第154話祐の田中朱里への気持ちは薄かった それよりも

祐が「田中朱里」を思い出したのは、大教室での講義の終盤(講義が終わる、5分前くらい)だった。

「そういえば、熱田神宮かな」

「突然着物着せられて、樟脳の匂いが強くて、いつもの頭痛」

「その頭痛の中で、撮影した」

「朱里さんのお祖母さんという人に、何か叱られた」

「でも、頭痛が酷かったので、中身は聞いていない」

「とりあえず謝っておけばいいや、と思って謝った」

『お祖母さんは、許してはくれなかったけれど、頭痛でそれ以上の対応は無理だった』


その田中朱里に「お茶」に誘われたけれど、その気にならなかった。

田中朱里自身には、何の印象もない、好きでも嫌いでもない。

ただ「昔逢った人」程度。

その人と、お茶を飲んで、時間をつぶせるほどに心の余裕はない。

何よりしっかり「文」を書いて、秋山大先生や、平井先生に迷惑をかけたくない、その方が祐には、重い、やらねばならない第一課題だった。(浮かれてはいられない、その気持ちしかない)


純子さんが「大丈夫?」と聞いて来たけれど、大丈夫も何も、目の前の課題をこなさねば、自分自身の心が落ち着かない。

「下手でも何でも、まずは原稿を仕上げる」

「それから、何度も見返して、最低30回は見る」

「少し間をおいて、それを繰り返す」


これは、母彰子が時々言っていた原稿の仕上げ方だ。

祐も時折は、添削、校正に付き合わされた。

母と意見が食い違うこと、一致することもあった。

それで、いまだに食い違っていることもある。

でも、そんな作業で、磨かれたのかなと思う。(直接母に感謝の言葉は恥ずかしいし、まだその段階ではない、と思っている)


純子さんは、まだ何か気にしている雰囲気がある。

だから声をかけた。

「さっき、言葉足らずで、ごめんなさい」


純子さんは、「うん」と顔を見て来た。(安心できる人、大事にしたい、と思う)


「田中朱里さんが、どうのこうのではなくて」


純子さんは「え?」と驚いた顔。

「あんなに可愛い子を、振ったんだよ」

「昔、トラブルでもあったのかなと心配した」


本音を言おうと思った。

「悪かったかなと思うけれど、余裕がない」

「秋山先生の原稿を今週中に仕上げたい」

「でも、もらった文が、かなり難解で」

「とても、人前で読む文でなくて」(秋山先生には悪いと思ったけれど、そうとしか言えない)


純子さんは、「うん」と腕を組んで来た。

「私も読ませてもらっていい?」


「うん、助かる」(これも本音だった)


そのまま、駅前のスーパーに寄った。

純子さんは、スーパーで誰かと連絡しながら、材料を買っている。


材料を買い終えた純子さん

「真由美さんと話していたの」

「真由美さんも手伝うって」

「それで、一緒に夕飯と夜食を作る」

「夕飯は、親子丼とお味噌汁とポテトサラダ」

「夜食は、おにぎり、明太子と佃煮、祐君の冷蔵庫に有ったから」


祐は、すごく肩の力が抜けた。

「助かります、本当に」(これも本音だった)

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