第15話 町2

「で、お嬢さん、何があったんですか?」

 お袖の出してくれた文字通りの粗茶で喉を潤したお八重に、与平が恐る恐る聞いた。

「お父つぁんがわたしに縁談を持って来たの。廻船問屋の大船屋さんが、わたしをぜひ嫁にって言ってるらしいのよ」

「はあ……いいんじゃないですか?」

 大店のお嬢さんと廻船問屋の若旦那、何が問題なのか与平にも狐杜にもお袖にもわからない。

「冗談じゃないわ、大船屋さんの若旦那って、なんでもかんでも父親の言いなり。自分でモノ考えたことなんかないような木偶の坊よ。そんな人にわたしが嫁ぐとでも思ってるのかしら。お父つぁんもお父つぁんだわ、人をバカにして」

「いや、大店のお嬢さんとかお城のお姫様とかって、そういうもんじゃないんですか?」

 与平がのほほんと言うと、お八重がキッと睨みつけた。

「与平! わたしをお嬢さんって呼ぶのやめてちょうだい。好きで大店の娘に生まれたわけじゃないわ。わたしは与平や狐杜みたいな暮らしがしたかったのよ。いい? 今からわたしはお嬢さんじゃなくて八重だから。そう呼ぶのよ」

 なんのかんの言っても命令口調なのは、やはりお嬢様の暮らしが身についているからではなかろうかと思っても、やはり与平は余計なことは言わない。お八重にぶっ飛ばされるのは御免被りたい。

「大船屋さんの若旦那って漣太郎れんたろうさまだっけ、物腰の柔らかい人だって聞いてたけど、なんでも言いなりならそうなるわなぁ」

 お八重は欠けた湯吞――これでも与平の家では一番マシなものだ――を両手に持ったまま、きちんと揃えた膝の上に下ろした。牡丹色の着物の真ん中で、安っぽい刈安かりやす色の茶が小さく波を立てた。

「わたしには雪之進ゆきのしんさまという心に決めたお方がいるのよ。それなのに祝言しゅうげん挙げてしまったら、もう諦めるしかないじゃない。わたしは好きな人と祝言を挙げたいの」

「あーわかります! それはわかります。あたしも貧乏でもいいから好きな人と祝言挙げたいもん」

 狐杜が身を乗り出してお八重に加勢するのを見て、与平はちょっと目が泳ぐ。

 ――貧乏でもいいから好きな人って、おいらのことか? おいらだよな? 間違っても月守じゃねえだろうな?

 そんな様子の我が息子を見て、お袖が部屋の隅で笑いをこらえている。若い人の悩みは若い人同士でと彼女は知らぬ存ぜぬを通しているが、狭い部屋なので話はまるまる全部聞いている。

「そうよね。狐杜はまだわかんないかもしれないけど、わたしくらいの歳になればもっと切実になるわ」

「あたしも十六なんですけど!」

「え、そうなの? ごめんなさいね、てっきり十二くらいかと」

 狐杜はちょっとムッとしたものの、お八重のさっぱりとした態度になんだか自分が小さい人間に思えて来た。

「良かったわ。わたし同い年の友達がいなかったの。今日から狐杜がいるわ!」

「友達?」

「ええ、そうよ。わたしたちもう友達でしょう?」

 ――松原屋さんのお嬢さんと友達!

 狐杜にとっては別の世界の人だったお八重が、一気に生活の一部になったような気がした。

 上流階級の人と自分との間に壁を作っていたのは他ならぬ狐杜だったのだ。それに気づかせてくれた彼女はなんと素敵な人だろう。狐杜はお八重のことが一撃で好きになってしまった。そういう魅力を彼女は持っていた。

「雪之進さまとは将来を誓い合ったの?」

「ううん、わたしが勝手に片想いしているだけなの。漣太郎さんは好みじゃないわ」

「せめて一度くらい会ってちゃんとお話してみたら?」

 狐杜のような貧乏人には上流階級の付き合いがわかるわけもなく、自分の言ったことが的外れなのかどうかすらわからない。

「そうなんだけどね。お父つぁんが同席しているところで漣太郎さんと会っても、彼の本当の姿なんか見れやしないでしょ? わたしだっておしとやかにしていないと叱られるし。でもわたし、全然そんな人間じゃないから、本当のわたしを好きになってくれる人と一緒になりたいのよ。狐杜だってそうでしょ、取り繕ったような自分を好きになってくれる人よりは、ありのままの自分を好いてくれる人と一緒になりたいと思わない?」

 ご尤もだ。さてどうしたらお八重のお父つぁんのいないところで漣太郎さんと二人で会えるのだろうか……と、狐杜がますます的外れなことを考え始めたところで、与平の家の入口に五尺八寸の長身が現れた。

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