影の国
蒼樹とも
第1話
交差点の信号から離れた町の裏。
月の光も届かない静かな路地。
人っ子一人見かけない深夜二時の凱旋。
世界は俺だけのものだった。
ふと、涙が出る。
共に溢れてくるものは怒りと、深い悲しみ。
どこにも行く当てのない感情が少しずつ流れ落ちていく。
俺はこんな時間に何をしているんだろう。
本当は今頃、引っ越しの準備を全部済ませているはずで、朝10時には業者が来る手はずになっている。
「…って言っても、準備なんて出来ないよな。」
それは望んだ引っ越しではない。
つい昨日までは引っ越しの予定なんて無くて、何も変わりない次の日の朝を迎えるはずだったのに。
今まさにやらねばならぬことには手を付けず、俺は何の意味もない深夜徘徊を止められないでいる。
「このままどこまでも逃げてしまおうか。 …でもそうすると、業者にも引っ越し先にも迷惑だよな。今すぐに帰った方が良いんだよな。」
…だけど帰れない。
…帰ったらきっと、俺は立てなくなってしまうから。
そんな惨めな姿を誰かに見せるくらいなら、いっそ死んでしまいたいと思うくらいだ。
「君、泣いているの?」
誰もいないと思っていた世界で、突然聞こえてきた他人の声。
それは俺に向けられた女性のものだった。
「そうですね、ちょっと、…色々あって。」
適当にそう答えながら急いで涙を拭き、声の主である女の顔を見る。
「どうしたの…? 良かったら話…って、神代(かみよ)君?」
「え……?」
そこに立っていたのは、俺と同じ高校に通う女の子。
同じクラスで、俺の席からは斜め後ろに当たる席に座っていたか。
名前は間宮 空(まみや そら)。
小学生の頃からの知り合いで、中学ではバスケ部のエースだったうえに、その明るい性格ゆえ男子からの人気も高かった。
「やっぱり神代君だ。どうしてこんなところにいるの? 何か困りごと?」
「別に。 お前の方はこんな時間に、こんなところで何してるんだよ。」
「散歩だよ。もうすぐ期末試験じゃん。だからテスト勉強してるんだけどね、良く行き詰まっちゃうんだ。で、詰まったらこうして、散歩して、頭の中を一回リセットしてるの。意外とすっきりしてまた勉強できるようになるんだよ。」
「ふうん。さすがは間宮。ちゃんと勉強してるんだな。」
「当たり前じゃない。高校の期末試験なんて、内申に直接関わるんだから、ここで手を抜いたらそれこそ大学受験にも響いてくる。あとで泣き目を見るのは結局自分なんだよ。 …神代君は大丈夫なの? 勉強どころじゃないって雰囲気だけど。」
「なんでそう思うんだよ。」
「だって…。」
その先の言葉を続けるかどうか、間宮は躊躇った。
俺のことを気遣ってのことだろう。
「泣いてないよ。」
少しだけ声に力を入れて、その先に続く言葉に返事をする。
「本当に? 泣いているようにしか見えなかったから。神代君が心配で仕方ないよ。」
「そんなこと気にすんなよ。間宮は自分の内申のことだけ心配してろ。今一番重要な時期だろ? 大学受験するなら、他のことを気にしている余裕なんてないはずだ。」
「神代君は大学受験、受けないの?」
「進路のことはてんで考えれてないんだ。何をしたいのかも分からない。だからテキトーに就職して、金稼いで、なんとなく生きていければそれでいいかなって。」
「そうなんだ。やりたいこととか、将来の夢とかもないの?」
「うん、何も無いよ。もうどうしていいのかも分からないんだ。」
「どうして?」
間宮は純粋な目で、当たり前のように疑問を投げつけては、こちらの事情に足を踏み入れて来る。
…それが少し、しんどくなる。
だから俺は、
「ごめん、それは聞かないで欲しいんだ。」
そう返していた。
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