鶴川さんと亀戸さん

ゴリ・夢☆CHU♡

転校生

 ミンミン、ジージーと好き勝手な蝉の声に紛れて、時間ぴったりに始業のチャイムが鳴る。

 先生が入ってきて、起立、礼、着席。

 座るや否や、私は本を開いて読み始める。一番後ろの席だとしても、それを先生は見逃さなかった。


「おい、亀戸。本しまえ、ホームルームだぞ。連絡事項、聞き逃しても知らないぞ」


 周りの生徒たちがくすくす笑う。私は視線に耐えられず、しぶしぶ本を机にしまった。


「もう知ってる人もいるかもしれないが、今日転校生が来る。入ってくれ」


 ほかの学校では一大イベントかもしれないが、うちが女子校である以上、マンガやアニメのような突然のラブロマンスみたいなもの誰も期待していない。

 だから教室の騒がしさもいつもよりほんのちょっと大きい程度。そんななんとなくしらけた雰囲気を気にも留めず、からからと音を立てて扉が開く。

 開いた窓から吹き抜ける夏の暑さを孕んだ風に、黒くて長い髪を靡かせて、瞳の大きな女の子が入ってくる。

 女の子は、黒板の前まで妙にかしこまりながら歩いて、先生の真横まで来るときっちり九十度、正面を向いた。


「はじめまして。鶴川あおいです! よろしくお願いします!」


 その鶴川さんという女の子は、勢いの良いお辞儀をして、すぐに顔を上げる。

 天真爛漫という言葉がきっと一番似合う、晴れやかな笑顔と、オレンジのような甘酸っぱい声が一瞬の間、私の脳を支配した。

 私はほんの数秒ぼうっとしたあと、ようやく教室のみんなが拍手していることに気付いて、同じようにぱちぱちとぎこちない拍手をした。


「じゃあみんな、鶴川もいろいろ分からないことがあると思うから、何かあったらサポートしてやってくれ。じゃあ鶴川、あーっと」


 先生は空いている席があったはずだ、と教室を見回す。私の左隣の、窓際の席が空いていることを、私はわざと知らせなかった。


「せんせー、亀戸さんの隣が空いてまーす」


 誰かが余計なことを言った。


「おお、そうか。じゃあ鶴川、一番端のあそこだ。亀戸、いろいろよろしく頼むな」


 鶴川さんがとことこと歩いてきて、私の隣の席に座る。


「よろしくね、亀戸さん」


 鶴川さんが私に、さっきみんなの前であいさつしたときと変わらない笑顔と私に向けて、大きな瞳がじっと私の目を見る。


「う、うん。よろしく」


 鶴川さんの溌剌とした声とは対照的に、私の声は小さい上にこもっている。

 そんな声を出すのが恥ずかしくて、私の声は更に小さくなる。そのことに気付いて、顔がかあっと赤くなる。

 鶴川さんに変に思われてないだろうかと不安に思う。原因は分からないけど、なんだかそれはものすごく嫌な気がした。


「かわいいね、亀戸さんって」

「へっ!?」


 予想だにしなかった、鶴川さんの唐突な台詞に驚いて、思わず素っ頓狂な声が出る。


「ご、ごめんね!

