第38話 家臣3
翌朝、十郎太は橘に一筆
弓の得意な雪之進に矢文を撃たせても良かった。だがもう一度橘を見ておきたかった。どうせすぐに橘は勝孝の屋敷へ来る。その前に橘が普通に暮らしている様子を見たかったのだ。
あの時、雇った殺し屋をあっという間に片づけた橘は、橘など知らぬと言った。自分は月守だとも名乗った。
もしもあれが本当に橘とは別人の月守という男だったのなら、この文はまるで見当違いの人間に差し出されることになる。
そしてそれが明るみに出た際には、橘はとうに居なくなったものとして姫はそのまま亡き者にされるだろう。
十郎太は真実を知る必要があると感じていたのだ。
ここに来るのは三度目か。いや、十数年前を入れれば四度目になろう。橘がちょうど外に出てくれば良いが。
そう思った瞬間だった。何かが肩に触れた。咄嗟に身を引くと、そこには大きな影が立っていた。
「今日は随分早いな、十郎太殿」
「そなた、やはり橘」
「私は月守だ。本間殿が十郎太殿ではないかと仰せだったのでな。どうやら当たりだったようだ」
――本間? 家老の本間帯刀か。
「して今日は何用だ」
そう言いながら十郎太に背を向け、川の方へと歩いて行く。ついて来いということか。十郎太をまるで警戒していない。それ以前に、全く気配をさせずに背後に立っていたではないか。
――この俺では相手にならんということか。確かにそう言っていたはずだ。
「大方、勝孝殿の命を受けて来られたのであろう。姫の命と引き換えに橘をと」
「わかっているのなら話は早い」
「残念だが私は橘ではない。月守だ」
「しかし、それでは萩姫の命は」
「他人のことなど私の知ったことではない」
「貴様、それで良いと申すか!」
橘、いや月守が立ち止まった。
「なぜ、『他人の』十郎太殿がそこまで言うのだ」
「何?」
「そなたは勝孝殿の家臣ではないのか。勝孝殿にとって萩姫殿は邪魔なのであろう。現にそなたは二度も萩姫殿の命を狙いに来ている。だが今の言い方は、まるで萩姫殿を助けるために来いと言っているようにしか聞こえない」
月守がゆっくりと振り返る。
「そなたはなぜあの日、わざと二人を逃がした? なぜ与平にとどめを刺さなかった?」
「貴様、何を言っているのだ」
「なぜ殺し屋を雇っておきながら、殺し屋の失敗を喜んでいた?」
俺が、失敗を喜んでいただと?
「なぜ勝孝殿に仕えている?」
無意識に刀を抜いていた。自分でも気づかなかった。
だが、目の前の男は顔色一つ変えなかった。
「何をそんなに怯えているのだ。私が行かねばそなたの首が飛ぶのか。それとも姫を手にかけねばならぬことが恐ろしいのか」
刀を構える手が震えている。俺はいったい何に怯えているのだ。
「やめておけ。そなたは私の敵ではない」
「貴様……何者だ」
「月守だと言ったはずだ。一つ付け加えるならば、私はふた月前にここで拾われる以前の記憶を持ち合わせていない。そなたの言う橘という者かもしれぬ」
やはり橘だったか。ようやく
「だが、そなたのお陰で今、一つだけ過去を思い出した」
「なんだ。城を思い出したか」
「いや――」
月守は十郎太の構える刀の刃を、静かに二本の指で挟んだ。
「私は殺し屋だった」
「十郎太さま、どうなさったのです。何があったのです?」
屋敷に戻ってからの記憶が無い。いや、屋敷にどうやって戻ったのかもわからない。
「雪之進。もしもあれが橘でなかったら何とする」
「橘さまではなかったのですか?」
「わからぬ」
そう、わからないのだ。恐らく月守本人もわからないのだろう。そしてあの男は、わからないことを受け入れていた。
「あの男は以前の記憶を持ち合わせていなかった。川に流されたときに記憶を失ったらしい」
「では橘さまかもしれないのですね」
「そうかもしれないと自分で言っていた。だが俺と話していて一つ思い出したとも言っていた」
「思い出した? 何をです」
「それが……」
これのせいで十郎太もわけがわからなくなっているのだ。これを雪之進はどう見るか。
「殺し屋をやっていたそうだ」
「殺し屋?」
思わず高くなってしまった自分の声に驚いたのか、雪之進は慌てて自分の口元を両手で押さえた。
「月守が殺し屋だというのは納得できる。奴の動きは殺し屋のそれだ。だが、橘は決してそうではなかった」
「では、まさか他人の空似?」
「双子の兄弟も考えられるが」
「それならば……」
雪之進が少し安心したように、背筋を起こして寄せた顔を離した。
「問題ないではありませぬか。その月守とやらが橘さまでないのなら、まるで無関係な人間ということ。わざわざ呼び出すことも――あっ!」
――そうだ、俺が懸念しているのはそこだ。
「月守という男が橘さまでないのであれば、彼にかまわず姫を始末せよということになってしまうのですね」
十郎太は黙って頷いた。
「それならいっそこのままにしておけばわずかながら時間が稼げます。何としても姫様をお守りしたい」
ふと、以前から気になっていたことが再び頭を持ち上げてきた。
「お前は萩姫様に随分と肩入れするようだが、何かあるのか?」
「あ、そ、それは」
急に雪之進が恥ずかし気にモゴモゴと言い訳しながら俯いた。
「どうした。齢十二の姫に恋でもなかろう」
「そんな滅相もない!」
雪之進は慌てて否定すると、笑わないでくれと前置きしてから話し始めた。それはあまりにも微笑ましく、純粋な雪之進らしい少年の日の思い出だった。
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