白日譚

白井戸湯呑

白日譚

 ふと――目が覚めた。

 ほんのりと暖かい空気は、まるで布団の中にでもいるようで、動く気力を削いでいく。少し暑くも感じるのは、学校指定の制服をその身にまとっているからだろう。この制服というものは、どうにも蒸れて気持ちが悪い。

 締めていたボタンを下まで外す。それだけでも多少ではあるが空気が流れるため、熱が籠らず涼しく感じる。

 どこまでも続く白い世界。

 僕だけがいる白い世界。

 半袖の少年やスーツ姿のサラリーマンのひとりすらも存在していない永遠に広がる僕だけの土地。僕だけの空。僕だけの空気。僕だけの世界。

 気が狂いそうになる。

 そんな白一緒くたの世界のくせに、不思議なことに道は見える。道幅は、丁度僕が横になったくらいだろうか。狭くはないけれど、しかし広いというわけでもない一本道が前に広がり、振り向いた先にも見えなくなるまで続いている。前後に続くのは色のない一本道で、世界そのものは前後左右東西南北もわからぬ潔白空間だというのだから、笑い話である。笑うことの適わない、何の変哲もない笑い話。これは、果たして笑い話というのだろうか。

 そんなところで――

 ――ズドン。

 と落雷のような音と共に、世界そのものが振動したような不安な揺れが認知できる限りの空間すべてを包み込んだ。何だと思い、音の鳴り響いた背後を振り返ってみると、真っ白な世界の秩序を乱す、道を埋めた美しい鈍色の角柱。見上げてみても終わりの見えない角柱には、いっそ、神々しさのようなものすら覚えてしまう始末であった。

 また――音がした。

 僕は自然、また降ってくるのかと気持ちばかりの感嘆を覚え、ただ避けるために道を進んだ。

 再び響いた振動の後、振り返ってみると、先ほどまでたっていたその場所に、同じように鈍色の角柱がそそり立っていた。

 そして――

 ――また、音がする。

 僕は、ふと、潰されたら死んでしまうのではないかという被害妄想を覚え、死にたくないから道を進んだ。今度は振り返ることをせず、行けるところまで行ってみよう、だなんて、小学生のような冒険心に突き動かされるがままに脚を回し、何の気なしに走って進んだ。

 音は、間隔を縮めて追ってくる。

 道も、音と共に大地を揺らす。

 僕は、そんな悪夢から走って逃げる。

 ここがどこなのか分からないけど前へと進む。

 自分が誰なのか解らないけど走って進む。

 ここがどこなのか判らないけど前へと進む。

 自分が誰なのか判らないけど走って進む。

 ここがどこなのか解らないけど前へと進む。

 自分が誰なのか分からないけど走って進む。

 ここがどこなのか分からないけど前へと進む。

 自分が誰なのか解らないけど走って進む。

 ここがどこなのか判らないけど前へと進む。

 自分が誰なのか判らないけど走って進む。

 ここがどこなのか解らないけど前へと進む。

 自分が誰なのか分からないけど走って進む。

 ここがどこなのか分からないけど前へと進む。

 自分が誰なのか解らないけど走って進む。

 ここがどこなのか判らないけど前へと進む。

 自分が誰なのか判らないけど走って進む。

 ここがどこなのか解らないけど前へと進む。

 自分が誰なのか分からないけど走って進む。

 どのくらい走ったのかなんてわからなくなってきたところで、道の先が三つに分かれた。右か左か真ん中か。白か白か白なのか。後を追う柱の君は、待ってくれないと僕に言うから、自分の命を直感任せに左に曲がった。理由も理屈もないけれど  理性と理論で左を選ぶ。正解があるかどうかもわからないし、ヒントのひとつも有りはしないこんな白妙の世界なのである。取捨選択のしようがない。

 左に曲がってみたのだけれど、変わり映えしない白銀世界。そんな日常の中を、轟音と激震を背後に感じながらアテもなく、ただ生き残るためだけにただ走る。生に執着する彼の姿を愚かしく、そして惨めで汚らしいと思う者もいるだろう。しかし、彼は人間であり、何よりひとつの生物であるのだ。他者を騙し、自分を騙し、バランスをとって積み上げた席に座っているのだとしても、生きているのであれば、ほんの一秒だとしても長く生きたいと願ってしまっても構わないのではないだろうか。