 私、ちっちゃい頃から、思ったことすぐに言っちゃうんだ。お母さんには、いい加減その癖直しなさいって怒られちゃうんだけどね」

「う、ううん。大丈夫」


 心臓の鼓動がいつもより強くて速い。いたずらっぽく微笑む鶴川さんから、私は思わず目をそらした。

 悶々とした感情を抱えたまま俯いていると、いつの間にかホームルームが終わっていて、一時間目、古文の授業が始まる。


「亀戸さん」


 鶴川さんの声で、いちいち心臓が跳ねる。


「な、なに?」

「私、教科書まだもらってないんだ。見せてもらってもいいかな?」

「いいけど……」

「ありがとう! 机、くっつけるね」


 ガタガタと音を立てながら、鶴川さんは机を合わせる。鶴川さんの体が椅子ごとぐっと近付くと、一瞬ふんわりと淡くて甘い香りがした。

 私は、背表紙が机同士の接地面に重なるように教科書を開く。

 いつもより面積の広い机がなんだか新鮮だった。


 ノートを開いて、シャーペンを三回振る。芯が飛び出して、私はそれをノートの紙面に擦り付けて、黒板と一字一句違わず書き写す。


「亀戸さん、字、すっごく綺麗」

「そ、そうかな」

「見て、私の。変な字でしょ」


 丸っこくて可愛らしい字。

 見比べてみると、私の字は角張っていてなんだかとげとげしい。


「全然、変、じゃないよ。……古文の三宅先生、怒ると怖いから、ね」


 今の言い方、感じが悪くなかっただろうか。嫌な思いをさせていないだろうか。そんな不安を取り繕うように、私は黒板の文字をひたすら書き写す。

 こうしている間は、余計なことを考えないですむ。

 その代わり、先生の話は聴こえもしない。


「亀戸。おい、亀戸! 聴いてるのか!?」

「は、はい!」


 慌てて、返事して立ち上がる。


「ボケっとしてるんじゃない。音読してくれ」


 三宅先生は何かと職員室に呼び出すタイプの先生だ。

 とりあえず教科書を持つが、どこを読めばいいかなんてさっぱり分からない。汗がたらりと頬を伝う。


「三十四ページ!」


 鶴川さんだ。


「三十四ページ。頭から!」


 鶴川さんが私にしか聴こえないくらいの小さな声で叫ぶ。

 言われるがまま、教えてくれた所から読む。

 源氏物語、若紫。

 光源氏が紫の上と出会うところ。


「清げなる大人二人ばかり、さては童女ぞ出で入り遊ぶ。中に十ばかりやあらむと見えて、白き衣、山吹などの萎えたる着て、走り来たる女子、あまた見えつる子どもに似るべうもあらず、いみじく生いさき見えて、うつくしげなる容貌なり。髪は扇を広げたるやうにゆらゆらとして、顔はいと赤くすりなして立てり。『何ごと……』」


「よし、そこまででいい。続きは、鶴川、だったな。よろしく」


「は、はい」


 私と入れ替わりに、鶴川さんが立ち上がる。私は鶴川さんに教科書を渡す。


「『なにごとぞや。わらべとはらたちたまえるか』とて、あまぎみのみあげたるに、すこしおぼえたるところあれば、『こなめり』とみたもう」


 鶴川さんの言葉はたどたどしい。ふりがなを頼りに、私の続きを読む。

 だけど鶴川さんは、胸を張って、はっきりとした発音で、胸を張って読み続ける。


「『すずめのこいぬきをにがしつる。ふせごのうちにこめたりつるものを』とて、いとくちおしとおもえり。このいたるおとな、……」


「よし、そこまで。じゃあ続きは……」


 解放された鶴川さんが座って、ふう、とため息をついた。


「私、古文、苦手なんだ。亀戸さんはすごいね、おんなにすらすら読めちゃうなんて」

「そ、そうかな。あんまり、考えたこと、なかったけど」

「亀戸さんは古文、得意なの?」

「いや、全然。そんなことないよ。平均よりちょっと上くらいかな」


 これは本当のこと。古文は平均よりちょっとだけ点数が高い。ほんのちょっとだけ。だけどつい、自分をよく見せようとしてしまった。


「すごいなあ。ねえ、今度教えてよ。夏休みが開けたら中間なんだよね」

「う、うん。私でよければ……」

「そこ!うるさいぞ!!」


 三宅先生に会話を遮られ、私たちは慌てて正面を向いた。


「そこの二人。あとで職員室に来るように」


 最悪だ。いままで呼び出しを食らったことなんてなかったのに。


「怒られちゃったね」


 鶴川さんが、私にそう囁いてから、困ったように微笑んで言った。


「古文、教えてね。約束だよ」


 私は鶴川さんと同じくらいの声量で答えた。


「うん。約束」

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