第3話 予想外の襲撃
お盆が明けて数日後、
寺島さんはいつ来られようが、必ず
今日は豚肉と切り干し大根のごま和えだ。お塩と日本酒で下味を付け、ごま油で炒めた豚肉と、戻して湯通しした切り干し大根を、煮切ったみりんとお醤油とお砂糖、昆布茶とたっぷりの白すりごまで作った和え衣で和えるのだ。中鉢にこんもりと盛って、彩りに生のかいわれ大根を添える。
見た目は地味だが、全体をまとめる白ごまの芳しさが香る一品である。炒めてある豚肉からも香ばしさが生まれ、しゃきしゃきの切り干し大根を噛み締めれば、干すことで
添えてあるかいわれ大根を一緒に
寺島さんは他に
青菜炒めはその日によって使う野菜が変わるので、日替わりおしながきのひとつだ。今日は
米油で炒め、日本酒とみりんで味付けをし、お醤油で風味を付けて、仕上げにごま油。
シンプルだからこそ空芯菜の
太刀魚の煮付けはご注文を受けてから煮付ける。太刀魚は
身離れの良い白身はふわふわに仕上がっている。淡白な身が優しくも甘辛い煮汁を
だし巻き卵は卵から漏れ出んばかりのお出汁を含んでぷるぷるだ。卵の優しい黄色はその見た目を裏切らない。口の中で卵の甘みが広がり、お出汁がじゅわっと滲み出るのだ。
寺島さんはほぼ毎日「はなむら」で夕飯を摂られる
「今日も
ふにゃりと
「野菜がかわええんか。そりゃおもろい感覚やのう」
「毎日大事に育ててるからやと思うんですよ。どうです? 家庭菜園とか」
「そりゃ大変そうやのう」
専門的な話では無く、世間話の
「茉莉奈ちゃん、生ビールお代わり頼むわ」
寺島さんが空になったジョッキをひょいと
その時、引き戸ががらっと勢い良く開かれた。普段来店されるお客とは違う気配を感じ、茉莉奈はビールサーバーの前で思わず棒立ちになってしまった。
引き戸を見ると、そこに立っていたのは中年の女性だった。ふっくらとした体格で、体型の目立ちにくいベージュのワンピースを着ている。その表情には怒りが浮かんでいる様に見えた。
「いらっしゃいませ」
しかし、こんな時こそ平常を保たなくてはならない。茉莉奈は戸惑いを押し殺し、笑顔でお出迎えの声を上げた。
ここは住宅街の入り口付近でもある。もしかしたらうるさくしてしまったのだろうか。防音は施してあるし、そう騒ぐお客さまもおられないのだが、どう感じるかは人それぞれだ。もしかしたら苦情でも言われてしまうのだろうかと、茉莉奈はつい身構えてしまう。
すると女性はずかずかと中に入って来て、寺島さんの背後に立った。そしてその首根っこを
「え、なんや?」
寺島さんが驚いて振り返る。そして女性を見てさらに
「母ちゃん!?」
これには茉莉奈も
「え、この人寺島くんのお母ちゃんかいな」
「そうです。え、何してんの母ちゃん」
寺島さんが
その声は店中に響き渡り、店内が水を打った様に静かになる。寺島さんとお母さまはお客さまの注目を浴びることになった。
「言うたやろ! 見合い写真ちゃんと見とけって!」
「俺まだ結婚する気あれへんし」
「何言うてんの! 農家に嫁に来てくれるて言う貴重なお嬢さんやねんで! ここで捕まえとかな跡取りもできひんやろうが!」
しかしお隣の高牧さんは平然としていた。これも人生経験の差なのだろうか。
「なんや、寺島くん見合いするんかいな」
「しませんよ。まだ早いでしょ」
「早いことあらへん!」
お母さまは寺島さんの言葉を
「それやったとしても、こんなとこまで押しかけて来ること無いやろ。店に迷惑やんか」
「家やとあんた私の話まともに聞けへんや無いか。ここやったら逃げられへんやろ。なんや、あんたこないだ出かけてた時に、ここの親子と会うとったやろ」
「偶然会うたんや。あん時は連れと飲みに行く言うてたや無いか。つか母ちゃん、なんで知ってんねん」
「怪しい思ってあと付けたんや」
「
「うちの農園がこの先続くかどうか大事な問題や。
ご祖父の話を出されたからか、寺島さんは「ぐ」と口を
「祖父ちゃんには悪いと思うけど、別に一生結婚せえへんて言うてるわけや無い。跡かて継ぐんやし」
「あんたにまるで女っ気が無いから言うてるんや無いか。それともあれか、ここの娘さんと付き合うたりしてんのか? それとも母親の方か? それはさすがに年齢差があるやろ。もう出産も難しいやろうし」
寺島さんはその言葉で目一杯顔をしかめる。そんな表情の寺島さんを見るのは初めてで、茉莉奈はこれにも驚いた。寺島さんはいつでも軽口を叩きながら笑顔でおられるからだ。
「おい母ちゃん、それはいくらなんでも失礼やろ!
