第8話 岩滑朱羽子と言う人
―半年後―
「マスター、岩滑さん、こんちわ!」
「いらっしゃい、青野木君」
もう、すっかり常連となった、鷹也に、氷の入ったグラスを、明るく大声で朱羽子に挨拶してくれた鷹也の席に置き、
「いらっしゃいませ」
形式通りの挨拶をして、すぐカウンターの中に朱羽子は心をも閉じながら、入って行ってしまった。
この半年、鷹也は、自分の作品をマスターに見てもらう為に、毎日のように熱心に喫茶店に顔を出していた。
しかし、その実、写真を見てもらいたいのは、もちろん本心だったが、もう一つ、ここに来る理由があった。
半年前、初めて訪れたこの喫茶店で、余りにも興奮したのは、『伝説のカメラマン』杉丈太郎がいた事だったが、その次に衝撃的だったのは、朱羽子の存在だった。
そう、鷹也は朱羽子に一目惚れしたのだ。
その気持ちも、解らないでもない。
朱羽子は、逃げても、逃げても、自分が犯した過去に囚われ、影があり、暗く、接客業にも関わらず、にこりともしなかった。
唯一、『いらっしゃいませ』『お待たせしました』その2つを繰り返していた。
しかし、朱羽子は、見た目はそれはそれは美人だった。
色白で、目はぱっちり、まつげは、マツエクしてるのか?と思うほど長かった。
鼻もスッとしていて、顔も小さく、髪は自然なままの黒髪で、腰くらいまであって、それを無造作に後ろで一つに結んでした。
そんな、朱羽子に、鷹也はあっという間に、心を奪われたのだ。
グラスを割り、指を切ってしまった時、マイナスポイントでしかない朱羽子の影に、ふと目に入った奇麗な瞳を見た時、この人を守りたいそんな感情を抱いた。
なんでだろうか?そんな感情が一瞬で体中を駆け巡ったんだ。
店に来るようになって、1か月が過ぎた頃、運が悪…いのかはわからないけれど、2度しか会話らしい会話とは言えないが、その話すチャンスも、誰にでも同じようにお客さんに対する朱羽子の行動では、鷹也にだってそれは、公平で、鷹也にだけ話をして、笑い合ったり…、なんて、いつも会話する機会を作ろうと、模索しても、碌に接する事は出来なかった。
そのうち、朱羽子に直接、という事はいったん諦め、マスターから
朱羽子情報を収集しよう!と言う方向に転換した。
*
「マスター、写真は後で見ていただきたいんですが、ちょっと聞いても…良いですか?」
「ん?なんだい?」
「あのウエイトレスの人、名前なんて言うんですか?」
「あぁ…朱羽子ちゃんだよ。岩滑朱羽子」
「へぇ…岩滑朱羽子さん…奇麗な人ですよね…」
「だろ?ちょっと愛想は無いかも知れないけれど、真面目で良い子だよ」
「へー…タイプだ…」
その沈黙したと思っていた鷹也の声は、普通にマスターの耳に入って来た。
「ふはは」
「え?」
「朱羽子ちゃんに、青野木君は恋をしてるという事かな?」
「えぇ!?あの、それは…なんというか…」
「いやいや、そんなに照れる事は無いよ。君の他にも朱羽子ちゃん信者がたくさんいるからね。僕なんか君が言ってくれた通りとすれば、伝説のカメラマンかも知れないけど、ほとんどの人は僕の事なんて知らないさ。いくら自分で決めた事とは言え、全く気付いてもらえないのも、ちょっと寂しい気がするんだが。まぁ、このおじさん目当てに来てくれる青野木君は、とても嬉しかったんだけど、やっぱり君も朱羽子ちゃんに魅了されてしまったんだね。ははは」
そんなに自分が周りの人から好感を持ってもらえてるとは思いもよらぬ朱羽子。
だって、笑顔なんて橙史のDVで消えた。
毎日毎日追いかけて来る恐怖に、今も癒えない傷が疼いて、恋だの愛だのそんな事にエネルギーを使う余裕などどこにもない。
朱羽子は、無表情の中でも、きっと泣いているのだろう。
そんな朱羽子に、半年経った今でも、鷹也がしてあげられることは、残念ながら、何もなかった。
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