3 大使館
馬車に十日ほど揺られて、わたしとヴェルはついにローラント王国へ辿り着いた。
今は王都の通りをゆっくりと馬車で移動している。
活気だった街の様子を窓越しに眺めるだけで、この国がとっても豊かなのだと分かる。同じ王都でもアングレラス王国とは大違いだわ。
ローラント王国はアングラレス王国よりも大国で、大陸では帝国に次ぐ大きさだ。資源も豊富、温暖な気候で農作物もよく育ち、近年では工業化も進んで……まぁ平たく言えばお金持ちの国、なのよね。
そんな国がなぜ目立った資源もない小国のアングラレスを狙うのかしら? 彼らも帝国化を目指して?
考えれば考えるほど戦争の理由が分からなくて不可思議だけど、アンドレイ様がそうおっしゃるのなら彼らが近い未来に侵略しに来るのは間違いないのよね。だって、王子である彼の情報筋なんですもの。
だから、今はわたしに出来ることをやらなくちゃ!
「初めまして、侯爵令嬢。私が大使のガブリエル・スカイヨンと申します。身位は伯爵です」
「ご機嫌よう、スカイヨン伯爵。わたしがオディール・ジャニーヌですわ。これから宜しくお願いしますね」と、わたしは丁寧にカーテシーをした。
スカイヨン伯爵は、これからわたしがお世話になるアングラレス王国の大使だ。彼がここの大使館の全てを仕切っている。
肩までかかったさらりとした青みがかった銀髪に線の細い肉体に玉のような肌で、ちょっと中性的な雰囲気を持っている蠱惑的な殿方だ。
伯爵は以前はアングラレス王国の王宮図書館で司書として働いていたのだけれど、令嬢や夫人たちからあまりにしつこく言い寄られて仕事にならなくて、辟易して外交官に転向したと聞いている。なるほど、この容姿ならレディが夢中になるのも頷けるわ。
「ジャニーヌ侯爵令嬢は表向きは王妃教育の一環として外交を学ぶためにこちらに来られたということになっていますが、実のところは諜報を学ぶためだと王子殿下から伺っております」と、スカイヨン伯爵は確認するように言った。
「えぇ、その通りよ。殿下からは王妃になったら諜報部門の管理を任せたいと言われているの」と、わたしは笑顔で頷いた。
これは真っ赤な嘘だ。
アンドレイ様からは今回の特命は絶対に他言無用だと強く言われている。どこに間諜が潜んでいるか分からないからだ。それは大使さえも疑ってかからなければならないほどの、重大な任務なのだ。
それでも、王太子を籠絡するために自由に動けるように、わたしに「諜報を学ぶ」という大義名分を与えてくださった。これでわたしは、表向きは他国の貴族や役人との外交に励みながら、裏では諜報活動に勤しむことができるのだ。
さすがアンドレイ様だわ。よく考えていらっしゃるわ。
「……なるほど、諜報員としての素質は少しはありそうですね」と、スカイヨン伯爵が呟いた。
「えっ――」
「侯爵令嬢、こちらを」
スカイヨン伯爵はおもむろに長方形の小さな鞄を取り出してわたしの前に置いた。
「これは……なんですの?」
「諜報活動に必要な道具です。こちらでは諜報員には全員渡しております。どうぞ」
わたしは恐る恐るその鞄を開いた。中には小型のナイフや液体が入った小瓶、細い針のようなものや扇子など色んなものが詰め込めれていた。
「ええっと……こちらは?」
わたしは小瓶をそっと取り出して訊いた。
「こちらは一滴で象も殺せる毒薬が入っております。あぁ、その隣にあるものは東方の暗器の一つですね。諜報員はどんな身の危険があるか分からないので常に身に着けておいてください。それと念の為言っておきますが、使い方を間違えるとご自身が死亡してしまう可能性があるので十分にご留意を」
「……………………」
背筋が凍った。
殺すって……死んでしまうって……。
わ、わたしは、と、とんでもないことをしようとしているのかしら…………。
スカイヨン伯爵はそんなわたしの様子を見て呆れたようにため息をついて、
「まさか、本国ではなにも説明を受けていないのですか?」
わたしは震える身体でコクコクと頷く。
アンドレイ様からはただ「情報を引き出すために王太子を籠絡せよ」とだけしか言われていなくて……ま、まさか諜報活動がこんな死と隣合わせのお仕事だなんて…………。
「分かりました。では、私と基礎から学びましょう。道具の使い方はもちろん、交渉術などもですね。まぁ、あなたは高位貴族ですので、自身が有利になるような話術については既にご存知だとは思いますが」
「い、いえ! 初歩から教えてください! 宜しくお願いします……スカイヨン先生っ!」
こうして、右も左も分からない素人のわたしの間諜としての教育が始まったのだった。
これは……絶対に失敗できないわ。
だって、わたしには人を殺したりなんて絶対に出来ない。
これらの道具を決して使うことのないように、慎重に、確実に事を進めなくては……!
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