番号のくじを引いていたと知ることが出来た。

 

「こんにちは。今夜はよろしくお願いします」


 僕が丁寧にお辞儀をしながら、彼にそう挨拶をすると、男性は僕の顔をじっと見た後、表情はピクリとも変えず、首をかくんと縦に振るだけで何も喋らなかった。

 「最近この町に越してきたんですか?」僕の問いかけに、男性は頷いた。

 「お祭りに参加するのは初めてですか?」僕の問いかけに、男性はまた頷いた。

 少しだけ、沈黙が僕と男性の間に漂った。

 その間に、僕は男性の隣に座った。少々距離の詰め方が馴れ馴れしすぎるかと思ったが、どうせ今夜は同じ時間を過ごすことになるのだから、別にいいだろうと一人勝手に結論付けた。

 しかしまあ、この男性の落ち着き様ときたら、なんと不思議なことか。初めてこの楽しげな行事のことを知った時の僕と比べたら……。

 

「このお祭りで、何をするのかは、知ってるんですか?」


 男性はピクリと体が小さく跳ねさせた後、ゆっくりと僕の方を向いて、


「知っている」


 声に出してそう答えた。聞き心地の良い低くて男らしい声であった。酒や煙草に喉をやられているような印象は受けなかったが、吐息に混じる嗅ぎ慣れない強めの煙草の香りが僕の鼻をくすぐった。

 最近この町に越してきて、初めてこの行事に参加するというのに、何をするのかは既に知っている。

 僕は、彼にそれ以上何も聞かなかった。

 

 ◯


 流れ星に願い事を言うとその願いが叶う、とかなんだとかは、有名な話だろう。僕も最初、この行事の一番の目的はそれだと思った。

 しかし、お祭りの夜、僕らは流れ星に願い事を言わない。僕らが流れ星に言うのは、「真実」だ。

 

 「実はあの時」

 「今まで黙ってたけど」

 「誰にも言えない秘密がある」

 

 そういったことを僕らは告白する。聞き役の相方は、それをただじっと聞き、時折相槌をうちながら、相手が気持ちよく話せるように努める。そうして話が終わった後は、全てをなかったことにする。今自分が聞いたのは、間違いなく相手にとっての真実かもしれないが、話が終わった瞬間にその全てを「相手が一生懸命この夜を盛り上げようと考えた作り話だ」と自分に暗示をかける。

 そうして役割を交代して、真実を打ち明け、それを聞き、忘れる。

 告げられた事実について、聞き役は余計な詮索をしてはいけないし、次の日からそのことを掘り返してもいけない。これは誰かがハッキリと提示した約束事ではないが、誰もがそのことを理解している。

 今まで、僕がこの行事に参加した回数は二回だ。

 一回目は、佐藤という名前の、僕が住む家の近所に住んでるおじさんが相方になった。待ち合わせ場所は、佐藤さんが所有している畑のそばだった。そこにビニールシートを敷き、充電式のランタンが唯一の明かりだった。お弁当箱に入っている、彼の奥さんが作ったであろうおつまみを食べながら、流れ星が見えるのを待っていた。

 ビールのアルコールが心地よい具合に体を巡り始めた頃、さらりと夜空を一筋の線が走った。ついにその時が来た。

 僕が初めてこのお祭りに参加することを知っていた佐藤さんは、「俺がまず手本を見せてやる」と威勢よく言って、手に持っていた開けたての缶ビールを大きく喉を三度鳴らしながら飲んだ後、空々しく咳払いをして、告白を始めた。


 「何十年も昔、まだ自分がガキだった頃、本気で好きだった女がいた。その子と、なんとしてでも仲良くなりたいと思って、今だったらストーカーだとか変質者だとかで捕まってもおかしくないようなこともたくさん考えた。でも結局出来なかった。

 臆病者だ、って周りに笑われたけど、それでもよかった。彼女のことを見ているだけで俺は幸せ、ってやつだな」


 随分と可愛らしい告白をするのだなと密かに思っていたが、決してそのことを僕は口にはしなかった。というのも、「詮索はしてはいけない」という約束事にがんじがらめになっていた僕は、聞き役を演じている間はとにかく何も喋ってはいけないものだと思っていたため、ただ黙って佐藤さんの話を聞いていることしが出来なかったのだ。


