第55話 勝孝と十郎太8
それから三年後、勝宜が六つになる頃だ。用事で出かけた十郎太が町から戻り、屋敷に入ろうとしたところで一人の子供に声をかけられた。
聞けばその子は母を早くに亡くし、父に育てられたという。その父も工事で発生した事故で命を落とし、ついに孤児になってしまったらしい。
父が携わった工事が
十郎太は、母を早くに亡くしたというその子を勝宜に重ねた。凛とした姿と透明感のある眼差しに心惹かれ、勝孝に相談することなく奉公を許可した。
今日から歩む新たな人生のために新しい名をつけて欲しいと少年は言った。十郎太は、不意にあの雪の日を思い出した。勝孝の姫を抱いて、雪の中をさまよい歩いたあの日のことを。
ふと『雪之進』という名はどうかと口を突いて出た。彼を呼ぶ度に思い出すであろうあの日のこと。
十郎太にとっては忌まわしい記憶であり、また、決して忘れてはならない
だが、少年は飛び上がって喜んだ。「美しい名だ」と。彼もまた十郎太と同じく、強さよりも優しさを重視する人間だったのだ。
十郎太が雪之進を紹介すると、勝孝は十郎太の勝手な行動を
子供のうちなら吸収も早い。いずれこの家で存分に働いて貰い、重職に就けることも視野に入れているような発言だった。
十郎太は、それが勝孝の父や兄に対する当てつけであることを十分に承知していた。身分や出生に関係なく能力のある者を取り立てていく、そういう方向性を勝孝は前面に押し出していた。
結果、身寄りのない
期待されていることを肌で感じていた雪之進は、次第に自分の目指す未来を描き始めた。こうして勝宜の相手をしているだけでなく、十郎太が勝孝の参謀であるように、自分もまた勝宜の腹心として働きたいと思うようになったのである。
それを聞いた十郎太は喜んだものだ。お前は俺のようにはなってくれるな、勝宜さまと二人でこの家を盛り立ててくれ、と。
雪之進は十郎太の発した「俺のようになってくれるな」という言葉に疑問を持ったような顔を見せたが、何も言わなかった。雪之進の賢さは、この頃から抜きんでていた。
雪之進は年上の家臣たちからは可愛がられ、三つ年下の勝宜からは兄のように慕われた。成長するにつれ見目麗しくなっていく彼は、町の娘たちの噂の的にもなった。
だがそんな中でも彼自身は
十二歳になる頃には、武芸は勝宜には及ばないものの、勉学に関してはもう教えることがないところまで来ていた。そんな雪之進を勝宜は敬い、雪之進は武芸の達者な勝宜を称えた。
まるで兄弟のような二人は、傍で見ていても昔の勝孝と十郎太を見ているようだった。
それだけに十郎太は二人の仲を危惧した。あれほど仲の良かった勝孝と十郎太も、今では頼り甲斐のある主人と忠実な家臣の仮面を被って装っている。
勝孝が十郎太を「赤子一人葬れない能無し」と思っているように、十郎太もまた勝孝を「野心のために自分の娘や姪を平気で殺す鬼畜」と感じているのだ。それでも
ちょうどその頃だった、お初が二人目を懐妊したのである。もしも今度が若ならば、勝孝は何が何でも始末をつけるだろう。十郎太はその命が下るのを恐怖した。萩姫の時は間髪入れずに断った。それを六年経った今、勝孝は覚えているだろうか。
だが今回の勝孝は十郎太には何も言ってこなかった。諦めたとは思えない。勝孝は今年で二十九、一番脂の乗っている時期だ。
不気味だった。もう以前の勝孝ではない、とっくに畜生道に堕ちている。嫌な予感しかしなかった。
予感は当たった。その役回りが雪之進に回ったというのだ。
十郎太が勝孝の姫を雪の中において来た時、彼自身は十八だった。それでもあれだけ
だが、雪之進は十郎太とは違った。きっぱりと断ったというのだ。それを十郎太に報告に来たらしい。
「勝孝さまが私に、繁孝さまの二人目の御子を殺すことができるかと問われました。私は無理ですと答えました。なぜかと聞かれたので、殺す道理がございませんと答えました。勝孝さまは、お前に殺せないのなら殺し屋を雇っても良いと仰せになりましたが、私は殺し屋を雇う道理もございませんと答えました。間違っていたでしょうか」
十郎太は目からうろこが落ちる思いでそれを聞いていた。自分もあの時、そう答えれば良かったのだ。勝孝も自分ではなく雪之進が右腕であったなら、道を誤らなかったかもしれない……十郎太は自分の不甲斐なさを悔いた。
「雪之進。お前はお前の思う通りに動けば良い。自信を持て。お前は賢い」
勝孝がこれで雪之進に失望したとは思えなかった。はっきりと自分の考えを主張する、勝孝の望む姿がそこにあったからだ。
恐らく勝孝は自分で殺し屋を雇うだろう。だが繁孝のところには本間帯刀がいる。それに、萩姫についている教育係の少年――橘と言ったか――彼も武芸はまるで出来ないようだが、それでも賊が押し入ったとなれば身を挺して萩姫とお初の方を守るくらいのことはするだろう。
十郎太が心配した通り、繁孝の二人目の子は男子だった。本来なら跡取りができたと喜ぶべきところだろうが、勝孝の屋敷ではそれが歓迎されるはずもなかった。
勝孝は面白くなさそうな顔をしていたし、十郎太も繁孝の若君のことを考えると気が気ではなかった。
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