第20話 これは、あれかもしれません

 それから二時間後。

 おれたちは、ヴァンデルとマーダー卿に連れられ、患者が隔離されているという建物の中にいた。


 入室する前に、スカーフでそれぞれ口元を覆い、シトエン嬢から『できるだけ何もさわるな』と言われている。なんでも、感染症というのは粘膜からうつるらしく、目をこすった拍子に病気になったりするらしい。なので、建屋から出たら手を蒸留酒で洗った方がいいのだそうだ。


「では、あなたのご主人も魚の干物を食べたんですね?」


 一室には、シトエン嬢、おれ、ヴァンデルと、マーダー卿。それから、ナタリーと言う娘がいる。


 彼女の夫は亡命者で、昨年結婚したらしい。


 他の患者たちと同じような症状を出して寝込んだので、ここに隔離されているという。彼女は世話のために毎日通っているのだそうだ。


「あなたのご主人は、今も胃が痛い? 何も食べられない?」


 シトエン嬢とナタリーは椅子に座って向かい合っている。シトエン嬢の質問に答える形なんだが、もう……。途中からナタリー、泣きっぱなしで、かなり時間がとられている。


 おれなんてうんざりしているが、シトエン嬢は立派だ。辛抱強く話を聞いている。


「私が作るスープだけ飲んでいます……」

「他の具合の悪い人も、スープだけ飲んでるのかしら?」


 ナタリーは頬を濡らしたまま顔を上げ、それから「わからない」と首を横に振った。


「集落の人は、胃腸を壊すと、カリスのお粥を作るらしいんですけど……。私は作り方を知らないから……」


 ぐい、と手の甲で涙をぬぐい、鼻をすすった。


「カリスの粥は伝統的な病人食なんです」


 マーダー卿が耳打ちしてくれる。ナタリーはまだ、嫁いで日が浅いから、そういった「代々伝わる」的なものを彼女は知らないのだろう、と。


「だから、実家の母から教わった、豚肉と玉ねぎのスープを……。薄くにんにくをいれて作ったものを、夫に飲ませています」


「わかりました。では、患者さんに会ってみましょう」


 シトエン嬢は言うなり立ち上がる。

 くるりと振り返り、おれたちを見ると、再度念押しをした。


「いいですか。なにかを触った手で目をこすらないでください。息苦しいかもしれませんが、スカーフも外さないで」


 彼女も口元をスカーフで覆っているから、目元しか見えない。だけど、真剣さは伝わる。


 その緊迫感に、おれたちは気を引き締めたのだけど。

 ふと、シトエン嬢は瞳を緩めた。


「ただ……、これは感染症じゃないかもしれませんね」

 そう呟き、ナタリーを促した。


「さ。あなたのご主人のところへ案内してください」

 ナタリーは前掛けのすそで涙を拭い、立ち上がる。


 そうして、いったんおれたちは部屋を出て、廊下を歩いた。いくつも似たような扉が続くが、ナタリーはとある一室で足を止め、ノックをする。


「リーゴ。入るわよ」


 扉を開けて中に入ると、ベッドの背もたれに上半身を預けた、顔色の悪い青年がいた。


「……え……?」


 おれたちの顔ぶれを見て、瞠目する。だが、それも微妙だ。ぱんぱんに浮腫むくんだ瞼がわずかに上がった程度なのだから。


「ヴァンデル様とマーダー様が、この方々を連れてきてくださったの」


 ナタリーがベッドに駆け寄り、青年にそう声をかける。それでも状況が把握できないのだろう。ぽかんと口を開いておれたちを眺めていた。


「初めまして。少し、お話をお伺いしたくて」


 シトエン嬢は緩く笑みを湛えたまま、青年に声をかけた。青年は、震えるように首を縦に振る。


「わたしはシトエンと申します。あなたは?」


 シトエン嬢が首を傾げた。「リーゴです」。慌てたように青年が名乗る。


「医術に通じてらっしゃるそうなの。リーゴ……。あなた、助かるかも……」


 ナタリーは泣きながらリーゴに抱き着く。リーゴはそんな妻の背を撫でながら、それでも不安げにシトエン嬢を見上げた。


「ちょっと、脈を取らせてくださいね」


 シトエン嬢が声をかけると、ナタリーが離れた。すぐにシトエン嬢がリーゴの右手首に触れる。そして眉を顰めた。


頻脈ひんみゃく、ですね。……ちょっと、足をみせてくれますか?」


 リーゴはおずおずと頷き、ナタリーが掛け布団を剥いだ。そのまま、夫の寝着の裾をまくり上げる。


「……痛そうだな……」


 思わず顔をしかめてしまった。それぐらい足の浮腫みがひどい。ぱんぱんだ。ちらりとヴァンデルとマーダー卿を見るが、おれと同じ表情をしていた。