「でもやっぱり、今ではすっげぇ後悔してる。法に触れるような危なっかしい真似をしてでも、自分の思いをあの子に伝えるべきだったって」


 告白はそれで終わりだと思っていた僕には、その話に続きがあるとは考えてもみなかったわけで、思わず僕は「えっ?」と声に出してしまった。慌てて自分の口を手で塞いだが、そんな僕の様子を見て、佐藤さんは何かを悟ったらしく、「大丈夫、ちょっとくらいなら喋っても平気さ」と優しく声をかけてくれた。


「……その子、今は何をしてるんすか?」

「死んだよ。とっくの前に、流行り病で」


 彼は、ほとんど中身を飲み干しているはずの缶を、少しだけ傾けて、そう小さく口にした。

 その後すぐに佐藤さんは、くっくっくと刻むような笑い声を口から漏らし始め、「どうだ、最高の作り話だろ? お前のためにわざわざ考えてきてやったんだ」とお茶目に笑ってみせたが、どうにもならない後悔と悲しみに暮れた涙で潤う瞳が、ランタンの橙色の明かりを反射していた。

 それが事実であれ、この日のためにこしらえた作り話と演技であれ、僕は佐藤さんを疑うなんて真似はしなかったし、それ以上何も聞かなかった。その方が良いと思った。

 話を聞いてあげない、という優しさも、この世界には存在するのだ。


 ◯


 二回目の相方は、僕より少し歳上くらいの、左手薬指にはめられた指輪が眩しい、若い女性だった。名前を坂波という。

 待ち合わせ場所に向こう側から指定されたのは、町の中心から少し離れた場所にポツンと設置されている不思議なベンチだった。町に住む子供たちの間では、なんでもそのベンチは、曰く付きのベンチと噂されており、「座っている間は後ろを振り返ってはいけない」だとか、「座っていると足を誰かに掴まれる」といった、よくありがちな怪談話が広まっていた。子供騙しにしか思えないありがち話だとわかっていても、そういう話が極めて苦手な僕は、夏夜の冷え込みとはまた別の理由で体を震わせた。

 しかし、わざわざこんな人の通りの少ない場所を選ぶよりも、別の場所に変えた方がいいのではと提案したのだが、坂波さんは「いいからいいから」と言うばかりで、具体的な説明もなく、僕の提案は全て却下された。

 当日、僕と彼女は歩幅を揃えてその待ち合わせ場所まで向かった。やはり、なぜそんな場所にベンチが、と考えざるを得ないその光景は異様そのものである。近くに街灯がなければ、そこにベンチがあるなんて誰も想像しないだろう。

 坂波さんは何の躊躇いもなく、そのベンチに腰掛けると、隣の空いたスペースを手のひらでぽんぽんと優しく叩き、僕にもそのベンチに座るよう促した。僕はなるべく体を小さくしてベンチに座り、彼女と自分の間に、お互いの体が触れ合わないようになるべく空間を作った。

 これからしばらく、この姿勢を維持しなければいけないことを苦痛に感じた。

 そうこうしていると、夜空に星が流れた。

 僕は、何気なしに坂波さんの方を見た。坂波さんは、背中を丸めて、自身の太ももに右肘を置いて頬杖をつきながら、物憂げな視線を正面の暗闇に向けていた。

 声をかけるのが、少々躊躇われた。


「最近、夫と喧嘩した」


 何の前触れもなしに、坂波さんは話し始めた。


「私が、夫に『欲しいものがある』っておねだりしたら、『そんなもの要らない』って言われちゃった。私が欲しがってるものを、『そんなもの』呼ばわりされちゃったらさ、なんか、カチンときちゃってさ。それからもう、何年振りかの大喧嘩。殴ったり蹴ったりはしなかったけど、ぎゃあぎゃあ喚いて、今言うことじゃないのにお互いが溜めてた不満を吐き出しまくって……」


 話している間、彼女はじっと前を向いたままだった。僕の方は一切見ない。淡々と、つい先日あった出来事を、独り言のように口にしている。隣にいる僕は、まるで、誰に聞かせるつもりでもなかったその愚痴を、うっかり聞いてしまった様な、ばつの悪い心地であった。

