19.Side アキト ―新たな命の芽吹く季節に―

19-1 いよいよ

 アキトはケンシロウと二人でひっそりと山村で龍山たつやま荘を営んでいくものだと思っていた。

 子どもが出来なくても、アキトのそばにケンシロウがいればそれだけで満足だと思っていた。

 ところがいざケンシロウが妊娠したと知ると、胸を震わせる感動に思わず涙が零れた。

 アキトとケンシロウが愛し合っている結晶がこうして一つの命として実を結んだことを想うと、ふとした瞬間に胸がジーンと熱くなる。


 孫の誕生を喜んで今まで見せたことのないウキウキした表情を見せるアケミの姿もアキトを幸せにした。


 ケンシロウもアケミもこれまでずっと苦しい人生を生きて来たのだ。これからはずっと穏やかで幸せな日々を過ごさせてやりたい。

 それがアキトの願いであり、決意だ。




 灰色だった木々の枝に萌黄色の葉が芽吹き、新たな命がそこかしこで誕生する春真っ盛りの季節。

 長くて厳しい冬を乗り越えた先に広がるこの生に満ち溢れた光景に、アキトは思わずうっとりと見惚れてしまう。

 都会にいれば、春を感じるのは満開の桜の木々が立ち並ぶ公園で花見をした時や、気温が上がり上着が必要なくなる肌感くらいのものだ。

 だが、こうして自然に囲まれた山村では、身の回りのもの全てが春に染まっていく。

 そして、春が来たということは、ケンシロウの出産予定日まで後僅かだ。


 今年はアケミから畑仕事を受け継ぎ、種まきから収穫までの全てをアキト一人で行うことにした。

 土を耕し、野菜の苗や種を植え、雑草を抜く。

 なかなかの重労働ではあるが、春先のこのポカポカした陽射しの元での作業は心が躍り楽しい。

 それは畑仕事そのものの楽しさというよりも、ケンシロウとの間に宿った新たな命を間もなくこの世界に迎えることへの心の高揚もあるのだろう。

 新鮮な野菜が育ったら、まずはそこ頃には出産を終えているであろうケンシロウに食べさせてやるつもりだ。

 今日も畑に水を撒き、種を撒いた苗床を確認すると、小さな芽がたくさん芽吹いていることに気が付いた。

 やった! アキトが一から育て始めた野菜が芽を出したのだ。


 嬉しくてたまらず、この感動をいち早くケンシロウに伝えようと、龍山荘の中に駆け込んだ時のことだ。

 血相を変えたアケミが奥からすっ飛んで来たのだった。

「大変よ! ケンシロウ君が破水したの!」

「え!?」

 アキトは慌ててケンシロウのいる部屋に飛び込んだ。

「ケンシロウ!」

 アキトがケンシロウの元に駆け寄ると、腹の上に手を置き、苦しそうにうんうん唸っている。

「腹が痛いんだ。アキト、どうしよう……」

 ケンシロウが必死に訴えるような表情でアキトを見て来る。

「どどどど、どうしよう……」

 妊娠・出産を初めて直接目撃するアキトもおろおろしてしまい、すっかり目が泳いでいる。


「今病院に連絡したわ。すぐに病院まで来てくださいって。その痛みは陣痛よ。急ぎなさい」

 アケミはアキトを出産しただけあり、やるべきことを全て弁えている。こういう時に出産経験者であるアケミがそばにいてくれたことは本当に心強い。

「わかった。すぐ連れて行く」

 アキトはケンシロウを抱き上げると、急いで車に乗せて病院に向けて走らせた。


「アキト、オレ、大丈夫かな?」

 ケンシロウは病院へ向かう車中、不安気にアキトを見やった。

「大丈夫だ。きっと大丈夫」

 アキトも不安と期待で胸が一杯になるのを必死で堪えながら、自分自身にも言い訊かせるようにそう繰り返した。

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