第49話 勝孝と十郎太2
十郎太自身もこの仕事は楽しいものだった。一山超えて大船屋へ行くのは、肉体的には大変ではあったが、心理的には極めて心躍る仕事だった。
大船屋には十郎太と年の近い三人の子があった。長男の浪太郎は勝孝の一つ上で十六歳、長女のお初は十郎太と同い年の十四歳、次女のお末は一つ下の十三歳だった。
大船屋の主人は漆谷よりも下流は自分で開拓したのだからと、上流の木槿山は息子の浪太郎にすべて任せることにした。
そのため、いつも十六の浪太郎、十五の勝孝、十四の十郎太と年の近い者が集まっての話し合いとなり、たまに浪太郎の補佐にお初が入ることがあったりもした。
末っ子のお末はよくお茶を運んできたり、話が長引いた時に握り飯を作ってくれたりした。
頭の回転が速くてきぱきと物事をこなしていく姉のお初に比べ、妹のお末はおっとりしていたが細かいことに良く気付く娘だった。
思春期だったことも理由の一つにあるだろう、十郎太が同じ年頃の娘に恋心を抱くのに、そう時間を必要としなかった。何度も木槿山と漆谷を往復するうちにその気持ちはどんどん大きくなり、お末に会いに行く口実の為に柳澤の仕事を作るくらいになっていた。
そんな彼の気持ちに気づかないわけもなく、お末の方も礼儀正しく頭の良い十郎太に心を奪われて行った。
いつだったか打ち合わせを兼ねて大船屋の三兄妹を柳澤の城に招待したことがある。
勝孝と十郎太は相変わらず浪太郎と共に川沿いまで出かけてああでもないこうでもないとやっていたが、その間、お初とお末は兄の繁孝が接待を引き受けていた。
繁孝は城の庭を案内し、自分が世話をしている鶏を見せたり、馬に乗せたり、畑に連れて行ったりした。
これには姉のお初が食い付かんばかりに興味を示した。若様自ら
その日は三人とも城に泊まって行ったが、夜遅くまでお喋りは続いた。
勝孝はひたすら浪太郎に柳澤の展望を語り、彼の協力が不可欠であることを説いた。浪太郎も大船屋が木槿山の運輸の鍵を握るとあって、大いに二人で盛り上がった。
一方お初はまだ繁孝と話足りないとばかりに彼を呼び、彼の考えたという事業案を話させた。そして体の不自由な人のための働き口の紹介のことを聞き、いたく感動した。
この男は自分で畑を耕し、鶏を育て、馬の世話をし、働きたくても働けない人のことを考える。これこそ民の上に立つ人だ――お初は心底繁孝を尊敬し、またこの男に自分の考えを述べるのが楽しかった。繁孝はお初の考えを真剣に聞き、真面目に議論する中で、彼女と所帯を持ちたいと思うようになった。
そしてお末である。十郎太と少しずつ距離を縮め愛を育んでいた二人は、この日将来を誓い合った。
すべてが順調だった。
それからしばらくして、唐突に勝孝がお末を嫁に欲しいと言い出した。十郎太には寝耳に水だった。
なぜお末をと聞くのもおかしな話だが、十郎太としては聞かずにはおれなかった。その問いに対する答えは驚くほど明快だった。政略結婚という言葉が飛び出したのだ。
つまり、大船屋が勝孝に対して裏切ることができないように、妹を人質に取る意味で嫁にもらうというのだ。
それなら姉のお初の方が良いのではないかと十郎太は提案したが、それはあっさり却下された。お初は自分というものをしっかりと持ちすぎている。自分の考えを持つのは良いことだが、それを前面に出してくるのがやりにくいということだった。
確かに勝孝と浪太郎だけでは良い案が浮かばない時などは十郎太とお初が呼ばれることがあったが、大抵思いがけない方向から切り込んでくるのはお初だった。そのお陰で話が一気に進むこともあれば逆に
彼女は諸刃の剣なのだ。その為勝孝には少々扱いにくいと感じていたらしい。
その点、お末は大人しく従順だ。仕事をするならお初は良い仲間になりそうだが、嫁にするならお末の方が良い、そう判断したらしい。
それを漆谷まで伝えに行くのは、他でもない十郎太の仕事だった。
「お末を勝孝の嫁に迎えたい」――たったこれだけのことを伝えるのが、こんなにも大変だとは思わなかった。
なぜ自分とお末のことを勝孝にその場で伝えなかったのか。すぐに伝えていれば勝孝も考え直したかもしれない。だがその話を聞いた時は驚きのあまり反応できずにいたのだ。こうしてそれをお末に伝えに行く頃になってから思いついても、もう遅いのだ。
大船屋に着くといつものようにお末が迎えてくれた。その笑顔が十郎太には
今日は浪太郎ではなく主人に用だと言って勝孝からの手紙を渡すと、主人はその場で読んだ。浪太郎もお初もお末もいるその場で、主人は手紙を畳むと一言、「勝孝さまがお末を嫁に欲しいそうだ」と告げた。
それはありがたいと喜ぶ兄の側で、呆然と固まるお末がいた。彼女の気持ちを知っている姉のお初も、驚いた様子で妹を心配そうに見やった。
主人も浪太郎も断るという選択肢を持っていなかった。あの柳澤と血縁になるのだ、大船屋の安泰は約束されたも同じだった。
すぐに軽い
だがその反面、彼女と話をする必要があると感じた。
宴の準備をしている間、大船屋の庭へとお末を連れ出した。黙ったままの十郎太に、お末は笑顔を作って見せた。
「十郎太さま、
泣いていた。十郎太が裏切ったのと同じだった。
「断っても良いのです」
自分がお末を嫁にするということは、お末が勝孝を断って自分を選ぶということだ。そうなった時、自分はどの面下げて勝孝に仕えることができようか。
かと言って勝孝のもとを去り、お末と一緒になったところで、お末を食わせてやることはできない。今の生活は勝孝がいて初めて成立しているのだ。
彼女がこの縁談を断れるわけがないのだ。
わかっていて言ってしまったのだ。断って欲しくて。
十郎太は卑怯な自分を
最初で失敗してしまったのだ。勝孝がお末を嫁にと言い出す前に話を進めておかなかったから。そして勝孝が言い出したときすぐに、お末との仲を伝えていれば違う結果になっていたかもしれないのに。
こんな情けない男より、勝孝の方がお末を幸せにしてくれるかもしれない――十郎太がそう思った時だった、お末が笑顔を作ったのだ。
「わたしが勝孝さまのもとへ嫁げば、十郎太さまに毎日お会いできます。わたしは毎日十郎太さまのお顔が見られるだけで幸せでございます」
お末の健気な態度に、十郎太は胸が締め付けられた。
彼女にかけられる言葉など一つも残っていなかった。ただ自分の無力を詫びるほか、十郎太にできることなど無かった。
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