 生き汚くても、生きるべきだ。

 僕は、そんないつ言われたとも知らない脅迫的なまでに強く背中を押すその言葉に突き飛ばされるように、純白の世界をひた走る。

 すると、何やら今の今まで色も何も存在し得なかったこの世界に、ぽつりと、峠の天辺にでもありそうな、質素な茶屋が地平上に見えたのである。

 近付くほどに見えてくるその全容に、心の高鳴りを抑えきることができない。 

 榛摺色の甍の屋根に、木製の板材がふんだんに使われた古き良き時代の壁面。紅葉色の布が敷かれた縁台は、ただ一台のみ壁に沿って置かれており、深い茶の香りが十全に僕の嗅覚を刺激する。

『あそこは安全である』

 そんな確証もない思い込みを、不思議と僕は思い込んだ。

 そう思ってしまったが最後、今までどうしようもなく忘れてしまっていた孤独の心細さが解凍されて、人のぬくもりを求めるバケモノとなり果てた僕は、その茶屋へと足を延ばした。行くアテがなければここがどこかもわからないのだから、先を急いでも意味がないという言い訳を胸に、一人のバケモノは疾く駆ける。

 未だ道を埋めながら追ってくる角柱のことなんて既に念頭になく、ただ貪欲なまだに孤独を恐れる軟弱者は、いつしか、茶屋の周り生えていた芝の中へと足を踏み入れた。すると奇妙なことに、先ほどまで背後にぴったりと着いて回った落下物の音は消え、音が消えれば必然的に揺れも収まることとなった。既に落下を果たしている道を蹂躙し尽くした金属柱をチラリと覗き、あんなものにと想像してしまい脊髄が冷える体験をする。

 嫌だ嫌だと眼を逸らし、僕は逃避するために茶屋の席に着く。席に着いたら僕の存在は客へと昇華したらしく、茶屋の中から和風メイド姿の太正浪漫漂う十四くらいの少女が出てきた。様子からしてこの店の店員だと言うことが認識可能だ。

「いらっしゃいませ、お客様。ご注文はお決まりでしょうか?」

 外見にそぐわぬ機械的な返答に驚きはしたものの、そういう人もいるだろうと気持ちに整理をつけ、注文を行う。

「あー……では、お茶と団子を」

 そのくらいが無難だろう。

 しかし、無難というものは時として牙を剥くのであった。

「『お茶とお団子』ですか……。お茶にもお団子にも様々な種類があるのですが、どちらに致しましょうか?」

 この時、僕の頭の中はそれなりにパニック状態に陥っていた。この茶屋の商品の顔ぶれを知らないし、そもそもお茶と団子の知識そのものが曖昧なのである。

 何か喋ったらボロが出る、という思考に勇気が蝕まれ何も言わずに呆然としていると、茶屋の娘は少しの躊躇を見せた後、口を開いた。

「お茶は緑茶や抹茶の他に、烏龍茶や紅茶もあります。お団子の方は焼きや磯辺、三色にきな粉もあり……ます」

 親切丁寧な説明に、僕は多少気圧されてしまう。

「えっと……」それに、どうやら僕は他人より優柔不断なのかもしれない。「じゃあ、オススメで」

 折角お品書きを教えてくれたのに、選べないのだから……ロクでもないというものである。恥ずかしい限りではあるが、致し方ないということでここは一つ手を打たせていただこう。上手く頭が働かないのだから、僕は悪くないだろう。

「では、少々お待ち下さい」

 そう言い、軽く頭を下げた少女は茶屋の中へと舞い戻っていった。

 こうして再び孤独になってみるとわかるが、人生という大きな流れで見ればただこ瞬きほどの一瞬の関わりであったとしても、孤独の寂しさというものはいくばくかの倍数に増幅せざるを得ないものなのであろう。実際に体験してみないと理解できないだなんて、人間は何と不便なのだろうか、と感じ入る部分がある。いっそ絡繰の類いであれば、だなんて思いふけ、何の気無しに空を見る。

