雲間の青い欠落 kumomanoaiokakera

雨乃よるる

1

 「雨が降っていた。」

 この書き出しは、今まで幾度使われただろうか。

 そんなことを考えながら、いや、それほど使われていないはずだ、とも思う。

 街全体が水につかってしまったようだ。届くのは全て、水ににじんだ光。陽炎よりも激しく揺らめく、LEDライト。幻想的なようで、やっぱり自分の涙で滲んだときの景色と変わらない。瞼の内側は、雨の湿気で濡れていた。

 靴に浸入してきた水で、足首から下は指先まで冷え切ってしまっている。歩くたびに、きらきらした水たまりの赤い光を蹴る。車が音を立てて水を飛ばしていく。濡れきったアスファルトに、何度も。


 傘を見つけた。街灯にぼんやり照らされて、揺れている。私は、その傘に近づこうと小走りになる。小さな車になったみたいに、左右に水を飛ばしながら赤い光を踏んでいく。

 もう少し、あと二、三歩で手が届く距離に入って、私は歩調を前の傘に合わせた。街灯からはもう遠く離れてしまっていて、傘の持ち主はシルエットしか分からなかった。私と同じくらいの身長かもしれない。

 人気のない路地に入り、また大通りに出て、住宅街の合間を抜ける。狭い狭い坂を上って、ゆったりした淋しい下り坂を歩く。幻想的なライトと、申し訳なさそうに俯く街灯を通り過ぎる。

 それぞれの場所で、静寂はいろんな嗤いかたをする。前を行く傘は、ひそひそとした笑い声や露骨な嘲笑を浴びても、同じリズムで揺れ続ける。いろんな闇の色に染まりながら、その形を保ち続ける。

 私のびしょびしょの靴はぴちゃぴちゃと水を蹴り続け、時々思い出したように足音を静める。前を行くあの人に、付いて行っていることを気づかれてはいけない。あの傘のリズムを崩してはいけない。

 闇が急速に濃厚になっていく。もうとっくに日は沈んだのに、闇にはまだ色のレパートリーがあったのだ。空間を満たす雨の中で、ライトが霞んでゆく。あなたの背中も見えなくなるかもしれない。ほら、だんだんとシルエットがぼんやりとして、水の中に溶けてしまう…………


 「ねえ」

 言ってしまった。見知らぬ人に、声をかけてしまった。こちらは相手の後ろ姿に共感を覚えて近寄ったわけだが、相手からすれば、どこの誰とも知らない人から、だ。どう思われても仕方がない、とも、でもこの人は絶対いい人だから大丈夫、とも思った。

 霞んでいたシルエットが止まって、こんどは私が近付くたびにはっきりしていく。あなたはゆっくり振り向いて、私にはどうやっても見えない、見なくても優しいと分かる笑顔を返してくれた。

 あなたの横につく。傘と傘が遠慮がちにぶつかる。意外にも、あなたは私より背が低かった。たいした差ではないが。

 何も話さないまま、またゆっくりと水の中を滑り出す。あなたの水を蹴る音と、私の音が、噛み合わなくて、合わせようとする。難しい。あなたの歩調は、後ろから見ていたら毅然としていたのに、意外と不安定なのかもしれない。私は、自分で一定のリズムを作って歩き出す。あなたが付いて来やすいように。

 雨が強くなると、あなたが霞んで見えづらくなる。だから、はぐれないように、足音をずっと大きくする。あなたを追いかけていたときはちょっとだけ足音を殺していたのに。

 大きな通りに沿ってずっと歩いていた。車は、深夜なのに意外と多かった。でも、どれも機械で、人の乗っている気配はしない。いや、多分乗っているのだろうが、雨が強いこともあって分からない。

 「雨が降っていた。」

 車に乗っているあの人たちは、この書き出しを絶対にしないだろう。だって外で雨が降っていてもいなくても、車の中は絶対に濡れないのだから。

 どれくらいの人が私たちみたいに歩いているのだろうか。意外と多いのか、少ないのかは分からない。でも、ここまで歩いてくるときに遠くの方に揺れる傘が見えたりしたから、きっと私たちだけ、なんてことは無いのだろう。

 そうだ、あなたなら「雨が降っていた。」なんて書き出しも使うかもしれない。雨の世界を、私と同じように必死に傘をさして歩いているあなたなら。根拠もなく、でもはっきりとそう思った。


 いつの間にか、朝になっていた。雲の分厚いカーテン越しに、鈍いわずかな光が入る。雨は相変わらず続いているが、私は空に「あるもの」を発見した。

 初めて見る、青だった。雲が幾層にも立体的になっているその抜け目に、私の目はずっと吸い込まれていく。青、青色、こんなきれいな色初めて見た。あなたにも教えたい。そう思って横を向くけれど、あなたは予想の位置とちょっとずれたところにいて、話しかける機会を逸してしまった。でもいつか言おう。私が、この青に、どうしようもなく惹かれてしまったことを。

 それからはずっと、その青を見続けたまま歩き続け、夜は完全に明け切っていった。

 交差点が、大きい大きい交差点が前に見える。威圧感、圧迫感、それでいて味方になってしまえば大丈夫という安心感もあった。どうしても渡らなければいけない信号の前で、私は立ち止まって、あなたも立ち止まった。

 話したい。この交差点を渡る前に、どうしてもあなたに話したい。この感情を、解って欲しい。どう言えばいいだろうと考えて、考えて、こう訊いた。初めてあなたに話すことに緊張して、あなたの顔は見なかった。見なくたって伝わることを信じよう。

 「私、実は、小説、書いてるんだ。ずっと考えてあっためてた大事なお話があってさ。ありきたりかもしれないけど、『雨が降っていた。』なんて書き出しはどうかな」

 ちょっと、ほんのちょっと、心地いい沈黙があって、あなたは、私には絶対に見えない、みなくても優しいとわかる笑顔で言った。

「良いと思うよ」

「あとさ、あの雲の間に青いかけらが落ちてるでしょう。私あれすごく好きなんだ。だから今から拾いに行きたいの」

 矢継ぎ早になってしまったが、あなたはまた笑ってくれた。ほんの少し明るくなっても、雨はまだ世界を覆っていて、あなたはまだシルエットで、顔が見えないのが残念だった。

 まだ雨は強かったけれど、私は傘をさすのをやめた。これがあると、青が見えなくなる。濡れても良いから、どうだって良いから、とにかくあそこへ、行きたかった。




 あなたが傘をさしていると私が思っていたのは、思い違いだったかもしれない。あなたの傘は私の見ていた幻想で、あなたは始めから濡れたまま堂々と歩いていたのかもしれない。

 もしあなたが傘をさしていたとして、私につられてさすのをやめるかどうかは、わからない。でも、もしあなたがやめたいと思っているなら、その勇気をあげたいと思う。

 交差点では、車がらくらくと抜けていく。時には運転が下手くそな奴もいるが、歩行者に比べたら雨にも濡れずに、安全に走っている。

 これから交差点には、歩行者の数も増えて行くかもしれない。やっぱりそんな気がする。でも、車に乗っている人は青空が見えていることなんか知らないだろう。歩かないと気づかないことって、やっぱりある。


 どうか二人が、上手く交差点を渡れますように。

 私が、雲間の青い欠落へ、行けますように。

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