BWV857 月にいる

 そうしてわたしは、月にいた。どこにも他人のいない、音のない孤独に。

 空には青い惑星が見えた。ぽっかりと、神の頭蓋骨のように浮かんでいた。見上げているのか、見下ろしているのか、わからなかった。あそこにいたとき、月は見上げるものだった。いま、わたしはあそこにいない。切り離された過去のように、実感のない遠さに霞んでいた。それでいながら輪郭は鮮明に。暴力のような存在感で現前していた。

 わたしはもう関係ない。わたしはあそことは無関係だ。わたしはいま、月にいるのだから。

 わたしは冷たく、わたしは淡かった。月にはなにもない。わたしの意識しかここにはない。意識? 意識なのか、これは。なんと呼べばいいのやら。わたしは、名前もなくわたしだった。そしてわたしは月にいた。

 わたしは月面を歩く。足のないまま。わたしの足跡は残らない。だからといって、存在していないわけではない。とはいえ、声高に主張したいわけでもない。わたしはなにも伝えないし、伝える相手もどこにもいない。月にいるというただそれだけだ。そして歩く。歩く理由もないけれど歩く。

 歩きながら、歌ってみる。音はない。音のないまま歌っている。喉はなく、声もない。耳を持ち合わせた他者もいないし、震えてくれる空気もない。なにもない歌を、なにもないまま歌っている。わたしは歌っていた。静かな月に、静かな音楽が流れた。静かな沈黙だったのかもしれない。わたしはこれ以上ないほど静かに、存在していた。月にいた。生まれたときのように、いつのまにか。

 あの青い惑星を見ていると、他人というものを思い出す。以前、わたしの周りには他人がいた。他人から見れば、わたしが他人だった。理屈ではわかっても、確証は得られなかった。それはいつも推論にとどまった。わたしは他人にはなれないから。わたしにとって、わたしはどこまでもわたしだから。他人の実在にも疑念は残った。わたしが消えても、他人はそこにいるのだろうか?

 空に浮かぶあの青い惑星を眺めていると、他人は本当に他人だったんだなと、ようやく実感できた。関係が切れたいまになって、他人が存在することを受け入れ、慈しむことができた。もう関係ないから。無関係なら、いくらでも容易に愛せるから。それを愛と呼べるのなら。

 わたしは無限に優しく、無限に冷たかった。だれからも離れられたいまになって。わたしはだれもいない月にいた。だれも聞かない歌を歌っていた。わたしは気ままに散歩していた。無人の月の、無謬の大地を。罪もなく、夢もなく、わたしは満たされたようにここにいた。わたしはいま、月にいた。暗くて、冷たくて、ずっと静かなままのここに。もう届かない他人を見上げるように、見下ろすように、遠い青さを懐かしみながら。

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