軍隊日記

わたなべ

軍隊日記



僕が自衛隊という組織について語る時に絶対に話すのが、前期教育の集大成、戦闘訓練の話だ。

初めて小銃を貸与されてから早二ヶ月余りが経過して、戦闘訓練も何度も経験し、その日は、教導団長検閲の日だった。天気は酷く曇っていて、予報によると次第によっては雨が降るとかなんとか言っていたので、僕らの区隊は雨衣を雑嚢に入れて、片道二キロはあるであろう火山灰質の山の中をハイポートしてきた。


現着した頃には雨はぽつりぽつりと降り始めていたが、僕らの前に訓練実施した一班は、それでもそんなに降らないうちに訓練を終えていた。

間に15分の休憩を挟んで、僕らの番になった。僕らは立ち上がって、配置につこうとした。不意打ち、さっきから肩を濡らしていた雨が、鼻先を痛みを伴って叩いていく感覚。本降りだった。

誰かが短くため息をついた。ついただけで、僕らは雑嚢から急いで雨衣を取り出して着用した。

「運が悪かったな。とはいえ、雨は兵を強くする」

既に雨衣を着終えた班長の激励なのかなんなのかわからない訓示を聞きながら、僕らは配置に、つまり、山の斜面の下の方、盛られた土の麓に移動した。

僕らの戦闘目標は、山の上にある機関銃陣地の制圧だった。まずは、敵機関銃の制圧射撃を受けつつも突撃を敢行し緊迫、じ後、特科の突撃支援射撃受け、終了後そのまま陣地へ向け銃剣突撃を行う流れだった。

雨は段々とその雨足を強めていく。僕らは、地面に伏せて、片手には小銃を抱えたまま、班長の「前へ!」の号令を待っていた。


僕はぼんやりと、それでも確かに感覚が鋭敏化していくのを知覚していた。視界がクリアになっていく。雨音も。普段聞くよりクリアに聞こえた。革手に落ちては弾ける雨粒の一滴すら見える気がした。そこに、どこから来たのか、蝶が一匹飛んできて、僕の手の上に乗った。

振り払うことはなかった。それから、この蝶は、一体どのように生きてきて、この一瞬僕の手に乗り、そして、どうやって死んでいくのだろうと考えた。考えても仕方のないことだけど、ふと、僕の頭はそんな思考で支配された。

少し考えて、それからそれは僕だっておなじことだな、と思った。僕が、いままでどうやって生きてきて、どのようにこの場に蹲って、それから、どのように死ぬか。過去のことは多少わかるだろうけど、その先のことは何一つわからなかった。そんな漠然とした思考で得られる結果よりは、あるいは、僕らの眼前に拡がっている山の上の機関銃陣地の脅威の方がリアルだ。たまたま今日がたまたまニセモノだっただけで、本当だったら、僕は次の一瞬には、頭から脳みそと髄液を撒き散らしながら、或いは、腹から腸やら血液やら糞便やらを撒き散らしながら、地面にへばりつくガムよりも無価値に転がっていてもおかしくない。有り余る現実感。むしろ、そうある確率の方が、僕がこの先の人生を、上手く生き残る確率よりもよっぽど高いように思えた。

「前へ」

班長が短く号令をかける。

僕らは立ち上がって、小銃を構え銃の状態で脇に抱え、全速力で走っていく。雨が目に入った。視界がぼやけるけど、目を拭っている暇なんてなかった。死にたくなければ、走るしかない。

僕らは走って、伏せて、匍匐して、着実に機関銃陣地へ向け緊迫していく。

最後の堆土に着いた頃には、全身土まみれの汗まみれだった。小銃にも土が詰まっている。さっきやった第五匍匐のせいだ。整備が大変だ、と思った。でも、ここでもし死んだら、整備は僕の仕事じゃなくなるから、そんな心配は杞憂で終わるかもしれない。

頭上で、班長の投げたクラッカが炸裂していた。野特の突撃支援射撃のかわりだった。それを聞きつつ、僕らは腰に垂らした銃剣を引き抜く。腕が上がらないように必死に筋肉を制御しながら着剣した。班長が叫ぶ。「突撃支援射撃終了10秒前!」

9。

頭上で聞こえる炸裂音はまだ止まない。

8。

雨が目に入って鬱陶しい。

7。

他のみんなは生きてるだろうか。

6。

この戦いが終わったら、僕はどうしようか。

5。

次の週末のことを考えていた。

4。

命の重さのことを考えていた。

3。

これから刺殺するであろう、敵兵士のことを考えていた。

2。

僕の手に握られた小銃が、かつて殺したひとのことを考えていた。

1。

一瞬の静寂が、僕らを包んでいた。

「突撃!」

僕らは立ち上がる。銃剣は敵に向けていた。地雷原を抜けて、地雷原の間、セーフティ・ゾーンに指定された通路を抜け、交互に敵陣地に進入していく。僕は最後だ。先に入っていく他のみんなの背中を、僕は見ていた。本当だったら、僕の目の前で、みんなは敵の弾に当たって倒れたところを、僕はそれを踏みつけてでも前に進まなきゃいけなくなるんだろう。もしくは、殿でヘマをして、僕だけがみんなの背中を見ながら息絶えるのだろう。

