第26話 消えた幸せ
鷹也からプロポーズされた日から、朱羽子は仕事が手に着かなくなった。
あんなに大事にしてたプランターの花に水をやるのも忘れ、水の入ったコップも何個も落として割ってしまった。
そして、今見たら、絶対に後悔してしまう気がして、怖くて、毎日見上げてた空を見る事が出来なかった。
そんな朱羽子を見て、おかしいと思わなかったのはお客さんではなかった。
やはり、年の功。
マスターだった。
「朱羽子ちゃん、どうしたんだい?何か嬉しい事でもあったのかい?」
店じまいしながら、マスターが尋ねた。
「え!?」
あからさまに朱羽子は驚いた。
自分はいつも通り振舞っていたつもりだから。
「ん?」
「あ…いえ」
マスターに聞かれ、スッと夢から覚めた気がした。
“喜んでいる場合ではない”
そう、言われた気がして。
「私…幸せになっても良いんでしょうか?」
「どうしてだい?」
「私は普通じゃないんです。普通に…幸せになって良い人間じゃないんです」
「うん…そうか。でもね、朱羽子ちゃん、人は誰だって間違いや失敗をする。…と鷹也君も言っただろう?それは、いつか自分の血肉となって、強さや優しさに変わるんだ。だから、心配しなくていい。幸せになりなさい」
「…マスター…」
朱羽子は泣きながらだが、少し肩の力が抜けた気がした。
人生の大先輩である、こんな愛想もない自分を雇い続けさせてくれるマスターに、『幸せになって良い』と言われ、犯した罪が、背負い続けた過去が、何処か遠くに行くようで、鷹也に会う覚悟が、プロポーズの返事をする覚悟が出来た。
ピピピ…、
「はい!朱羽ちゃん!」
(コール一回で出てくれた…)
朱羽子はそれだけでもう良かった。
「鷹也、返事がしたい。あの公園に午後2時、いつものベンチで待ってる」
「うん!うん!絶対遅刻しない!!」
「うん、じゃあ…」
電話を切ると、満点の星空がアパートの窓から見えた。
星々がキラキラ光って、とても…とても…奇麗だった。
「朱羽ちゃん!」
「鷹也」
「30分前に来れば余裕だと思ったのに、朱羽ちゃん早いね」
「うん。なんか…落ち着かなくて…」
「俺も。仕事なかったら、5時間前絡まってた(笑)」
「…」
「…」
2人の間に、しばし沈黙が生まれた。
「あ、の…」
「あ!うん!!」
朱羽子が返事をしようとくちびるを動かそうとしたその瞬間、信じられない、悪魔の声が朱羽子の耳に飛び込んだ。
「岩滑?お前、岩滑朱羽子だろ!?」
「へ?」
突然、全然知らない男性が自分の名前を呼ばれた。
その後は、衝撃でしかなかった。
「何?お前、自分の父親殺しておいて何男といんの?」
そこに突如現れたのは、こんなところにいると思いもしなかった小学校の時の、クラスメイトの男だった。
「父親?殺した?」
“何を言ってるのか”と戸惑う鷹也の正面で、朱羽子の目の前が真っ暗になった。
朱羽子のくちびるが、震えながら動こうとした。
そんな朱羽子の願いをビリビリと破り捨てるように、男は続けた。
「人殺しがいっちょ前に社会に馴染んだつもりかよ?」
「やめて…」
手をグーにして、瞳に涙をいっぱい溜めて、何とか男の言葉を止めようとした。
「なんなんだよ!あんた!」
鷹也は人殺しなんて朱羽子がするはずがないと、その男に食って掛かった。
「あぁ、あんた知んないの?そいつ」
「やめて…お願い…やめて…!」
「10何年間前、自分の父親を包丁でぶっ刺したんだよ。騙されてるだけだって、あんた」
そう吐き捨てると、その男は姿を消した。
「…」
「…」
2人の重い沈黙の中、血に
その朱羽子を見つめる鷹也。
「朱羽ちゃん?」
そのいつもの優しい声で自分の名前を呼ばれたとき、一気にその優しさを…、狂おしいほど、憎んだ。
「…どうして…聞かないの?…私が罪を犯して…それも父親を殺した私に…なんでそんなに優しいの!」
「朱羽ちゃん…」
「その名前を呼ばないで!もう嫌なの!」
「朱羽ちゃん、待って…」
「もう…もう…嫌―――――――――――――――――――――――――!!!」
突然朱羽子は叫んだ。
哀しくて、切なくて、苦しくて、怖くて、…鷹也が…唯、愛おし過ぎて…。
鷹也を残し、鷹也を背に、走り出そうとした朱羽子の腕を鷹也は強引に抱き寄せた。
しかし、朱羽子は強く、キツク、思いっきり、突き飛ばした。
そして、夕陽に身を焼かれ、鷹也の前からいなくなった。
「朱羽ちゃん!!」
鷹也の声朱羽子には届く事はなかった。
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