二
「あ、どうぞ、召し上がってください」
女の箸置きに目をやった。
「いただきます」
女は漆塗りの赤い箸を持った。
「ご飯のおかわりは自由です」
大輝が笑顔で女に言った。
「あ、はい」
この家の主のような大輝の物言いが受けたのか、女は笑いを堪えていた。
「大輝、父さんの晩酌は?」
「今日はお客さんがいるから、酒は飲まないかと」
「なんで? 意味分かんないんだけど」
俺は子どものように
「そうですか? では、トックリ一本にしてください」
大輝は勝手に本数を決めると、腰を上げた。
「あ、はい」
「ぷっ」
大輝との掛け合いが面白かったのか、女が吹いた。
「ね、
「……奥様は?」
「あいつが五つの時に腎臓を患って」
淡々と喋りながら、
「……それからはお一人で?」
「コブ付きじゃ、再婚も難しいですよ」
あっけらかんと言って鼻で笑ったが、それが
「…………」
女は黙って豆腐を口に入れた。
「ぬるめにしました」
大輝が大急ぎで、徳利と
「お、気が利くな」
ぐい呑みを二つ持ってきた大輝を褒めた。
「少し、飲みませんか?」
ぐい呑みを女の前に置いた。
「ごめんなさい。
女が申し訳ない顔をした。
「残念だなぁ」
「お父さん、ゲコって何?」
「酒、飲めない人のこと」
手酌をしながら言った。
「へぇー。じゃあ、飲める人のことは?」
「
「ジョーゴって、さっき、トックリに酒を入れる時に使った、朝顔みたいなのでしょ? 天井を向いて酒をゴクゴク飲んでるみたいだから、ジョーゴ?」
大輝が
「ぷっ」
「あっはっはっは……」
俺は、女と一緒に笑った。
「じょうごはじょうごでも、意味も違うし、漢字も違うよ。……だが、発想は悪くないな。確かに
「ホントですね。もしかしたら、漏斗の語源は上戸かも知れませんね」
「うむ……確かに」
女の言うのは当たってるかも知れないと思った。
「それよりお父さん、ナベの中にトックリを入れないでください」
「すまん。少しぬるかったから」
「ぷっ」
鍋の真ん中に飛び出た徳利を見て、女がまた吹き出した。
浴槽に湯を溜めると、新しい歯ブラシとタオルを脱衣場に置いて、客間の女に声を掛けた。
「お風呂、どうぞ」
「はい、ありがとうございます」
襖の向こうから、女の声があった。
翌朝、机に向かっていると、昨日と同じグレーのセーターを着た女が起きてきた。
「……おはようございます」
「あ、おはようございます。眠れましたか」
老眼鏡を外した。
「はい、お陰さまで」
女が笑顔を向けた。
「あ、食事できてますよ。味噌汁を温めましょう」
腰を上げた。
「あ、すいません」
台所のテーブルに味噌汁を運ぶと、皿に被せたラップを剥がした。
「作家さんですか?」
座っていた女が顔を上げた。
「えっ! どうして?」
「書斎に原稿用紙があったから」
「ええ。あまり売れてませんがね」
ご飯をよそった。
「よかったら、お名前を」
「クレナイコウです」
「えっ! あの、『おたくさを想ふ』の?」
女が目を丸くしていた。
「ええ。ご存じでしたか」
「ええ、勿論です。推理小説以外はあまり読まないんですけど、『おたくさを想ふ』は、お滝さんに対するシーボルトの深い愛が描かれていて、とても感動しました」
女は情熱的に語った。
「ありがとうございます。さあ、冷めないうちにどうぞ」
「はい。いただきます。……まさか、紅虹さんにお会いできるなんて」
女は感激していた。
「でも、お写真とイメージが……」
「あ、髪が伸びたせいです」
そう言って前髪を上げた。
「あ、確かに」
「小説はよく読まれるんですか?」
わかめの味噌汁を啜った。
「推理小説ばかりですけど」
女は苦笑いしながら、卵焼きに箸をつけた。
「どなたのファンですか?」
「松本耕助です」
女は即答すると、輝いた目を向けた。
「うむ……確かにいい小説家です。『砂の花器』は映画も観ましたが、感動しました」
「ええ。荒海をバックに、老いた父親と放浪の旅をするシーンが深く印象に残っています」
女は回想しているようだった。
「父親が、息子のことを知らない、息子じゃないと嘘をつくシーンも感動しました」
「そうでしたね。息子を犯罪者にしたくないという親心が如実に表現されていました」
女は味付け海苔をご飯に載せた。
「松本耕助の作品には、人間の心情が見事に描写されている」
ごま昆布をご飯に載せながら、女を見た。
「ええ。『記念に』という短編ですが、女心が手に取るように伝わってきて、とても好きな作品です」
卵焼きに箸をつけながら、俺を見た。
「じゃ、短編の『足袋』や『二階』も好きでしょう?」
「はい。大好きです。『二階』は妻の心理描写が巧みですし、『足袋』は、女の深い業が見事に描かれています」
「……確かに」
話を聞きながら、柔和な女の外見とは違う、何か内に秘めた激しさのようなものを感じた。
「たいき君は学校ですか?」
「えっ? ……ええ」
大輝の名前を覚えてくれていたのが、俺は嬉しかった。
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