本当だったら。

そんな妄想が抜けなかった。

みんなが地雷原を抜けたのを確認して、僕も敵の機関銃陣地に侵入した。迷彩服で、僕らと同じような鉄帽を被った機関銃手が目に入る。あれが目標だ。他の班の班長だった。持っていたのも、僕らと同じ89式小銃。辺りには火薬の匂いが漂っていた。僕は、自分の「目標」の前まで走り続ける。それから、何も無い空間の前で立ち止まって、手の中の武器をもう一度握り直した。

「ヤーッ」

人生で挙げたこともないような大きな声をあげて、敵の機関銃に向けて銃剣を突き刺した。何度も、何度も。空想の敵が死ぬまで。僕の命の代わりに、そいつの命が尽きるまで。そろそろ死んだだろうか。僕の代わりに、僕の分まで死んでくれ。

雨は、まだ降っていた。

「状況終了!」

ラッパが響いた。いつも、課業終わりに聞くやつだった。

天まで抜けるようなラッパの音に合わせて、雨が止んだ。



夜中の歩哨任務ほど億劫なものはなかった。

それが特に朝の五時ともなると、やる気も起きなければ、眠気にどう勝つか、或いは、どのようにやればバレずに寝てられるかを考える他、やることなんてなかった。

富士裾野の東富士演習場は、富士山からシームレスに伸びる演習場で、文字通りこのまま歩いていったらなんの障害もなく頂上までたどり着ける場所にあった。

九月とはいえ、演習場の朝はよく冷える。気温は一桁を記録していて、僕は戦闘外被を襟まで立てて、防弾ベストを枕にぼんやりと空を眺めていた。

人工の明かりが、はるか数キロ向こうまで行かないとないような場所だから、空は満天の星空で、それに、もうじき夜が明けるから、上手くすれば僕は昇ってくる朝日を眺められるだろう。こんな朝から戦闘をしかけてくるゲリラもいないだろうし、十五分ごとの定時連絡を適当にこなして、時間が経つのだけを待っていた。

空は段々と白んでくる。眼前にそびえる富士山も、少しずつその輪郭が顕になる。

そろそろだろう。

僕は後ろを振り向いた。方位磁針が指す東向き。つまり、陽の光の昇るほう。薄明の空に、眩しく光る火の玉が顔を出す。夜明けだった。朱色に染まっていく空が段々とその規模を増していく。

後ろを振り返った。富士山が、山頂から段々とその強烈な光に照らされていく。雄大だった。安直な言葉しか出ないけど、この景色は、よりシンプルに、ストレートな言葉で表した方が、むしろ正確な気さえした。

後ろから足音が近づいてくる。下番の時間だった。

「第八歩哨任務に関する件、異常なく申し送り、下番します」

短く敬礼して、僕は朝日に向かって歩き始める。

状況終了まで、あと六時間を残した朝の話だ。



夏季休暇中の待機任務が、たまたま同室の同期と重なっていたので、待機中の二日間を僕らは共にすごしていた。

夏季休暇中の食事は比較的豪勢だったように記憶しているし、PXも早く閉まるとはいえ、いつも通り営業していたから、外出できない以外、特段普段の生活と変わらない暮らしをしていた。ぼくは家から持ってきていた私物のパソコンでゲームをしていたし、同期も、寝ているか本を読んでいるか、つまり、各々が好き勝手に、退屈な二日間を過ごしていた。

その日は、待機の二日目で、前日にひどい夕立が降った日だった。近所で祭りをやっているらしく、はるか遠くのフェンス越しにみる街並みは、少しだけ浮ついているように見えた。

なんとなく帰りに寄ったPXを抜けて、生活隊舎へ向かう。玄関先まで来た時、遠くで炸裂音がした。反射で、少しだけ身構えて、ここが演習場ではないし、音がしてから伏せてもしょうがない事を思い出して、僕は隊舎に入った。

