第56話 勝孝と十郎太9

 そんな折、勝孝は気分を変えようとでも思ったのか「雪之進にも職を与えよう」と言い出した。勝孝としては、いずれ彼を勝宜の右腕にと考えての下地作りのつもりだったのだろう。

 だが勝孝の出した「雪之進は勘定方に」という辞令は、本人にとっては屈辱的であった。

 十三歳の雪之進は未だ物事を大局的に見る目が養われておらず、勘定方がなぜ勝孝の政策に必須なのかわからなかったのだろう。

 勝孝は大船屋と組んでから商いというものを学んでおり、それを政に生かす方向で考えている。勘定方の側近はどうしても欲しかったのだ。

 そこへきて雪之進である。彼は武芸に関しては心許ないものの、数字にはめっぽう強い。武芸の達者な勝宜と頭脳派の雪之進が組めば向かうところ敵なしと考えていた。

 一方の雪之進は、これでもう勝宜の側近の道は断たれたとばかりに落ち込んだ。十郎太に武芸の稽古を増やしたいと言ってきたのは、おそらく勘定方に回された理由がそこだと思ったからなのだろう。

 十郎太はその必要がないことや、勘定方に回されたのは能力を買ってのことだと説明したが、どうやら単なる慰めと捉えているようであった。

 しばらくして勝孝の屋敷で繁孝の若様のお披露目があった。これは勝孝自身が兄を呼んでのお祝いだった。

 これには繁孝とお初の方、七つになった萩姫、そして用心していたのか本間帯刀の他に教育係の橘を連れて来ていた。少年だと思っていた橘が、知らぬ間に十郎太の丈を超えていた。聞けば十九になったという。

 さすがに十九の青年と剣豪本間帯刀がついていれば、勝孝もおかしな真似はできないであろう。十郎太は内心安堵した。

 若は桔梗丸と名付けられたらしい。子供らしい良い名だと十郎太は思ったが、勝孝は幼名など不要という考え方だったせいか、どこか兄を見下しているように見えた。

 確かに勝宜には幼名が無かった。生まれたときから勝宜であった。

 だが柳澤の家は代々、草木から名を取ることが多かった。萩姫も桔梗丸もそれらの花が咲いている時期に生まれたことから名づけられている。

 そして皮肉なことに、勝宜は従兄弟の誕生をとても喜んだ。彼には雪之進という兄のような存在はあったが、血のつながった兄弟が欲しかったのだ。そのせいか萩姫を妹のように可愛がり、彼女が来るたびに綾取あやとりやお手玉といった町娘の遊びを教えてやっていた。

 今度は若である。同じ男子同士、若に剣術を教えたり、一緒に鷹狩りに出かけたりするのかもしれない。

 それ自体はとても喜ばしいことなのだが、これは雪之進に追い打ちをかけることとなってしまった。

 勝孝から勘定方のお役目を言い渡されて勝宜から引き離されたような気になったところへ、今度は血のつながった従兄弟である。雪之進は自分の存在価値がこの家に無いような気持ちになってしまったのである。

 桔梗丸の誕生を素直に祝福できない自分に嫌気がさした雪之進は、祝いの席には顔を出さずに庭で小鳥に餌をやっていた。恐らくこの時だろう、萩姫と言葉を交わしたのは。

 勝孝に「用済み」と言われた直後の萩姫が、雪之進に「なぜ泣いているのか」と声をかけたあの日だ。

 勝孝としては「柳澤の家にいる限り、女子はどれだけ有能であっても戦力とはみなされない」という意味だったのであろう。それは萩姫への厭味というよりはむしろ父や兄への当てつけであり、萩姫には同情すらしていたのかもしれない。

 実際、姫自身は「要らない子」と受け取ったが、勝孝が萩姫に言った言葉は「これで姫は用済みになられましたな」だったのだ。

 この時の十郎太はまだ若く、勝孝の言葉が姫への厭味としか受け取れなかったが、今になってみればその裏に隠された父と兄への蔑みが見えてくる。

 それから更に四年が過ぎた。桔梗丸四歳、萩姫十一歳の時だ。彼らの祖父にして現柳澤当主、柳澤孝平が亡くなったのである。

 孝平の死の床には長男繁孝とその妻お初の方、次男の勝孝、孫の萩姫と桔梗丸と勝宜、家老本間帯刀、姫と若の教育係である橘が揃った。

 案の条ではあったが、ここへきて遺言がひっくり返ることは無かった。

『柳澤の家は長男繁孝から桔梗丸へと継がせるべし』

 この能無しの父は最後の最後まで能無しだった――勝孝の顔がそう言っていた。

 長男というだけで柳澤を仕切って来た無能の父が、また長男だというだけで無能な兄を柳澤の長にする。だからこの家はいつまでも無能なのだ。こんな無能に育てられる桔梗丸の行く末も見当がつく。

 ところがなんということか、兄は家を継いで僅か半年でこの世を去った。まるで父の後を追うかのように。

 しかも繁孝は遺言を残す間もなく、呆気なく逝った。勝孝と二人で鷹狩りに出かけ、崖から転落したのである。

 勝孝が血相を変えて「兄上が崖から」と戻って来た時、十郎太は一瞬勝孝が殺したのでは、と疑ってしまった。そんな風に思ってしまう自分が嫌だった。

 勝孝は自分を責めているようだった。繁孝は家を継いでからというもの、とても苦労しているように勝孝の目には映っていた。父が兄にきちんと伝えていないことがたくさんあったらしく、それらを照合したり、継続中の事業の引継ぎがあったりと難儀しているようだった。

 勝孝はそんな兄を心配して、気分転換にと鷹狩りに誘ったのだ。勝孝から見れば兄は無能ではあったが決して嫌いではなかったのだ。

 それについては十郎太も重々承知していたはずだった。十郎太こそが勝孝を信じてやらねばならない存在だったのだ。

 しかし、その十郎太の小さな小さな疑念を、勝孝は感じ取ってしまった。十郎太にさえ信じて貰えない――この事実は勝孝を壊すのに十分過ぎた。

 兄が亡くなり、柳澤の相続の話が出たときに、孝平の遺言に否を突き付けたのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る