寺島さんが声を荒げる。ふたりは
茉莉奈は香澄と、もちろん
親子だからこそ遠慮の無い言い合いができるのだろうが、大丈夫なのだろうかと気が気では無くなってしまう。
茉莉奈がはらはらしていると、高牧さんが、そして香澄がのんびりした調子でふたりを取りなす。
「まぁまぁ、寺島くんもお母さんも落ち着いて」
「そうですよ。お母さま、お水はいかがですか? それともお茶になさいます? 今でしたら冷たいほうじ茶がよろしいかしら? とりあえずお座りになってくださいな」
それでおふたりは毒気が抜かれた様になる。寺島さんは香澄に深々と頭を下げた。
「女将さん、騒がしくしてしもうて、それに失礼なことまで、ほんまにすいません」
「いいえぇ」
香澄はおおらかに応える。
「気にしてへんよ。茉莉奈、お母さまにほうじ茶入れたげて。冷たい方ね。あ、寺島さんには生ビールのお代わりね」
「あ、うん」
茉莉奈は慌てて冷蔵庫を開ける。「はなむら」では上がりにほうじ茶を用意している。冷たいものと熱いもの両方だ。夏でも熱いほうじ茶を、冬でも冷たいほうじ茶を欲しがるお客さまがおられるからだ。
茉莉奈はタンブラーに氷を入れ、作り置きしているポットからほうじ茶を注いだ。続けてジョッキを出して生ビールを作る。
お母さまは渋い顔をしつつも、空いていた寺島さんの隣に腰掛けた。茉莉奈が「どうぞ」とほうじ茶を持って行くと、ぎろりと睨まれ、茉莉奈はまた肩をすくめてしまう。
「茉莉奈ちゃんも悪かったなぁ。母ちゃん、なんや変な誤解してんねん」
「いえ。大丈夫ですよ」
茉莉奈がどうにか笑顔を浮かべると、寺島さんは「ほんまにすまん」と頭を下げた。茉莉奈が差し出した生ビールを受け取り、「ありがとう」と礼を言う。
「誤解や無いやろ。あんた、この娘さんの手料理食べるために、夜遅うにここに来とるんやないか」
「その時間やったら、茉莉奈ちゃんがうちの野菜で
「今日もうちでご飯食べんと、わざわざここに来て」
「俺かて息抜きしたいがな。それにそんなしょっちゅうや無いやんか」
「まぁ、あんたがここの娘さんと一緒になって跡継ぎ産んでくれるんやったら、それでもええけどな」
「母ちゃん! せやから違うんやて」
どうやらこのお母さま、人の話を聞かない人の様だ。思い込みも激しいのだろうか。茉莉奈が困っていると、香澄が「あらあらぁ」と呑気な声を上げた。
「茉莉奈も私も、寺島さんとお付き合いだなんて、そんな大それたことしていませんよぉ。寺島さんにはもっとええお嬢さんがおられますよ。ねぇ、茉莉奈」
茉莉奈は「はい!」とぶんぶん
「でも、こないだ外で会うとったやないか」
「せやから偶然やて、何度言うたら解ってくれんねん」
寺島さんが呆れた様に言うと、お母さまは「せやかて」と
「親しそうにしとったやんか」
「そらそれなりに通っとるんやから、店の人とも親しくなるわ」
寺島さんが言うと、お母さまは手に持っていた大きめの白い封筒を寺島さんに押し付けた。
「そんなにここの親子と無関係や言うんやったら、写真見るぐらいはええやろ。ほら」
寺島さんは渋々といった表情で受け取ると、中から淡いピンク色の冊子状のものを取り出した。開いて中を見て「ううん」と
「そりゃあな、確かに
それは極論の様な気がする茉莉奈だ。たが確かに農家の仕事は大変なものだろう。朝も早いし体力勝負。寺島農園さんは週に1度休日を設けているが、そうで無い農家さんも多いと思う。
寺島さんのお宅では、お嫁さんであるお母さまは農作業そのものには参加されず、収穫後の洗浄や仕分け、
お父上と寺島さんが畑に出ている間にお母さまが家事をすることで、作業量のバランスを取っているのだ。
今では農家へ嫁ぐための婚活パーティなどもあると聞く。昔は農家のお嫁さんというと馬車馬の様に働かされる印象だったが、最近ではきっと改善されているのでは無いだろうか。寺島さんのお家が良い例だと思う。
もちろん家事や子育ては365日24時間待った無しだ。だがそれは世の親御さん全てに共通する。農家のお嫁さんだけでは無いのだ。
「同居て。気ぃ強うて口うるさい母ちゃんと同居やなんて、嫁いびりとか心配やわ俺」
「あんたほんまに失礼やな!」
このままだとお見合いとは関係無く親子
茉莉奈はひやひやしてしまうが、香澄は「まぁまぁ」とのんびりとした口調で落ち着いたままだ。高牧さんも「はっはっは」とおかしそうに笑っている。こんなことで動じるふたりでは無いのだ。いつの間にか他のお客さまも自分たちのお話に戻られていた。
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