 

「でもさ、酷いと思わない? 私が『欲しい』と思ったものを『そんなもの』扱いとか、無関心にも程があるでしょ」


 坂波さんはいきなりこちを向いて、そんな質問を投げかけてきた。突然のことだったので、ぎょっとしたような反応を見せてしまったが、質問された以上は答える義務がある。

 なんと答えるべきか、とりあえずウーンと唸りながら腕を組んで頭を回したが、そもそも、坂波さんが何を欲しがったのかにもよりそうな話題だと思った。もし、僕にも結婚相手がいて、その人が「欲しいものがある」とおねだりをしてきたら、なるだけその要望通りにしてあげたいと策を巡らせる。しかし、その欲しい物が、あまりにもくだらないものであったなら、坂波さんの旦那さんのように、僕も「そんなもの」と呼んでしまうかもしれない。


「……何が、欲しかったんですか?」


 彼女の質問に答えるには、まずこの部分を知らなければならないと思った。


「知りたい?」

「知りたいです」


 僕は、口の中にじわりと溜まった唾を飲み込んだ。今か今かと坂波さんの言葉を待つ。


「子ども」


 

 何が飛び出すのかと身構えていれば、それこそ、夫婦二人だけで解決してくれと言いたくなるような、僕を巻き込まないでくれと祈りたくなるような、拍子抜けする様なオチに辿り着いてしまった。そのせいで、僕は一気に体から力が抜けて、曰くつきのベンチだとか、体がなるべく触れ合わない間隔を過剰なくらい意識して開けていただとか、そんなことは全部忘れてしまった。

 しかし、一切の躊躇なく、坂波さんは自分の望みを僕に共有してくれた。真っ直ぐで芯のしっかりした、僕をからかおうとしている気持ちは微塵も感じられない、坂波さんの本心からくる言葉であった。それだけ彼女が本気で欲している、”子ども”を”そんなもの”扱いしてしまっては、坂波さんが腹を立てても何もおかしくはないはずだ。喧嘩のキッカケには十分すぎるほど納得のいくものである。

 

「仲直りは、したんですか?」

「いや、まだしてない。でも、今日、この後に謝ろうと思ってる。流石に、そろそろどっちかが折れないと、取り返しのつかないことになりそうだからさ」


 僕は「それがいいと思います」と言いながら坂波さんの考えを肯定した。すると、坂波さんは、ふっと柔らかい笑みを浮かべた。その微笑みに僕は、自分の母の面影を感じたが、瞬きを一回挟んだ後、僕の目の前にいるのは、他の誰でもない、坂波さんその人であった。

 それから数日後、仲直りに成功したであろう坂波さん夫婦の姿を町で見かけた。「仲直り出来てよかったです」と声はかけにいきたい衝動に駆られたが、お祭りごとの約束が云々よりも先に、幸せそうに腕を組みながら歩く二人の邪魔をしてはならないと判断して、遠くの方で坂波さんを見守ることにした。

 

 ◯


 そして、今夜が三回目になる。

 星を見る場所はどこにするか男性に尋ねたら、「なるべく人の通りが少ない場所がいい」と言われた。そう言われてパッと思いつく場所といえば、あのベンチだった。元々夜遅くになれば人の通りも少なくなる場所な上、どれだけ時間が流れてもあのベンチの噂は途絶えない。他の参加者が好んであの場所を待ち合わせ場所にすることもないだろうし、僕はそこを提案した。

 その夜、集会所周辺で合流した僕たちは、あのベンチを目指して歩き始めた。流星群が見られると予報されたのは、例年に比べて遅い時刻であった。念の為、空腹と眠気を紛らわせるためのお菓子類は持参してきたが、途中で眠ってしまわないかという不安は残る。男性も、ビニール袋を右手にぶら下げている辺り何かを持参してきているのは間違いなさそうだが、何を持ってきているのかまではわからなかった。

 目的地のベンチに到着すると、僕らにできるのは待つことだけになった。

 空を見上げながら、ベンチに腰掛けて時間が来るのを待っていると、僕の鼻を芳しい香りがくすぐった。何気なしに男性の方を見ると、男性は持参してきたのであろう水筒から黒い液体を紙コップに注いでいた。白い湯気を辺りに散らす黒い液体の正体は、コーヒーのようだった。紙コップの半分ほどまでコーヒーを注いだ男性は、その紙コップを僕に差し出した。