居室の窓は開いていた。窓際で、同期が窓の外を見ていた。窓の外は酷くカラフルで、僕はようやくそこで、さっきの音が花火の音だったことに思い至った。

窓際に近づく。気付いた同期が少しズレて場所を譲ってくれた。

「祭りかな」

わざわざ自明なことを聞いてやる。つまり、他愛もない雑談で、相手もそれに気づいているみたいで、少しもこちらを見ることもなく返答する。

「ここいらで一番大きい祭りらしい」

そのポスターは僕も見ていたから知っていたし、多分、僕が知っていることも、彼は知っているだろう。でも、それを無意味だ、というような無粋さはここにはなかった。ただ静かに、鮮やかに消えていく火の花を見ていた。

「最後の花火に今年もなったな」

懐かしいロックン・ロール。口をついて出たのは、若者の青さや淡さを歌った曲だった。



「スーツなんて着て珍しい」

一向にそのうざったさが抜けなかった先輩が、僕の姿を見てそう言った。

三月の終わり、二年前の今日の僕は何をしていただろうか。たしか、着隊前日で緊張していて、携帯電話でこれから入る組織の情報を片っ端から集めては、少しでも安心しようとしていた気がする。もし過去の僕になにか言えることがあるとするなら、それは杞憂で終わるってことと、もう少し色々賢く生きた方がいい、ということくらいだった。

長かったのは最初の六ヶ月だけで、その後は気付いたら終わっていた二年の任期も残りあと八時間となり──正確には、任期満了証を中隊長から頂戴した瞬間に僕の任期は終わるけど──僕は、もう二度と会うことは無いであろう面々に、最後の顔合わせをしていた。

なんだかんだ世話になったし、僕が世話したことも何度かあったけど、この組織において「メンコの数」というのはやっぱり絶対で、この背のひょろっと高い先輩のニヤついた笑顔に対しても、僕は自衛官として最後の敬意を持って応えた。

「自分の任満式出ないつもりですか?」

「まさか。後輩の門出に顔出さない先輩がいるか?」

そう言って先輩はまたニヤニヤと笑った。


「──以下二名の者は、任期満了につき除隊します」

僕の隣に立った同期が、そんなようなことを叫んでいた。中隊長室だった。

敬礼ッ、と短く同期が言うのを聞くが早いか、僕は脱帽時の敬礼をした。──直れッ。

「ごくろうさん」

中隊長は、去年の夏に変わった新しい人だった。特に関わることも、演習で直接指揮下に入ったこともないから、どんな人柄なのかは結局わからなかった。もっと長くいれば、きっとそういうところもわかってきたんだろうけど、今の僕にとって、この人は僕に任期満了証を渡すだけの人だった。

任期満了証を受け取って、隊舎側面のドアから庭に出た。夏の暑い盛り、格闘訓練をやった場所だった。そこに、部隊の皆がわらわらと屯していた。

「ほら、一言言えよ」

誰かがそう言った。

僕は、多分新しい門出に向かってがんばります、みたいな事を言った気がする。出任せだ。誰の記憶にも残らないだろう。きっと、明日には忘れているくらいのふわふわしたことだった。

「退官者見送り」

先任上級曹長がそう言った。

ラッパの音が鳴る。警衛の時に散々聞いた、「送迎」だった。

僕は、沿道に並んだみんなの顔を見た。

それから、不思議と綺麗に晴れあがった空と、庭先に大きくせり出した桜の散り際を見ていた。

万朶の桜か襟の色。

昔読んだ、古い自衛官の書いた小説をぼんやり思い出す。

彼は作中で「この先の人生は、散兵戦に違いなかった」と言ったが、それは間違いだと僕は思う。

散兵戦なら、ここに捨て置く仲間なんていないはずだ。散兵戦なら、少し離れた所に、同じ方向を向いた仲間がいる。その後方に、僕らを支援する特科がいる。僕らの為に橋をかける施設科がいる。僕らの士気を鼓舞する音楽科がいる。

でも、この先の人生に、それらはいない。

僕らがこの先歩んでいく人生は、遊撃戦だ。敵地の奥深くに浸透して、一人、孤独に、或いは敵になりすまして、とにかく生き抜かなければいけない。

彼らは、つまり、僕を見送っている仲間達は、それに気づいているんだろうか。軍隊という組織の持っている、生死を共にした環境でしか保持できないある種特殊な人間関係に、僕らは生かされている。でも、いつかはそこから抜け出さなくてはいけない。それが、任期満了なのか、定年退官なのか、或いは殉職なのかは、僕にはわからないけど。

できるなら、僕も散兵戦の華と散りたかったんだろう。

でも、僕はそうならないことを選んだ。一人、遊撃戦を戦い続けなきゃいけないことに気づけないで、僕はそれを選んでいた。

僕は、また一歩踏み出した。仲間の顔が過ぎていく。一人、また一人。僕は、この先ちゃんと、「一般人」に溶け込めるだろうか。

「万歳」

誰かが叫んだ。底なしに陽気な声だった。

釣られて僕も、万歳と叫んでいた。

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