 白い――

 透き通るような蒼なんてただの一片すらも存在し得ない――

 漂白された――

 汚れのない真っ新なシーツのようなソラが張り付いている――。

「はぁ……」、だなんて深く短い傲慢なため息一つしていつか見た無窮の彼方までをも届く高い空を夢見ながらにして、視界に映し出される映像をソラから大地へと引き下げる。短い芝がこの茶屋を中心に十メートルばかりの円形に生え茂り、突如途切れた芝の先にはソラと同じくして降り積もった誰の汚れも受けていない雪のような潔白な大地が続いている。

 白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白白。

 狂おしいほどの白。

 狂いそうなほどの白。

 狂い裂くような赤い白。

「全く……」

 ふざけにふざけた喜劇である。

 ふと、鈍色に不気味な輝きをあからさまに秘めている天まで届く金属柱が目に留まる。進んで道を殺し尽くし、振り返ることを許さないあの物体群に、僕は不思議と人生を見出した。

「はは……」

 枯れた嘲笑が自然と漏れる。

 所詮それも最後の一鳴きであり、漏れ出したそれ以外は合切として声として溢れ出すことはなかったのだった。喉は潰れたように一切の声を出すまいと空気を遮断し、呼吸することすらもままならない。

 呆然と、果てに見ゆる白亜の壁を眺めつつ、同じく白紙に戻された頭で感じ取る。

 ――ここはどこなのだろう。

                          。るすが配気いしか懐――

 ――僕は一体誰なのだろうか。

                        。しなは止停もてっあ白空――

 ――そういえば、金はあったかな。

                         。はてくなさ出げ逃く早――

「お待ちどう様です。緑茶と三色団子になります。お茶の方、暑くなっておりますのでご注意下さい」

 彼女は、暖簾を左手でちょいと退けて、反対の手には湯呑みと団子の乗ったお盆を持ってなってくた。

 心拍は止まらない汽車のように高鳴っている。

 彼女から視線を外せるハズもなく、同時に彼女が僕を見ることは有り得なかった。

 息が苦しい。

 当たり前だ。呼吸の仕方なんて忘れてしまったのだから。

 だから。

 視界が揺らぐ。

 貧血だろうか? 震撃だ。

 死後硬直のように凍っていた僕の体は、どこか遠い国からの声で動き始める。仄かな赤が頬伝って垂れていく最中に、僕は彼女の元から逃げるように去っていった。

  死。死。

   死。

  死。死。

 彼女。

 茶屋の娘。

 茶と団子を持って出て来た彼女は、気付く素振りも見えぬ間に――瞬く間に落下してきた角柱に――ぐちゃり、と――丁度蟻でも潰すようにーー何の感慨もなく――ひと刹那の間に――■■に――。

 死ぬ。死ぬ。死ぬ。

 死ぬ。死ぬ。死ぬ。

 死ぬ。死ぬ。死ぬ。

 僕もあんな風に、無意味に、無価値に、無慈悲に、無作為に、無機質に、無惨に、無理強いに、無尽蔵に、無関係に、無生産に、無機物に、無安打に、無詠唱に、無益に、無音に、無形に、無垢に、無口に、無下に、無辜に、無差別に、無責任に、無造作に、無担保に、無知に、無知に、無痛に、無敵に、無添加に、無抵抗に、無頭に、無能に、無敗に、無反応に、無表情に、無比に、無風に、無防備に、無謀に、無味に、無銘に、無闇に、無夢に、無用に、無欲に、無類に、無論に、無和に、何を残すこともできないままに死に絶えるのだろうか――?

 ――そんなのは嫌だ‼︎

 僕は、こんな誰もいない所でなんか死にたくはない! 一人……たった一人でいいから、誰でもいいから、誰かに覚えていてほしい! 僕という人間が生きていたことを――無かったことにはしないでほしい!

