生きることへの疑問と狼狽、躊躇。

幾太

これだけ。です。

人生と言うものが如何に無慈悲、理不尽かを1番身に染みて感じる頃合だろう。少なくとも私はそうだった。「死にたい」、この言葉は一見相当重い言葉だろう。命を無下にする。親が切磋琢磨し、こんなにも大きくなるまで懇切丁寧に育てた命である。それを「死にたい」、つまるところ「命を棄てたい」ということである。だが、「死にたい」と声を発することはてんで簡単である。死ぬことだって、別段難しく、辛苦することの程ではないだろう。高所から身を投げるなり、木々が生い茂った森、又は誰からも目のつかない一室で首を吊るなり、捕まるところの無さそうな深い水溜まりに入るなり、簡単に死ぬ方法など、ごまんとある。だがどうだろう、「死にたい」又は「死ぬ」ということには多分に罪悪感というものが伴う。まだこの世に所謂未練とやらが少なからずあるのだろうか、いや、それでも本気で死にたい輩だって、死ぬ間際には少し躊躇うものだ。

人生というものはまさに狡猾だ。嫌なことが沢山積もり積もって、追い込まれた先は自殺。殺人、安楽死が認められていない遍く国々。自殺が頭に浮かぶのは1番である。だが、楽しいことだって沢山ある。(勿論嫌なことが多い。絶対に。)人間はその楽しいことが日常を過ごす時分、視野に入っていない。たが人生というやつは死ぬ間際になってそいつを視野に入れてくる。つまり、人生、社会というのは、生きろ生きろと政治をやるクセに、常日頃自分を死に追いやっていて、死んだあとは、メディアの美味いネタにして、終わりである。(名の知れた著名人などは、大事に扱われ、国民、又は世界から大事に弔われるが、私のような一般人は一瞬のネタ、市井の人々に軽く聞き流される身。最悪の場合ネタどころか、身内のちょっとした輩に知らされるだけで、命と言うものは本当の終わりを迎える。)

自殺に追い込まれる理由は、社会からの攻撃に基づいたものであると思う。社会というものに順応、適応できない自分が悪い、確かにそうであるが、肩身が狭く、寄る辺のない孤独な小心者を取り残す社会が数倍悪いだろう。そんななのに、潔く、社会活動から退こうと、死を目論むと、引き止められ、その時分だけ優しい言葉をかけ、何故か息させようと試みるのである。そして、上手く死ねたとしよう。そうすると、「親不孝だ。」、「可哀想だ、弱かったのだろう。」と哀れまれ、悪者にされるのはこちらだ。

要するに、私には社会というものに生きて欲しいと思われているのかが、不明瞭なのである。上辺では、生きて欲しいと、政治を行う。だが、その良いと勘違いしている政策によって私の首を絞め、死に追いやる。生きて欲しいのか死んで欲しいのかが分からないのだ。

だから私は「死にたい」と口にするのはとても躊躇う。罪悪感というのもあるが、それ以上に、分からないからである。「死にたい」と言っても社会やらなにやらたくさんの何かから拒否される気がして、又、「生きたい」と言うと歓迎してくれるが、その手伝いは何も無く、生きさせる姿勢が見受けられない。終わりにしようか、当惑し、酷く狼狽している。取り敢えずは、続けてみることにしよう。人生いいこともあると言った。そうだ、きっとあるはず。興味があるものを果たしてから死ぬことにしよう。

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生きることへの疑問と狼狽、躊躇。 幾太 @wara_be

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