「足は、よく方?」

 シトエン嬢の問いかけに、リーゴとナタリーは顔を見合わせた。


「たびたび、真夜中に……、足がつった、といって目を覚ましています」

 答えたのは、ナタリーだった。


「足首の下にクッションを置いて、少し高さをもたせて横になると浮腫みも楽になるんだけど……。横になります?」


 シトエン嬢の提案に、リーゴはためらいがちに首を横に振った。


寝転ねころぶと、呼吸が苦しくなるんです……。こうやって身体を起こしている方が楽で」


 あ。それで起きてたのか。

 なんか意外だったんだ。重病とかだったら、寝てるイメージがあったから。


起坐きざ呼吸……」

 シトエン嬢が呟く。


「下痢、胃痛、特徴的な脈、浮腫、起坐呼吸、チアノーゼ。……これって、ひょっとして……。かもしれません」


 シトエン嬢はおれたちを振り返って言うが。

 男三人は阿呆のように顔を見合わせた。


 って、なんだろう。


「すいません。カリスってここにありますか?」


 シトエン嬢はナタリーに顔を向けた。おずおずと彼女が頷くと、「見せてください」と伝える。ナタリーは駆けだし、病室を出た。


「あなたたちは、ずっとカリスを食べていましたか?」

 いまだに状況が掴めていないような顔をしているリーゴに、シトエン嬢は尋ねた。


「そう、ですね……。亡命してからも、ずっと。みなさんが、パンを召し上がるような感じです」

 リーゴは訥々と答える。


「お金がないときは、カリスだけのときもありますし……。ナタリーと結婚するまでは、肉なんてほとんど食べませんでした」


 なるほど。マーダー卿が話していた通りだ。


「あの、お嬢様」

 意を決したようにリーゴがシトエン嬢を見上げる。


「その……、自分は死ぬんでしょうか。他の人間みたいに」


 ごくりとつばを飲み込み、リーゴはナタリーが出て行った扉を気にしながら早口でまくし立てた。


「ここに入れられた人間は、どんどん具合が悪くなっていますし……。亡くなっていることもある。自分がここに入れられたってことは、そういうことなんでしょう?」


 額に脂汗をにじませ、リーゴは掛け布団をきつく握りしめる。


「ナタリーを残してなんて……。そんな……。自分はまだ……」


 死にたくない、とリーゴは震えた。


「そうだよな。死ねないよな」


 気づけばおれはベッドわきに膝をつき、リーゴの顔を下から覗き込んでいた。


「あんな可愛い嫁さんいるんだもんなぁ。死んだとしても、ゆっくり永眠なんてできんよ」


 おれだってそうだ。もし、不測の事態が起こって心臓が止まったら。

 魂はあの世になんか行ってられない。


 なによりシトエン嬢のことが心配だ。


 婚約破棄されて、せっかくこの国に来て安堵したのに、今度はおれが死亡。

 もうそうなったら再婚話なんてでないだろうし、なにより本人が『自分のせいだ』と落ち込みそうじゃないか。


 そうじゃない。君のせいじゃない。

 伝えたくても。

 肉体がなければなにも言えない。


「だったら、意地でも生きてやろうぜ」


 リーゴの手をぽんぽんと叩いてやる。握り込みすぎて血管が浮き出た甲が、ほんの少しだけ緩んだ。


「死ぬなんて考えるな。生きることだけ考えよう」


 おれがそう言うと、急にぼろぼろと涙を流し始めるから、びびる。


「おいおい。もうすぐ嫁さん帰って来るぞ。泣き止め」


 苦笑して、立ち上がり、軽くハグをする。「す、すいません」。腕の中でぐずぐずとリーゴが謝る声がしたが、ヴァンデルの咳払いが聞こえて目線だけ向けた。


「離れろ。さわるなと言われたろう」


 小さく命じられ、あ、しまったとシトエン嬢を見た。

 目が合う。

 叱られるか、と思ったが、わずかに目元を緩められる。


 ま、まあ。シトエン嬢も脈測るのにリーゴ触ってたしな、と、いそいそと彼から離れる。実際、シトエン嬢はなにも言わない。口元隠しているから大丈夫だったのかもしれない。これが、なにもなしでハグとかしてたら、怒られていたのかも。


「あの、これです」


 室内の微妙な空気を打ち破るように、ナタリーが戻って来る。両手に掴んでいた麻袋を、シトエン嬢の前で開いて見せた。リーゴはその間に、急いで涙をシーツの端っこで拭う。


 シトエン嬢は断りを入れ、中に手を突っ込む。中に詰め込まれた穀物を、ひと掬いした。



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