 僕は――そんな愚か極まりない自己中心的な思考を一心に、在りもしない道を突き進む。全ては僕の妄想が産み落とした産物で、根こそぎまとめて夢幻ならば、なゆて逃避をするが、しかし、現実はどんなに突き詰めても引に見たとしても現実であり、それ以上にも以下にもなり得ないリアルなのである。

 真実に生きることは善に生きることと同等に厳しいものであることは、虚偽と悪に生きた者を知る私とて知るところではあるのだが、やはり、どのようなリアルであれ住めば煉獄というものであるという事実だけは変えようのないリアルの一片として、希望もなく煌々と輝く北極星のように不動としているのだ。

 彼は駆けた。

 目的もなく、希望もなく、何人であれ通さざるという確固たる未知の信念に反して――彼は駆ける。

 背後に迫る金属柱は未だ止まるところを知らず堕ち続け、彼も心に開かれた過負荷の洞に突き動かされるがままに操られる。逃げる者を追う者の猿芝居ではあるものの、猿芝居であるが故に終わり終わらぬ追走劇。

 日が二度落ちて三度昇ったほどの体感の後、僕は極点へと到達することとなった。

 朱色に染め上げられた鳥居は真新しいようであるが、その実想像することすらおこがましいほどの歴史を積み重ねていることを直感的に理解することとなった。鳥居の先へと続く道も同じく、対極にあたる二つの時代をその身にひた隠しているようであった。しかし、不思議と不気味さを感じることはなかった。感じるのは不気味さなどではなく、これまた反転した安らかな、心の底から落ち着くことのできる空間であるという事実だったのだ。

 茶屋と同じく、この色づいた世界へと踏み込んだと同時に柱の落下は収まることとなった。唯一異なる点は、柱の埋めていた背後の道すらも砕け、崩れ、破壊の限りを尽くされた残骸のソレらが、どことも知れぬ奈落の果てへと落ち去っていったということだけである。

 戻る道は既に絶え――

 ――進む道のみ示される。

 今の今までと何か変わるのかと訊かれれば、「どちらとも言えない」と答えざるを得ないけれど、この変化は、体験している僕にとっては天地の乖離に匹敵するほどの大きな革命的事象であったことだけは知っておいてそしいものである。心の持ちようと言うやつで、根本的な現象そのものに変化が見られなかったとしても、それを取り巻く空間と状況が異なるだけで死から逃げ続ける緊迫感というものはどこか知り得ぬ奈落の果てへと姿を消すものなのであった。

 心の持ちよう。

 心、である。

 どこに存在しているのかすらわからない心というものが、人間にこれほどまでの影響を与えるのだから、人間の不完全性と可能性を指し示しているようではないだろうか。或いは、心があるからこそ人間は不完全でありながら可能性を含めるのか。

 どちらにせよ、心が無ければ人は生きていけないものだろう。

 心が無い人間なんて存在していないことそのものが、その裏付けと言えよう。

 そんなことはどうでもよかった。

 今大切なのは――。

 石畳の道。

 白日の元に構えた鳥居を抜けた先に広がった、幻想的でありながらにして現実的な巨大な固有領域。白い世界にぽつりと斜に構えていた鳥居と石畳のみが敷かれていたのに、その鳥居を抜けた先には静かな森林の中に広がった整えられた小さな神社が祀られていたのだ。

 不思議だった。

 色とりどりが、不思議だった。

 鳥居を抜けるまで視認できなかった森林が左右に広がっており、その森林にも色がある。茶屋では起点から半径十メートルほどの円形のみが色彩を帯びており、その先からは同じく白紙の世界であったため、こうして色鮮やかなだけの世界というのは物珍しく感じてしまう。

 神社の礼儀作法などもうろ覚えながらにしっかりと守るように心がけて、僕は石畳の道の端を歩いて、惹かれるように本殿へと向かう。途中、手水舎が見えたので、手と口を清めた後に本殿へと辿り着くことにした。どのようなものが相手であれ、礼儀を弁えることは人としての最低限の気遣いであることを忘れてはいけないだろう。

 静寂の鳴り止まぬ豪奢で物静かな石畳の果てには、煌びやかさのカケラもないほどに質素であり、新しい時代に取り残されてしまったかのように古く煤けた頽廃空虚な本殿がその姿を露わにした。

 ――威圧。

  ――威圧。

   ――威圧。

 何の神が祀られているのかすら知るところではない僕が、それが当たり前であるように、あるべき形に戻るゴムのような、一切の疑問も疑惑もないままに――膝を折るほどの神圧。抗おうという考えも、抗えという伝達すらも赦されぬような、到底辿り着くことすら赦されざるまでの上位存在の気配。

