食事を済ませた女は、世話になったお礼のつもりなのか、俺が止めるのも聞かず食器を洗ってくれた。



 しばらくすると、焦げ茶色のポシェットをたすき掛けにした女が書斎にやって来た。


「ご迷惑をお掛けしました」


 正座をして、頭を下げた。傍らにはジャケットとボストンバッグがあった。


「記憶は戻りましたか?」


 万年筆を置いた。


「……いいえ。でも、これ以上厄介になるわけには」


「いや、私のほうは構いませんよ。記憶が戻るまで居てください。だって、記憶が無いのにどこに行くつもりですか」


「……駅のほうに行けば、何か思い出すかと思って」


「それだって、確かとは言えないじゃないですか。どっちにしても、記憶が戻ってから行動したほうが安全です」


「……そうなんでしょうけど」


「ここでのんびりしてたら、そのうち記憶も戻りますよ」


「……いいんですか? お言葉に甘えても」


 弱々しい目で見た。


「勿論です。歓迎しますよ。大輝もあなたのことが好きみたいだし」


「……よかった」


 女はホッとした顔を見せた。


「あ、コーヒーでもれましょう」


 そそくさと腰を上げた。


「ありがとうございます」



 台所に行くと、インスタントコーヒーをカップに入れ、テーブルに載ったポットの湯を注いだ。


「二人だけの男所帯ですし、なんの気兼ねも要りませんよ」


「はい」


 テーブルに着いた女が返事した。


「男親には分からないこともありますので、何か気付いたことがあったら教えてやってください」


 カップを女の前に置くと、テーブルを挟んだ。女はお辞儀をすると、カップの取っ手をつまんだ。


「でも、たいき君、しっかりしてらっしゃるから」


「確かに私よりはしっかりしてますね。けど、抜けてるとこも多々あります。先日も宿題を書いたノートをランドセルに入れ忘れて嘆いてました。やはり、女手が無いと行き届かなくて」


「じゃ、居候させてもらう代わりに何かお手伝いさせてください。掃除とか洗濯とか」


「いやぁ、それは助かりますが、そんなつもりで引き止めたわけじゃ」


「分かってます。でも、私がそのほうが居やすいので」


「……分かりました。では、お願いします」


「ええ」


 安心したのか、女は柔らかな表情で俺を見た。


 うむ……やはり、馬のような目をしている。



 掘っ立て小屋のようなガレージから車を出すと、温泉街のスーパーまで食料の買い出しに出掛けた。ついでに衣料品売場に寄ると、着た切り雀の女のために、恥ずかしかったが婦人下着や靴下、セーターなどを購入した。



 戻ると、台所が綺麗に片付いていた。


「おかえりなさい」


 と出迎えた前掛けをした女を見て、一瞬、亡妻と重なった。



「今日は私に作らせてください。夕食」


 テーブルに置いたレジ袋をのぞいて言った。


「あ、では、お願いします。楽しみだな」


「あまり自信ないですけど、作ってみます」


 女は秋茄子あきなすを手にしていた。


「あ、これ」


 俺は、手にしたクリーム色のビニール袋をテーブルに載せた。


「着替えです」


「えっ」


 女が袋の中を覗いた。


「まあ……こんなことまでして頂いて。ありがとうございます」


 白い下着を見た女が礼を言った。


「着替えが無いと、何かと不便かと思って」


「恥ずかしかったでしょ?」


「ええ。ちょっと」


「男のかたにこんなことをして頂いて、申し訳ありません」


 女が頭を下げた。


「いえいえ、気にしないでください。それより名前ですけど」


 二口にこうの湯呑みにお茶を淹れながら、女を見た。


「なんて呼びましょうか。名前が無いと不便だ」


「そうですね。……クレナイさんにちなんで紅を使って、ベニコとでも」


「うむ……紅子より、コウの虹を使って、ニジコでは?」


 テーブルを挟んだ女の前に湯呑みを置いた。


 女はお辞儀をすると、


「どっちでも。紅さんにお任せします」


 と湯呑みを持った。


「じゃ、ニジちゃんにしよう」


「はい」


 女の名前は虹子になった。



 時間を見計らって、虹子が料理を始めた。俺は虹子の記憶喪失が気になって、医学事典を開いてみた。小説や映画のことは覚えているのに、自分の名前や住所が分からないというのが腑に落ちなかった。


 あっ! これだ。……“心因性記憶障害しんいんせいきおくしょうがい


《心因性記憶障害は、精神的なストレス等によって記憶が失われてしまう障害です。通常、過去のことを思い出せない逆行性健忘で、不快な体験や出来事、特定の人物を思い出せなくなることが多いとされています。すべて忘れるわけではなく、一般的な知識は保たれているため、日常生活にはあまり支障がありません。しかし、自分が誰だかわからなくなる人もいます。また、わずかながら新しいことを覚えられない前向性健忘になる人もいます。一般的には心因性健忘、場合によってはヒステリー健忘、機能性健忘、解離性健忘とも呼ばれます》


 ……不快な体験や出来事、特定の人物を思い出せなくなる。……自分が誰だか分からなくなる人もいる。俺は考え込みながら、書斎の窓から見える美しく色づいた広葉樹に目をやった。やがて、駈けて来る大輝の足音がした。


 ガラガラっ!


「ただいまっ!」


 急いで書斎にやって来た。


「おばちゃんは?」


「虹ちゃん? 虹ちゃんは台所」


 俺は原稿用紙に顔を向けたままで言った。


「……ニジちゃんて言うの?」


 大輝が聞き直した。


「おかえり、たいき君」


 虹子が顔を出した。


「あ、……ただいま」


 前掛け姿の虹子に、大輝は戸惑っていた。


「少し居候させて頂きますので、よろしくね」


「……あ、はい」


 虹子が引っ込むと、


「きおくがもどったの?」


 小声で聞いた。


「……いや。名前だけ思い出したみたいだ」


 俺も小声で言った。


「ニジコって言うの?」


「ああ、偶然だよな。父さんのペンネームと同じ、虹が付く名前だなんて」


「ニジコさんか……」


 大輝がつくづくと言った。


 ぷっ。……そんなわけないだろ?

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