「飲め。少しは眠気も紛れるだろうから」

「いいんですか?」

「あぁ」


 紙コップを受け取ると、程よい温度の熱が紙コップ越しに僕の体に伝わってきた。湯気に乗って、ブラックコーヒーの香りが僕の顔目掛けて浮かんでくる。

 ふぅふぅとコーヒーに息を吹きかけ、コーヒーを少しだけ口に流す。口の中一杯に広がる、眉間に皺を寄せたくなる苦味。カフェインの刺激も合わさり、暗闇に紛れて僕の方ににじりよっていた睡魔は姿を消した。


「あの、今更なんですけど、お名前は?」

「板垣」

「板垣さんは、どうしてこの町に?」

「都会での暮らしに疲れたとか、向こうで暮らしてる意味がなくなったかとか、挙げだせばキリがないほど細かい理由はあるが、この祭りに参加するのが一番の目的だ。この祭りのことは友人に教えてもらった」


 午前中に集会所で声をかけた板垣さんとは違い、随分と饒舌だ。事前にお酒でも飲んできたのだろうか。この機に乗じて、今なら板垣さんについて詳しく知ることが出来そうだと思った僕は、しつこすぎない範囲で、雑談を始めることにした。


「お友達は、今もこの町に住んでるんですか?」

「いや、五年くらい前に町は離れてるはずだ。今はちっとも連絡が取れん。ただ、この祭りには一度だけ参加したらしくてな、最後の連絡で色々と教えてもらった。賑やかな場所は嫌いだったはずのアイツでも、流石に興味を持ったんだろうよ」

「興味を持った……というと?」

「この祭りの変なルールだよ。流れ星が降り始めたら、お互いが秘密にしていたことを話すってやつ」


 僕はもうそのことに違和感を覚えることはないが、やはり、町の外の人間からしてみれば、かなり不思議な、ある種不気味ともとれる約束事かもしれない。

 板垣さんはコーヒーを少し口に流し込んだ後、僕に「ちょっと持っててくれ」と言って自分の紙コップを僕に手渡してきた。素直に紙コップを受け取ると、板垣さんはビニール袋の中をガサガサと漁り、珍しい銘柄の煙草の箱とライター、銀色の携帯灰皿を取り出した。

 箱から煙草を一本取り出し、それを口に咥える。ライターを煙草の先に近づけて火をつけようとした瞬間、ふと思い出したかのように僕の方を見ながら、「悪い。少しだけ我慢してくれ」と言った。

 僕は何も言わずに頷くと、板垣さんはライターを点火した。煙草からふわりと煙が舞い始め、ツンと刺す様な香りが辺りに漂い始めた。板垣さんが大きく息を吐いた。その横顔は、随分と穏やかなものであった。


「珍しい煙草の銘柄ですね」

「詳しいのか? 煙草吸ってる風には見えないけど」

「いえ、僕の周りにいる喫煙者の中で誰も、板垣さんと同じ銘柄の煙草を吸ってるところを見たことがないので」

「まぁ、そうだろうな。俺も同じ銘柄を吸ってる奴をひとりしか見たことない」

「ひとりだけいたんですか?」

「あぁ。さっき言ってた、俺の友達」


 板垣さんがまた紫煙を明後日の方向に向かって吐き出した。


「アイツに勧められて俺も吸い始めたんだよ。というか、今の俺が好きな酒も、煙草も、女の趣味も。それから、大人になってから覚えた遊びも、全部アイツの影響を受けたせいだな。アハハハ……」


 乾いた笑いをこぼす板垣さん。

 

「なんか、言っちゃ悪いんですけど、結構やんちゃな人でした? そのお友達」と僕が言うと、板垣さんは笑うのをピタリと止めて、緩んでいた頬を元の位置に戻して何も答えてくれなかった。

 また一口煙草を吸って、手元に用意していた携帯灰皿に灰を落とすと、「すまんな」と言って僕が持っていた紙コップを取った。紙コップに残っていたコーヒーを一気に飲み干した。