 いや。気配というよりも、空間。

 この地を染める色という色のその全ては世界からの強制力すら上回るこの御身の賜物であり、其の空間こそ其の者の御身であるのであろう。

 何という無礼であろう! 御身に土足で踏み込もうとは‼︎

 今すぐこの首捻じ曲げて、その血と肉体で最低限の謝意を示さなくては‼︎

 脳ではなく精神で――いや、最早魂からそう愚行した僕は、即刻この場で謝罪の意を示すために行動に移そうと腕を頭部に回した。人間としての生存本能は働くことをせず、流れるように自身の肉を壊す術は実行されてゆく。

 せめてもの情けとして、一息の内にこの首捻ってやろうと肩をも使って大きく息を吸ったその時、僕のその行動に静止の命が刻まれた。

 誰が――などという野暮なことは言いたくはないけれど、文に記すこの形をとっている故、彼の御方について記そうと思う。

 其の御方は本殿の戸より出て、一声に僕の魂までをも停止させたし。指の一本をも、筋繊維の一本をも動くことを赦さぬその声に、僕の身は動けるはずもなく其の御方の御前というのに伏したることが許されなかった。

 僕は罪にも其の身を一目見たいという十部の好奇心に唆されるがまま、ちらり、と視界を上げ、其の御方を見たり。本殿の戸を開き、奥より僕を見たのは、白銀の体毛に包まれた九つの尾を持つ狐であった。白くて、白くして、白々しい――あからさまなまでに純白な、そんな白銀の九尾の狐。

 しかし、其の御方の御身を視認するなどという愚行を、僕は自分自身で許せなくなってしまい、其の御方の御姿を見たこの両の眼球を抉り出してやろうと思い立つこととなった。思い立ったが吉日、と、左右それぞれの親指にてこの両眼を潰し抉ろうとするも、身体は動くことをしなかった。

 其の御方からの御容赦である。

 しかし、寛大な御心というものは常に我ら下々の者にはあまりにも眩しすぎるものなのだ。死んだ人間は動かなくなるが如く、罪に対する罰を欲する。怒って欲しいのだ。正してくれる者が欲しいのだら、それなのに――誰も彼も其の御方すらも罰しない。誰も僕を罰しない。

 失望。

 勝手に望んで、勝手に失落する。

 生まれついての人の業。

 狐は問う。

 お前は何だ、と。

 僕は答える。そんなことは知らない、と。

 狐の問う。

 貴様は詐称者の手の者か、と。

 僕は答える。

 誰だそいつは、と。

 狐は問う。

 ならば貴様は何者だ、と。

 僕は応える。

 そんなものは知るところでない、と。

 出て行け、と狐は怒鳴った。

 出してくれ、と僕は懇願する。

 出て行け、と狐は咆哮した。

 ここから出せ、と僕は喚いた。


 そんな、よくある日曜の夜を過ぎた。


 ふと――目が覚めた。

 知らない天井だ。

 無機質で人の心も何も感じられない白い天井は、まるであの世界の一部のようで気味が悪い。

 よくわからないから、取り敢えず天井を見なくてするのならと思い身体を起こそうとした。すると、全身に鈍い激痛が走り抜けて、そのあまりの痛みに僕は背後のベッドに倒れ込む。

「………………ッハ」

 あまりの痛みに一時呼吸を忘れて悶えることとなった。

 そんな僕の姿を見た看護師のような服装をした女性は、手助けするでもなくどこかこの部屋の外へと出ていった。戻ってきたその女性の隣に立っていた初老の男性が白衣を着ていたことから、この場所が病院であるのだろうという仮説を立て、それは見事に立証された。わかりきっていたことだけれど、少しでも自己肯定感というものを育んでいないと死んでしまうのでは無いかと感じたのだ。

