消えた少年

 ここ半月余り、遠夜は一本遅い時間帯のバスをあえて利用していた。同じ学校の生徒がちらほら乗っているため、始業時間五分前に到着することを焦る必要がないからだ。何より車内が空いている。いつも乗車しているバスで座席を獲得できるのは極稀であり、すんなり座れるのはありがたいことだった。だが、これは本心ではない。

 遠夜は傍らの寝顔を一瞥し、また書籍に視線を落とした。少年は肩に寄りかかって、気持ち良さそうに寝ている。最近は会話を交わすより、ただ一緒にいるだけのほうが多くなった。定期入れを見て満足したのか、あれ以来しつこく訊いてくることもない。

 少年とは平日の朝、毎日顔を合わせるのが日課となっていた。大抵遠夜が先に乗り込み、時たま少年のほうがより早く着席していた。実のところ、遠夜は少年の名前すらまだ知らない。はぐらかされるか、覚えていないことを拗ねられるか、いずれにしろ真っ当な答えを期待するのはやめてしまった。

 バスが十字路を左折する。肩に置かれていた少年の頭が、弾みで遠夜の胸部に当たった。幸いにも書籍を枕にされる前に少年は目覚め、遠夜の脚や腕を頼りにして彼は起き上がった。うんと大きく背伸びをして、やっと自分の席に落ち着く。

「君がなかなか起きないから、危うくバスから降り損ねるとこだった」

 書籍を鞄に仕舞った遠夜は、皮肉まじりに降車ボタンを押した。定期入れを取り出した遠夜に、少年はけろりとした表情で言う。

「僕を連れて降りればいいじゃないか」

「君を連れて? 定期入れみたいに、持ち運べっていうのか。それに、君は一度だって次の停留所で降りたことがないじゃないか」

 遠夜はわざと刺のある言い方をした。それにも関わらず、少年は手を後ろに組んで平然としている。だが、視線はチラチラと定期入れへ動き、気に入らなそうに鼻を鳴らした。

「僕だって降りてるさ、遠夜が見ていないだけで。だって、そこまでしか行けないんだから」

 少年はまた意味深なことを話す。少しして乗降口が開き、外の吹雪が車内を駆け巡った。今朝は一段と冷え込み、視界が不明瞭なほど天候が悪い。急いで校舎まで走らないと、あっという間に雪男になりそうだ。

 言葉とは真逆に、少年は席を立とうとする気配がない。痺れを切らした遠夜は、少年の手を掴んで念を押した。

「いいんだな。本当に君とこの停留所で降りるよ」

 驚いた顔をする少年を無理やり通路に立たせ、後に席を離れた遠夜が先だって乗降口へ向かう。運転席で立ち止まった遠夜は、もたもたする少年の腕を片肘でつっつき、定期券を車掌に見せるよう促した。

「……わかってるよ」

 少年は、渋々ダッフルコートのポケットから定期入れを取り出す。その瞬間、遠夜は自分の目を疑った。以前使っていたパールホワイトの定期入れとそっくりだったからである。アクリルでできたそれは、角のひとつがひび割れており、特徴も遠夜の持っていたものと一致していた。

「君がどうしてボクの物を……」

「今はそんなことはいいだろ。とっとと外に連れていきなよ」

 少年に言われるがまま、遠夜はバスから飛び降りた。テールランプは忽ち見えなくなり、雪の砂漠に置き去りにされた二人を強風が襲う。斜め後ろにいる少年が何かを叫んでいるが、耳に吹雪が打ちつけているため、よく聞こえない。

 遠夜は少年の手を固く握り締めて、十メートルとない校門まで走った。距離感がよく掴めなかったが、わずかに残された足跡を辿り、校舎まで一気に走り抜ける。玄関へ入ると、それまでの視界が嘘のように開け、くぐもった唸りも遠くのものとなる。

 ひと息ついて、遠夜は少年を振り返った。凍てついた手の感触が確かにあったはずなのに、少年の姿はどこにもない。途中ではぐれたのだろうか。玄関扉からは、校門の位置さえ判らない。

 始業時間を知らせるチャイムが鳴る。我に返った遠夜は、急いで教室へ向かった。

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