 そうしてまた、火がついたままの煙草を口元に持っていこうとして、


「お前は、何か知らないのか?」

「なんのことですか?」

「俺の”友達”のこと。この町に住んでるんだったら、見かけたことくらいあるだろうと思ってな」

「あぁいや、僕もこの町に引っ越してきた人間なんです。それが三年と少し前くらいのことで……」

「なら知らんか」

「すみません。力になれなくて」

「気にするな。どうせ会ったところで、何かが変わるわけでもないし」

 

 なんとなく、いや、ほぼ核心に迫っているようであったが、板垣さんとその友人の間に、僕みたいな部外者が関わってはいけない、深い関係と事情が混じり合っている気がした。

 これから板垣さん自身の口から告白されるであろう話の内容を聞くのが、少し怖くなった。

 どうか、もう少しだけでいいから、星が流れるのは待ってくれ。

 僕のささやかな願いは通じず、予定の時刻より少し早い時刻に、夜空に星が走った。


「……見えたか?」


 板垣さんがぼそりと言った。少しでも時間が稼げるのであれば「見えなかった」と嘘をついてもよかったが、その悪巧みを僕の思考から消し去るために次の流れ星がまた姿を現した。しっかりと、それを僕は見た。見てしまった。


「はい」

「なら、そういうことだ」


 板垣さんは短くなった煙草を口に咥えた。それを吸い終わると、携帯灰皿に吸い殻を押し込み、携帯灰皿はベンチの肘掛けにそっと乗せた。煙草の箱とライターはズボンの尻ポケットに隠す。

 その間、僕は敢えて板垣さんから視線を外し、目の前の闇に目をやった。街灯の光が届かない場所は、何も見えない。太陽の光に満ちた昼間のこの辺りの光景を思い出そうとするが、闇夜の侵食は僕の記憶にまで至る。

 虫の鳴き声が僕らを包み込んだ。前から聞こえてくるようで、僕の真後ろから聞こえてくる、涼しげで生命力に満ちた鳴き声を味わえるこの空間は、どんなに高品質の音響機器を用いても再現不可能だろう。

 紙コップの中で揺れる飲みかけのコーヒーはとっくに冷めきっていた。

 板垣さんが、「よし」と言いながらベンチから立ち上がった。彼の動きに合わせて動いた空気には、先ほどまで板垣さんが吸っていた煙草の香りが混じっていた。

 街灯の明かりが照らしている範囲から出ない程度の薄暗い場所で、ぼんやりと星の流れる夜空を見上げていた板垣さんが、くるりとこちらを振り向いた。


「あー……くそっ、もう少し酒飲んでくればよかったな。……このまま、話し始めればいいのか?」


 板垣さんが饒舌なのは、やはりお酒の力を借りていたせいだった。それと、少しばかり雑談をしただけですっかり忘れてしまっていたが、この人、このお祭りに参加するのは初めてだ。板垣さんの表情には戸惑いの色が見て取れる。


「はい、いつでもどうぞ。僕はここで静かに聞いてますから」


 なるべく板垣さんが話しやすいような空気作りを心がけている一方で、僕の体はかすかに震えていた。僕の精神状態を大きく揺さぶるこの心配が、ただの杞憂に終わることを切に祈りながら、僕はその時を待った。

 板垣さんが、大きく息を吸った。

 来る。


 「俺、好きだったんだよ。ソイツのこと」


 ◯


 「……友達、のことがですか?」


 自分はここで静かに聞いているから、と言っていたくせに、僕は図々しく質問をしてしまった。そんな僕の自分勝手な行いを咎めることなく、板垣さんは静かに頷いた。


「馬鹿みたいにいい女だったよ、本当に」

「あれっ? そのお友達って、女性なんですか? 僕はてっきり男性かと……」

「性別は確かに”女”だよ。でも、外見から内面まで、あらゆるところが男勝りなもんで、”女の身体をした男”だと考えた方が頭が混乱しなくて済む」


 ”女性の身体をした男性”という表現を聞いた僕は、それは世間で言うところの”ボーイッシュ”や”王子様系”と呼ばれる女性像を想像した。しかしその女性たちは、あくまでもフィクションの世界の住人で、現実世界でお目にかかることなんてなかなかないだろう。

