第15話 『朱』を嫌う。
朱羽子は、橙史を殺した時の記憶に追いかけられていた。
血で真っ赤になった掌。
刺した後の血の海。
刺していくと色々な内臓をえぐって行く包丁の感覚。
朱羽子はその日以来、赤いものを見ると、無性に怖くなった。
息が上がり、震えが止まらない。
そして、接客の合間、朱羽子は、今まで以上に、手を洗っては、濯ぎ、そしてまた洗う…それを繰り返していた。
過去の過ちを消したくて…。
そのうち、水道水さえ血が出ているように見えて、恐ろしくて、店では何とか平静を装いながら、うちへ帰ると、泣きながら手を洗い続けた。
朱羽子は、『加害恐怖』に陥っていたのだ。
その症状は、手を洗う事にとどまらなかった。
赤を連想される自分の名前、朱羽子の『朱』の字さえ、口にすら出せなくなった。
母の温もりを知らず、父を殺し、その父が朱羽子の事で苦悩していた事を知ってしまった…そして、今…もう何をどうしたらいいのか、解らなくなっていた。
何とか夜を超えられたのは、鷹也の撮った『再会』を胸に抱いていたからだった。
只、鷹也の撮った写真が、朱羽子の心の中に何かを落とした。
朱羽子も、鷹也も、気付かないところで、運命は、せわしなく回りだしていた。
*
次の日、午後2時、いつもの明るい声が店内に響いた。
今日は一段と大きな声が。
「いらっしゃいませ。どうぞ」
鷹也がカウンターのいつもの席に着くと、同時に朱羽子が水を運んできた。
「あ!ありがとうございます!!」
「…今日も写真、撮って来たの?」
「え?」
「今日も空の写真?」
「あ!はい!見てもらえますか!?」
子供みたいに鷹也は無邪気に笑った。
「おぉ?鷹也君のファン1号かな?」
「え…?ち、違いますよ!ね…ねぇ?朱…朱羽子さん」
恐る恐る鷹也は初めて朱羽子下の名前で呼んだ。
すると…、
「やめて!!」
店内に客がいなかったのが何よりだった。
朱羽子思いっきり叫んだのだ。
「あ…すみません…!馴れ馴れしかったですよね?」
しょぼんとした鷹也に、
「そうじゃない…そうじゃない。そうじゃないの!こんな…こんな汚い名前、あなたみたいな心の奇麗な人が呼ばないで!」
「汚い?なんでですか?良い名前なのに…」
「良いから…。下の名前では…呼ばないで…」
「あ…はい」
マスターに呼ばれるのと、鷹也に呼ばれるのとでは、大きな差があった。
朱羽子は自分でも気づかないうちに、鷹也に惹かれていたのだ。
あの『再会』を見てから、朱羽子の中で、鷹也は〔うるさい人〕から、〔心の奇麗な人〕に印象がまるっきり変わっていた。
それを、自覚していた朱羽子は、只、怖くて仕方なかった。
こんな殺人と言う恐ろしい罪を犯した自分が、好意を抱いていい人ではない。
そう思った。
殺人を犯した自分が、誰かを、何よりこんなにも奇麗な空を忠実に映し出す、鷹也のような人を、好きになっていいはずがない。
…と、犯罪者として数十年生きて来た自分の、【初恋】を押し殺した。
その日の夕方、ふと喫茶店の窓から空を見ると、空が鮮やかな…朱羽子にすれば罪の色、夕焼けで空が真っ赤に燃えていた。
その光景が目に飛び込んでくるなり、朱羽子は水の入ったグラスを、
ガシャンッッッ!!!
と4つ割ってしまった。
「すみません!すみません!すみません!」
「大丈夫かい?朱羽子ちゃん」
「すぐ…すぐ拾います!」
朱羽子は必死で謝った。
まるで、橙史を殺したのを懺悔するみたいに。
そう言って、割れたグラスを集めていると、人差し指がチクッとした。
人差し指を見てみると、血が円形状に広がりつつあった。
「あ…あ…はぁはぁはぁ…」
「朱羽子ちゃん?」
朱羽子はその場にしゃがみこんだと思うと、過呼吸発作を起こした。
「岩滑さん!?」
朱羽子の傍に鷹也も駆けつけ、マスターが機転を利かせ、さっと紙袋を取り出し、応急処置をしたため、大事には至らなかった。
キィ…。
朱羽子の休んでいたプライベートルームのドアが開く音がした。
「お、朱羽子ちゃん、もう大丈夫かい?」
暖かいマスターの声に、少しホッとした朱羽子。
「あ…はい。すみません。ご迷惑おかけして…」
「良いんだよ。治って良かった」
何処までも優しいマスターがどんなカメラマンだったのか…、一体どんな写真を撮っていたのか、朱羽子の心に鷹也が浮かんだ。
あの人が、マスターのセンスと技術で本当に杉丈太郎を受け継ぎ、あの『再会』以上の空を見せてくれるなら、朱羽子はそれをどうしても、見たくなった…。
朱羽子の初めての、そして、持ってはいけない…と知りながら、抱いてしまった。『希望』『夢』『愛』を、心のどこかで欲しがる…身勝手だけれど、何処からか湧いてくる朱羽子の、そんな顔を、マスターは何となくだけれど、年の功。
解ったのだろう。
「さっきまで鷹也君もいたんだよ。スタジオから急な呼び出しがあったみたいで、さっき帰ったけど」
「そう…ですか…」
「僕がこんな事を言ったらお節介なるが、鷹也君ともう少しおしゃべりしてはどうだろう?朱羽子ちゃんの力になってくれると、僕は思うんだけどね」
「あの人…すごく奇麗な心を持っているんでしょうね。眩しくて、何だかそれが余計に…私は…一緒にいるのがちょっと辛いです…」
そう言って、朱羽子はマスターにバレないように、ちょっと、涙を堪えた。
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