第16話 町3

「与平殿、草履を直して参った」

「おっ、ありがとよ!」

 お八重は月守の方へと体の向きを変えると、きちんと指を揃えて「松原屋の八重と申します」と頭を下げた。

「月守と申す。狐杜殿の家で厄介になっている」

 きりりと整った眉の下には氷の冷たさを湛えた瞳、一文字に引き結んだ口元。長い髪は江戸御納戸えどおなんどの組紐で一つに結わえ、軽く着崩してはいるものの身にまとった藍天鵞絨は上質な絹で出来ている。凛とした佇まいは上弦の静けさと仄暗さを思わせる。

 お八重はしばらく呼吸をするのも忘れていた。

「鼻緒が切れたのではなく、前坪まえつぼが外れただけだったのですぐに直った。また調子が悪いようならいつでも見よう」

 それだけ言って、とっとと出て行こうとする月守をお八重が慌てて引き留めた。

「あの! あなた様が月守草履の月守さまなのですか?」

 静かに振り返った月守が「いかにも」と答えると、お八重は大輪の牡丹が花開くような笑顔を見せた。

「とても良い草履です。今一番の売れ筋で、お店を有名にしていただきました。これからもどうぞ御贔屓ごひいきに」

 月守は静かに頭を下げて出て行った。

 狐杜と与平には月守の通常運転だということはわかっているが、お八重にはかなり衝撃的だったらしい。しばらくぼんやりと戸口を眺めていたが、ふと我に返った。

「わたしには雪之進さまという心に決めた人がいるのに」

「は? どうした? お八重、大丈夫か?」

「月守さまに一目惚れしてしまったの」

 彼女の頬は紅が差したように輝いていた。

 お八重が帰ってからの狐杜は、少々複雑な気分だった。

 確かに月守はかなりの美男子だ。お八重が一目惚れしてしまうのもよくわかる。

 しかし、お八重には本人が納得していないとは言え、漣太郎という許嫁いいなずけがいる。本来なら漣太郎の良さをお八重にわからせ、この縁談を滞りなく進めるのが一番いいに決まっているのだ。

 それに狐杜としてはお八重に月守を取られるような気がしてなんだか癪に触ったのだ。むしろこっちが本音のような気さえする。

 お八重と狐杜は同じ十六歳。なのに十二歳にしか見られない自分では、お八重と同じ土俵にすら立てない。そもそも大店のお嬢さんと貧乏人の孤児じゃ、端から相手にならない。

 やはりお八重は漣太郎と素直に祝言を挙げるのが一番良いのだ。

 だいたい、お八重は先程初めて月守に会ったばかり。言葉だってほとんど交わしていない。月守に至っては自己紹介と修理の話しかしていないではないか。

 とそこまで考えて、狐杜は自分の底の浅さに気付く。

 ――あたしってなんて嫌な人間なんだろう。お八重さんはあたしのことを友達って言ってくれたのに。

 はぁ、と大きなため息をついて風呂敷包みを開く。お八重の着物になる予定の反物が二つ、新橋と翡翠の光を放っている。

 この反物がますます自分とお八重の身分の違いを突き付けてくる。同じ着物でも、お八重は『着る人』で狐杜は『仕立てる人』だ。翡翠が似合うのはお八重で、狐杜が着るのは藤鼠ふじねずの粗末な着物と前掛けだけ。お八重の髪には煌びやかな蒔絵まきえくしかんざしで、狐杜には頬被ほっかむりだ。

 はぁ。狐杜は再び大きなため息をついた。

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