 しかし、この世界は広い。僕が出会ったことがないだけで、そういう女性は探せばいくらでもいるに違いない。そういう趣向の女性とたまたま知り合い、友人関係を築いていたのが、僕の目の前にいる板垣さんだ。


「出会った時から好きだったわけじゃない。最初は、変な男友達が出来たくらいの感覚だった。でも、一緒に遊んで暮らしてるうちに、ソイツに対して向ける自分の視線に、”雄の本能”が混じってることに気づいたんだ。気づいてしまったら、もう、おしまいだよ。その時まで平然とやっていたことが、急に出来なくなる」


 彼女がさっきまで口をつけていた酒のグラスを「お前も飲め」と差し出してきても、グラスを受け取り口をつけることに躊躇ってしまう。

 自分が煙草をうっかり切らしていた時に、隣で煙を吹いていた彼女が「僕のを吸え」と吸いかけの煙草を渡してくると、馬鹿みたいに動揺して、何度も笑われた。

 自宅で酒盛りをした日の夜、ふと目を覚ますと、自分の肩に頭を乗せている彼女の顔が目の前にある。アルコールのせいで昨夜の記憶と共に忘れかけていたことが、眠る彼女の長いまつ毛と引き締まった顔の輪郭のせいで思い出される。その場から逃げ出したいという衝動に駆られるも、自分の肩を枕にして眠る彼女を起こしてはならないという理性のブレーキがかかる。

 抗えない”本能”と、認めたくない”好意”が板垣さんの心を弄んだ。


「思春期の頃を過ごしてるみたいだったよ。隣の席の女子と、ちょんと肘の先がぶつかっただけで大慌てしてたあの時みたいな」

「なんとなく、わかる気がします」


 思い出話に浸る板垣さんの姿を、僕は見ていた。冷め切ったコーヒーをほんの数ミリリットルずつ口に含んでは喉に流し込みながら。


「でも、それくらい好きだったんですね」

「……認めたくないけど、そうだ。この年になってようやく、日を跨ぐ恋ってのを理解した」


 一夜限りの愛は経験済みか、と思うと少々恨めしい。

 

「追いかけなかったんですか? 彼女のこと」

「……ソイツが『田舎でのんびり暮らしてみたい』とか言って引っ越しの話をひとりで進めてた時、俺はむしろ喜んでたんだよ。やっとモヤモヤとした気持ちの原因が遠くに行くからと思ってな。それが原因でちょっと喧嘩みたいなこともしたいけど……」

「追いかけなかったんですか?」

「ひとりで勝手に意地張ってたせいでな、『絶対に追いかけたりなんかするもんか』って。でもまぁ、結局こうやってのこのこと追っかけてきたはいいものの、目的の人物はとうの昔に音信不通。妙なお祭りがあるのは聞かされてたから、そこで『今まで自分が抱えてた物』全部吐き出しておこうと思って……」


 ズボンの尻ポケットから煙草を一本を取り出す板垣さん。煙草は咥えただけで、火は点けなかった。


「また会いたいですか?」

「……どうだろ。会ったところで、って感じもするしな」

「もしあれなら、探してみませんか? この町に昔から住んでる人なんて大勢いますから、探せばかならず手がかりの一つや二つは簡単に見つかりますよ」

「いや……その気持ちだけ受け取っておくよ。それにほら、あれだ、この夜のことは、次の日にはもう忘れなきゃいけないんだろ? 今お前聞いたのは、俺の作り話で、お祭りが終わればそれっきり。詮索もしないし掘り返しもしないっていう話じゃないか」


 話に引き込まれていたせいで、僕はそのことをすっかり忘れていた。

 板垣さんが打ち明けてくれたこの話は今夜限りの話。板垣さんの言う通り、僕たちは次の朝を迎えたら、この話のことは忘れなければいけない。絶対的な拘束力のあるルールではない。これはむしろ、マナーとかモラルとか、道徳的な話だ。

 流れ星と共に抱えていた秘密や悩みを打ち明けることによりその人は告白による凄まじい解放感を得ることができる。しかし同時に、自分の内面的な弱点を聞き役に晒すことになる。