 その男は片手をこちらに出して気色の悪い微笑みを浮かべた顔で僕に話しかける。

「はじめまして、千代川真英くん。回復おめでとう。私の言っていることがわかるかな?」

 僕はただ、呆然と彼を見た。

 不思議すぎて、不可思議すぎて、異常すぎて、非常すぎて、何をいうこともできなかったのだ。何を言ったらいいのかわからなかったのだ。

「まあ、無理もないことだよ」

 何を勘違いしたのか、ソイツは打って変わって哀れむような色に変わって僕に語りかけてくる。胸のあたりがイガイガして吐き気を催したが、奥歯を強く噛むことでその感覚を押し殺した。

「君はね、ある無差別殺傷事件に巻き込まれて重傷の傷を負ったんだ。肋を抜けて、心臓を一突きだった。とても助かるような傷ではなかったのだけれどね、君は奇跡的に生きているんだ。どうやら、心臓のギリギリ手前でナイフが止まっていたようでね」

 同じ色をした目の前の二人に、僕は不思議だったから質問をした。

 わからないことは、訊くべきだから。

「あの……」

「どうしたんだい? 千代川くん」

「あ……いえ……」

 しかし、とても言えることではなかった。だから、適当にお茶を濁して彼らが部屋から出ていくのを見送った後に密かに吐いた。

 だって、言える訳がない。

「なんで、あなた方はそんな色をしているのですか?」

 だなんて、言える筈がないだろう。

 それから僕は一人、この光について考えてみることにした。病院生活というものは思ったよりも酷いもので、家畜のように全てを管理されて、哀れみと善意と微かな怒りの色の中で常に息をしなければならないのだ。気持ちが悪いことこの上ない。

 この光がなんなのかは、数日かけて見たくもないけれど目を逸らさず観察をしたことで少しづつだけれどわかってきた。

 まず、色は生き物全てに見えるようである。このベッドの傍に飾られている花瓶に挿して置かれている花は、よくわからない色で染められていた。

 そして、この色は他の人には見えていないらしい。こんなものが見えないだなんて、羨ましい限りである。

 この色が何を示しているのかはよくわからないけれど、あまりにコロコロと変化するそれは、人に対する信頼とでも呼ぶべきものを僕の中で音を立てて瓦解させるに足るものであったことは違いがない。

 それに何よりも――これを見ているのは気持ちが悪い。

 僕の中の光が、ぐちゃぐちゃに塗り潰されていくような気分になる。

 気持ちが悪くて仕方がないから、静かな場所へ行こうと部屋を出た。看護師に止められたから窓から飛び降りた。飛び降りた先には塀があったから、僕はそれを乗り越えて何処へともなく走って逃げた。林の中も色で満ちていた。理解できない色だけど、気持ち悪いことに変わりがなかった。林を抜けた先には草原があった。草原ほどの草の高さだと、色が気にならず心が程々に休まった。休まったから、ここに居ようと思った。ここで果てるのも良いかと思った。寝っ転がって目を瞑った。瞼の裏には僕の色が写っていた。気味の悪い、僕の色が。

 ふと――。

「そんなところに寝転がっていたら、危ないんじゃないかい? 誰にも知られず殺されてしまうよ」

 だなんて、物騒な声が聞こえた。

 重い瞼を持ち上げてその声のした方へと視線を向けると、まるで死神のような男がそこに立っていた。いや、男と表現するよりも、少年、といった雰囲気だろうか。彼の色よりも外見はよほど若くて、どんな人生を送ってきたらそんなツギハギだらけの人生になるのだろう、だなんて不思議に思うようなラクガキだった。

「すみま……せん」

 と、自然に言葉が溢れる。

「謝ることではないさ。ここは、誰の場所でもないんだからね」

 と、彼は語る。

 僕は四部の恐怖と六部の好奇心の元、君は誰なのかと訊いてみた。

 少年はその質問が不思議だったのか、首を傾げて「んに?」なんて可愛らしい声を上げた後に、「なんでもない語り部だよ」、だなんて意味のわからないことを言った。

 意味がわからなかったから、どういうことかと訊いてみた。

 どうもこうもない、と少年は微笑んだ。

 そんな他愛もないそれが、僕と彼とのファーストコンタクトだというのだからわからないものだ。

 黒より黒く、白より白い少年と僕の色付く世界の話は、こうして初まるでもなく終わるのだった。



                                    fin.

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白日譚 白井戸湯呑 @YunomiSiraido

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