鎖帷子と黒スーツ

葉島航

第1話 鎖帷子

 男は孫の見舞いから帰って来た。

 家の中は、電話を受けて飛び出したときのままである。

 ちょうど、裏の畑でとれた菜っ葉を湯がいているところだった。とっくに冷めた湯の中で、葉がぷかぷかと浮かんでいる。

 病院で見た孫はひどい有様だった。意識はまだ戻らず、頭を包帯でぐるぐる巻きにされている。まぶたや頬に無惨な青痣が見えた。孫はまだ中学生だ。幼さの残る顔に、その傷は不釣り合いに見えた。

 自分の頑固な性格が災いして、娘とはしばらく疎遠になっていた。病院で久々に顔を合わせたのだが、憔悴した様子だった。しばらく見ぬ間に、彼女は亡くした妻そっくりになっていた。

 娘によると、孫はチンピラに因縁を付けられ、大けがを負わされたのだと言う。なんでも、そのチンピラは孫の同級生の女子生徒に執心だそうで、毎日のように校門でその子を待ち構えていたらしい。

 そのチンピラの父親は大物政治家である。これまで何度も問題を起こしながら、父親の力でそれらをもみ消してきたのだ。

 学校側は見守りを強化し、時には教師がその女子生徒の登下校に付き添った。保護者も、事情が許す限り、彼女を送迎した。しかし、今日はそれがうまくいかなかったらしい

 付き添いなく校門を出ようとした女子生徒は、当然チンピラに声を掛けられた。彼女が困り果てているのを見かね、孫が間に入ったわけである。

 孫の意識はまだ戻っていない。

 男は足早に納屋へと向かう。扉が軋みを立てて開く。トラクターや手押し車が雑然と置かれている。

 手探りで照明を点け、男は壁に掛かっている輪を手に取った。

 ワイヤーの束だ。

 輪をほどいて、引き伸ばしてみる。それはキリキリ、と音を立てた。

 孫は祖父思いだった。少なくとも、男にはそう思えた。

自分の母親と祖父の折り合いが悪いにも関わらず、孫は時折男の家へ足を運んだ。何か用があるわけでもない。居間に寝転んでくつろぎながら、とりとめのない話をするのが常だった。

 男は、最後に孫と話したときのことを思い出す。


「じいちゃんってさ」

 寝転んで漫画本を開いていた孫が言う。

「なんだ」

「ずっと農業やってんの? それとも、昔は別の仕事してたの?」

 しばし男は黙った。

 彼は自分の本当の職業を、妻にも娘にも話したことはない。すでに引退した身ではあるが、孫にも同じように、嘘を伝える必要があった。

「昔は、これでも企業勤めだったんだ。子供服の営業をずっとやって来た。農業を始めたのは、そっちを退職してからだ」

「ふうん」

 それほど興味がない様子で、孫は読書に戻った。しかし数十秒後、

「それってさ、すごいよね」

「何がだ」

「何十年も営業をやってたこともだし、退職後に新しいことを始めちゃうことも」

 男の口元が思わず緩んだ。同時に、本当のことを言えないもどかしさを感じる。

 彼はずっと、とある機関で諜報員をしていた。多くの死線をくぐり、多くの人間を抹殺した。

「今度さ、学校の課題で仕事についての調べ学習があるの。身近な人にインタビューしろって。じいちゃん、インタビュー受けてくれない?」

「そういうことか。急に褒めるから、絶対何か魂胆があると思った」

 孫が声を出して笑った。

「違うって」

「冗談だ。でも俺には大した話もないから、別の誰かに頼んだらどうだ?」

「えー」

 男の頑固な性格を知っている孫は、残念そうにした。それ以上粘っても、男は絶対に首を縦に振らないだろうから。

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