 もしも、この町に住む人間がもっと多く、近隣住民への興味関心の薄い町であったならば。その弱みにつけこみ悪事を企み実行する人間が少なくとも一人か二人はいたであろう。しかしこの町は小さい。人の弱みを握ったところで、「他人の弱みを握った」という事実が今度は自分自身の弱みとなり、地域特有の自浄作用により罰せられる。

 僕は今、試されているのかもしれない。

 この町に住む人間として最善の行動を取るべきか、板垣さんにとって最善––––と思わしき––––の行動を取るべきか。

 ”見えざる手”が、ベンチに腰掛けている僕の背後に迫る。


「そう、でしたね。アハハ……」


 弱々しい声が僕の口からふわりと飛び出した。

 これでいいんだ、これで。

 そうやって自分に何度も言い聞かせているうちに、背後に感じていた”大きな物”の気配も消えた。


「よし、俺の話はこれで終わりだ。聞いてくれてありがとう、スッキリした。いや本当に、今まで体験したことないくらいスッキリした」


 板垣さんがベンチの方に戻ってきて、僕に右手を差し出した。その表情は晴れやかで、わずかに口角も持ち上がっていた。そんな彼の姿を見て、僕もにこやかな笑みを板垣さんに向けて握手に応じた。


「それじゃあ、攻守交代だ。お前の話も聞かせてくれよ」

「参ったな、板垣さんの話を聞いた後だと、考えてきた話がちっぽけに感じちゃうなぁ」

「いいからいいから。俺はここでしっかり聞いてやるからよ、思う存分話せ」


 ベンチから立ち上がった僕と入れ替わるように、板垣さんはベンチにどすんと腰掛けた。そして僕が持って来た軽食類を発見すると、お構いなしにその封を開けて食事を始めた。

 スナック菓子をバリバリと音を立てながら豪快に食し、「コーヒーじゃなくて、ウイスキーでも持ってくればよかったな」と口の中に咀嚼途中の物を残しながら愚痴をこぼす板垣さんを見ていると、その光景がなんだか可笑しくって僕は吹き出してしまった。


「なんだよ」


 ケラケラと愉快そうに笑う僕のことを、板垣さんは不服そうに見つめながら言った。


「ちゃんと聞いててくださいよ?」


 念を押すように、僕は板垣さんにそう言った。板垣さんは口をもごもごと動かしながらも頷いた。その反応をしっかりと確認すると、僕は街灯の明かりが届くギリギリの場所までゆっくりと歩いて行った。

 そして星空を見上げる。夜空を走る流れ星の数はかなり少なくなっていた。そろそろこの夜も終わりに近づいている。


 「実は僕、ずっと秘密にしてきたことがあって––––」


 ◯


 借家の縁側に出て星空を見上げながら、ひとりきりの二次会を始める。

 ウイスキーを飲みながら祭りの熱気にのぼせた身体を冷やす。ショットグラスの中でウイスキーの中に浮かぶ氷の音がなお心地よい。

 祭りが終わった後に、僕を包み込んでいたのは清々しさだった。酒や煙草なんかじゃ一生手に入らない、健康的な清涼感。それを味わえただけでもこのお祭りに参加した価値はあったのだろう。いやむしろ、この町の住民は、これを一番の目当てにしているのかもしれない。

 星空を眺めるだけのお祭り。流れ星に向かって口にするのは、願い事ではなく隠し事や悩み事。いつの時代から、誰が何を目的にして始めたのかは一切不明。考えれば考えるほど不思議なお祭りだ。

 でも、その不思議さには、どういうわけか強く心惹かれるものがある。あの時を一緒に過ごして、一人で勝手に悩み事を抱えてもがいていた誰かさんに教えたくなるくらい、僕はこのお祭りに魅了されていた。

 空になったショットグラスに、ウイスキーを注ぐ。もう一杯だけ、あともう一杯だけ、と繰り返し心のなかで独り事を呟いてもう何度目だろうか。なみなみとウイスキーが注がれたショットグラスを持ち上げ、透明なグラスの向こう側に星空を透かす。煌めく星がウイスキーの色に染まる。

 紺色の空に浮かんで見えたのは、酔いが見せた「誰かさん」の顔。

 あぁ、なんで今思い出しちゃったのかな。

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